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2012年7月22日日曜日

近い者となったのである(エフェソ2:11-21)

聖霊降臨後第8主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月22日・10時30分 聖餐式・洗礼式


今日、これから洗礼式が行われることは、非常に嬉しく思う。さらに、洗礼式が行われる日に、今日のエフェソの信徒への手紙が読まれることになっているのも、心から神に感謝したいことである。神の計画としか思えない「偶然」だと思う。

僕のワイフのお父さんの本家は福島県の相馬市にある。海(松川浦)のすぐそばにある。

今まで、お盆休みに何回も訪問してきた。本家は古い長屋で、すべての障子を全開するとずっと広がる空間になる。真夏の風通しがいい。

来日した外人として初めてこの国の国民に受け入れてもらえていると実感したのは相馬でのこと。訪問すると初日、みんな何を言っているか全く理解できない。福島弁が強くて(ヒラメ→ヒラミ)。だけど、そのうち耳も慣れ、みんなと溶け込んで、楽しく過ごすのである。

夕方になると、親戚大勢が集まって夕食をする。女性たちは台所でせっせと働いて、男性は居間でせっせと焼酎を飲む(CCLemon割で)。そして順番にお風呂に入って、寝る。

本当に家族の一員として認められていると感じたのは、お風呂上りのおばあさんが堂々とズボンだけで僕もいるところに座って髪にブラシをかけ始めたときである。

残念ながら、3・11のときに家はかなりダメージを受けて、海辺も不安なので、本家はもはや存在しない。(グーグルマップで見たら空き地となっている。)
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本家がない。まさにこの世におけるわたしたちの悲しい状態である。キリストなしでは。

これがパウロが言っていることである。この世では、わたしたち人間は本当の本家がない、ということ。さらに正確な表現をすれば、アダムとエバの罪のせいで園にいられなくなってしまったと同じように、わたしたち人間の罪によって神の平安に留まることができない状態にあるのだ、ということ。

パウロはエフェソという町(現在のトルコの西海岸にある)に住んでいるクリスチャンにこの手紙を書いている。イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人もいるかも知れないけれど、異邦人(ユダヤ人でない人)の方が多いコミュニティである。

(初期教会では、異邦人がクリスチャンに改宗するとき、男性が割礼を受けるべきかどうかという論争があった。モーセのときから、割礼が神の民に属しているというユダヤ人にとって最も重要なしるしなのである。熱心なユダヤ人としてモーセの律法をきちんと守るべきだと強く思っていたパウロは、イエスに出会ってから心ががらっと変わり、割礼ではなくてむしろ洗礼が神の民に属しているしるしとなる立場を取った。)

とにかく、パウロはエフェソの兄弟姉妹にこの手紙を書いているのは、救われている喜びを思い起こしてもらうためである。以前に彼らが置かれていた状態と今の状態を比較したいのである。つまりBeforeとAfterの話をしている。

Beforeは本当に悲惨な状況だった。今日の箇所のちょっと前を読むと:
皆さん、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する[悪の力、神に反抗することをそそのかす悪の霊]に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆...以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:1-3)

生々しい言葉になっているけれど、実はごく日常的なことを話している。神のことや周りの人のことも考えず、自分のことばかりを考える、自己本位的な生活をする人たちの話である。都合のいいうそをついたり、ささいなことへのしっとに満ちた心を持ったりする。つまらないことで怒り出す。また、結果をあまり考えずに、とりあえず欲しいものを手に入れる人。自分が満足すればいいと思う人。

つまり、あなたたちは神がいないかのように生きる、神に対して、神が造ってくださった世界や他人に対して何の責任も持たないメンタリティーを持っていた、とパウロが言っているわけ。しかも、それが当たり前のことだと思っていたわけ。

でもそういう生き方は最終的にむなしいということを悟っただろう、と言っている。自分のために生きる人はすでに死んでいる人。欲を満たしても、時たま満足感を味わっても、あまり中身のない楽しみがあっても、真の喜びも平和もない。天国への望みの持てない。
そのころ[あなたたち]は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました(エフェソ2:12)

しかも、自分のために生きる人は、つまり罪深い人間は、神の愛の中に居場所がない、と言っている。神から「遠く離れている」(17節)状態にある。神の国から見ると外人になっている(19節)。神の存在を怒りの存在として感じ取ることしかできない。
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ところが、そういう悲惨な状態にある人のためにこそ、み子イエス・キリストが遣わされたのである。神はご自分を敵対している人間を友達にしたいのである。一人一人の人間は神にとって愛しい存在なのである。

パウロは2章の5-6節にはこう書いている:
神は、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして...キリスト・イエスによって共に復活させてくださいました。(エフェソ2:5-6)

これこそ洗礼の正体。死んでいた人が復活させられるのである。だから:
「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2:13)
また:
「十字架[の自己犠牲]を通して、キリストはユダヤ人も異邦人も一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(=無くした)」(エフェソ2:16)

ユダヤ人でも、異邦人でも、日本人でも、アメリカ人でも、中国人でも、男性でも女性でも、金持ちでも貧しい人でも、洗礼を50年前に受けた人でも、今日受ける人でも、十字架の前でひざまずいたらみんな平等である。上下関係はない。イエスのおかげで:
「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:18)

大胆に天の父のもとに近づくことができるのである。イエスのおかげでみんなが「聖なる民に属する者、神の家族である」(エフェソ2:19)
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では、このBeforeの状態からAfterの状態に移るにはどうすればいいだろうか。パウロは2章8-9節に:
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8-9)
と書いている。

つまり、キリストご自身がわたしたちのために成し遂げてくださったことをただ受け入れるだけである。すごく頑張れば、悪い癖を直せば、心の疑問をすべて撃ち殺せば――そういう話ではなしに、「恵みにより、信仰によって救われる」のである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)
ここに出て来る「平和」はシャロムというヘブライ語に当たる(ギリシャ語はエイレネ)。「争いのない状態」という意味ではない。喜びに満ちた、揺るぎない心の安らぎのある、欠けるところのない、完全の幸福の状態を表すとても奥深い言葉である。

神が望んでいらっしゃるシャロムは、キリストのうちにある。キリスト以外にどこにもない。キリストのうちに差し伸べられている。それをただいただければいいわけ。

さて、わが平和であるキリストをいただいた、洗礼によってキリストと結ばれた人たちはどう生きればいいのか。わたしたちは一つの本家になる、大きな大きな長屋に暮らす神の家族なので、その家族のメンバーとしてどういうふうにやっていけばいいだろう。

まず、その本家の土台は聖書のみ言葉であることを常に心に留めておくべきだろう。
「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身である」(エフェソ2:20)。

つまり、新約聖書(=使徒)と旧約聖書(預言者)全体が、神の生きたみ言葉としてわたしたちの生活の道しるべ、生きる基準となるのである。み言葉にに慣れ親しもう。

そして、古い自分、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた自分を死なせて、新しい自分、キリストと親しく歩む自分を迎えていくのである。

古い自分を死なせて、新しい自分を迎える。これは洗礼式で決定的に起こることではあるが、その後、日に日に自分で、そして毎週毎週この聖なる食卓を共に囲む人たちとして、仲間として、家族として繰り返して、どんどん深めていくことでもある。

実に、キリストはわたしたちの平和である。神がいないかのように生活をするのではなく、キリストにある平和と祝福と豊かな命を味わいながら共に生きようではないか。

2012年5月18日金曜日

answering joe


My friend Joe asked me a question on Facebook about Torah, the Law of the Old Testament. In particular, he asked how a Christian deals with the fact that Leviticus forbids shellfish or mixing clothing fibers in one section, and forbids homosexual activity in another section. Why does the Church dismiss the former and continue to uphold the latter?

My response to Joe is below. Unfortunately, for some reason, Joe's original question no longer appears on FB. I don't know if FB ate his question (maybe there's a filter against "Leviticus") or if Joe pulled his question for some reason.

Anyway, here's my attempt to respond to the question: why are shrimp "in" but same-sex sexual activity "out" for Christian faith...
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Hi Joe, a good question, and one that the early Church also dealt with in the first decades of its existence.

As did the Anglican Church much later. From the Thirty-Nine Articles (founding document of the Church of England): "Although the Law given from God by Moses, as touching Ceremonies and Rites, do not bind Christian men, nor the Civil precepts thereof ought of necessity to be received in any commonwealth; yet notwithstanding, no Christian man whatsoever is free from the obedience of the Commandments which are called Moral."

The understanding is that in Christ, the works of the law were fulfilled--so temple sacrifice and dietary codes were no longer binding on Christians because their purpose had been summed up and perfected in Christ. I wouldn't describe them as "quaintly dismissable," although at times their purpose seems pretty opaque.

But the moral law, which includes sexual purity, is timeless and universal. This is repeatedly affirmed in the New Testament, and nowhere more elegantly than in Jesus' Sermon on the Mount. Jesus affirmed and deepened the moral law of the Old Testament.

So, the Gentiles when they were welcomed into the Church weren't required to cook kosher or make temple sacrifice (impossible anyway after 70AD) but they were conjoined to be chaste (i.e. either faithful in marriage between man and woman or celibate outside of that covenant).

It's true that statements of civil, ceremonial, and moral law stand side by side in Leviticus and elsewhere in the OT. But recognizing which is which is not overly problematical in the light of the New Testament.

Hope this helps. I appreciate your asking.

2012年3月18日日曜日

天上の生活を地上にするマニュアル(出エジプト記20:1-11、ローマ7:13-25)

大斎節第3主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年3月11日・10時30分 聖餐式


この出エジプト記20:1-17ほど人類の文明に大きな影響を与えた文献は他にない、と言っても過言にならないと思います。日本をはじめ現代社会では法律、道徳倫理、人権、憲法など、多かれ少なかれこの十戒に由来しないものは殆どないのです。

古代のさまざまな法律を見ると、殆ど条件付のものです。「もしああういうことをしたら、こういうことになる」。イスラエルの律法だけが違います。絶対的原則になっています。「あってはならない。造ってはならない。してはならない。」普遍的な道徳原理を現しているのです。どの結果がもたらされるかではなくて、これが正しいから守るべきだ、ということ。

十戒は、ある意味で神の心の姿を見るための窓です。要は神が、人殺し、不倫、強盗などが正しくないと思っていらっしゃる方です。逆に言いますと、神は人間が尊い存在だと、人間は互いを尊敬して、思いやりをもって関わり合うべきだと思っていらっしゃる方だ、ということです。

ユダヤ人はこの(十戒が中心となっている)律法が神に授けられた宝物だと思って、これに非常に喜んでいました。今日の詩編にもそれが出ています(詩篇19:7-10):
主の教えは完全で、魂を生き返らせ∥主の諭しは変わらず、心に知恵を与える
主の定めは正しく、心を喜ばせ∥ 主のみ旨は清く、目を開く
主の言葉は混じりけなくとこしえに続き∥ 主の審きは真実ですべて正しい
金よりもどんな純金よりもすばらしく∥ 蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い
律法は誇りの源泉だったのです。これほど完全で素晴らしいことはどこにもなかったからです。律法がなかったら何が善、何が悪から分からなくなってしまうのです。(現代もそうだと思います。ハリウッド映画とかテレビドラマとかでけを見れば、暴力や不倫がいけないことだと分からないでしょう。)

このユダヤ人の抱いていた喜びをどう理解すればよいでしょうか。ルールに対してこれほど喜ぶというのは、どういうことでしょうか。

一つの例として、もしサッカーを全く知らない子どもたちがサッカーをやりたくてグラウンドに集まっても、ルールが分からないからただすねを蹴り合ったり、団子になったり、ボールを手で広げて走ったりします。必ずそのうちけが人も出るでしょう。血まみれになるかも知れません。必ず泣く子も出ます。結局つまらないと思います。

でもそこで、コーチが来て、笛を吹いて、子どもたちにルールを説明すれば、初めてゲームができます。ルールが分かっているから楽しいでしょう。

でも違う例の方がいいかも知れません。というのは、罪――つまり、律法から離れた行動は――もっと重要な問題だと思うからです。その被害が重いのです。

だから、アフガニスタンのような地雷の多い国をイメージした方がいいかも知れません。アフガニスタンでは、よく野原の真ん中におかれている標識という風景が見られます。それは、「この中を通ったら安全だ」ということです。外に出たら危険だ、と。

神は人間の喜びを望んでいらっしゃる方です。だから、み心のそって生きるというのは、本当の喜びにつながる道です。逆にみ心から離れるというのは、その本来味わうべき喜びを見失ってしまう道を走ることです。

こういう意味で律法というのは、神の愛のしるしでもあると言えましょう。もしわたしは子どもに「ストーブを触っちゃだめ!」と言ったら、それは子どもを愛しているからです。「好きにして」というのは愛ではないのです。子どもを愛しているのであれば、当然、痛みから守りたい。まして大きな愛をもって神はわたしたちを痛みから守りたいでしょう。

だから律法は、最初から終わりまで、愛に包まれています。
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十戒について黙想することは非常に有意義なことです。なぜかというと、十戒の「してはならない」の裏には、たくさんの「すべき」ことが隠れているからです。例えば:
  • 「殺してはならない」には、すべての命、胎内からお墓まで、大事にすべきであるということが含まれています。
  • 「姦淫してはならない」には、自分の妻、夫を尊敬し、何も惜しまずに仕えるべきである、というのも含まれています。
  • 「隣人のものを欲してはならない」には、自分のすでに持っているもので満足すべき、自分に対する、そして隣人に対する主のみ心を喜んで受け入れるべき、また、隣人の幸せをも願うべきであることが含まれています。
こうやってもっと突っ込んで十戒を考えるみると、一つの大きな問題に気づいてきます。それは、わたしたちにはこの十戒すら守ることができない、ということです。十戒が指し示してくれる神のみ心を知っていても、その中に従わせる力が含まれていないわけです。

律法によって神のみ心を知ることができるけれども、それに沿って生きるための助けは、律法にはないのです。

聖パウロがローマの信徒への手紙で言っていることは、こういうことです。わたしたちの「霊」と「肉」が対立していると言うのです。つまり、神に喜んでもらえるような、天にふさわしい生き方をしたい望みと、その正反対の方向に走ってしまう傾向とがぶつかっている、ということです:
「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(ローマ7:22-23)。

つまり正しいことは何であるか知っているし、それをしたいけれども、どうしてもそれができない。できたとしても続かない、といことです。結果として、わたしたち人間は互いを蹴り合い続ける。火傷し続ける。地雷原をさまよい続ける。

どうしてそんな危ない、望ましくないことをするかというと、惑わされているからです。罪、律法から離れた行動は魅力的に見えることがよくあるのです。少なくとも最初のころ。また、人間は縛られたくない心が強いからです。

あるいは、わたしたちは神よりも幸せにつながることが分かっていると思い込んでいることもあります。一人一人の人と世界全体をお造りになった神よりも分かっているつもりでいるのです。

だから世の中を見回すと、みんな普通にしていても中身は非常に傷ついている人ばかり。心のあざだらけ。火傷だらけ。

こうやって罪に傷ついていくとようやくシニカルになったり、人を信じられなくなったりします。本当の自分を人に見せなくなります。本当の幸せをつかめず、イライラしたり、退屈したり、前向きに考える元気が消えてきます。

そして一瞬でも止まって自分を振り返ってみると、いろんなことのむなしさに飲み込まれそうになってしまう。それが怖いから、仕事や食べ物、テレビ、スマートフォン、ポルノ、お酒などなど、いろんなことを使ってむなしさを感じないようにするのです。

こういう悪循環に陥った自分が、そこから抜け出すために頑張ってもだめです。どうしても喜びの道を取り戻すことができないのです。

何か、カーナビがあってもガソリンがないような状態です。あっちだと分かっていてもあっちにいけないのです。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。自分の力・頑張りで抜け出すことのできないこの悪循環から解放してくださるのは誰ですか。

パウロはその答えをも教えてくれます:
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ローマ7:25)。わたしたちがまだ迷っているとき、まだ罪に絡み付いているとき、まだ生きる苦痛をただ和らげるだけで精一杯のときに、イエスがおいでくださるのです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20:2)。神は、わたしたちがそのみ心に従っているかどうか、いい子にしているかどうか、見てからではなくて、その前にわたしたちを救ってくださるのです。愛しておられるからです。まず神がわたしたちを救ってくださいます。そしてそれから、よりいい人になるための意思と知恵と力を付けてくださるのです。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、神の道から外れている者のために死んでくださった」(ローマ5:6)

イエス・キリストはその聖霊を通して、律法にそって生きるための意思、知恵、力をわたしたちに付けてくださるのです。それは、救いに値するためではありません。救いはすでに、単なる恵みとしてわたしたちに与えられています。救ってもらえるためではなくて、天の喜びを今でも少しずつ味わえるためです。

そういう天の喜びを味わっている人たちこそ、深く病んでいる世界のただ中で、神の愛の国を築き上げることができるのです。

2012年3月4日日曜日

believing in hope against all hope (Genesis 22:1-14)

Second Sunday in Lent (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel March 4, 2012– 10:30 a.m. Holy Eucharist


I think the story of the near-sacrifice of Isaac is one of the most terrifying stories ever recorded. Maybe it's possible, if you read really fast and don't pay much attention, to come away from this story without being bothered by it. But if you stop, and really read between the lines, using your imagination, what you'll probably find is that the more you meditate on this story the more unbearable it becomes.

For example notice how God says: "Take your son, your only son, whom you love—Isaac" (Gen 22:2). He repeats the same thing, so there's absolutely no way Abraham can pretend to misunderstand whom God is talking about.

And God says the name of Isaac, which means "laughter." Isaac was a miracle child, a gift from heaven to Abraham and Sarah late in life. He was their heart's joy. Even as God says his name, He says "sacrifice him." Kill the laughter Isaac brings you.

"Early the next morning Abraham got up and loaded his donkey" (Gen 22:3). The next morning. Can you imagine the night Abraham must have spent? Knowing what he's been asked to do by God? Not able to say anything to anyone about it?

And notice also, it took three days to travel to Mount Moriah. Three days. Imagine what that trip was like for Abraham. In the evening, as he watched Isaac sleeping by the fire. When Isaac wanted to talk to his father about the new things he was seeing along the way.

And finally, imagine the unbearable sadness of Abraham as he "bound Isaac his son and laid him on the altar, on top of the wood" (Gen 22:9). He did that probably to keep Isaac from fighting back when he realized what was going on. So it would be over quickly.

So here, in verse 11, when the angel calls out, "Abraham! Abraham!" I want you to try to hear Abraham's voice, imagine what was in his heart at that moment:
  "Here I am."
 
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Ah, it's an awful, awful story! If this was a movie in the video store, I wouldn't rent it. If it weren't in the Bible, I wouldn't read it. Thank God it has a happy ending!

But why on earth would Abraham even think about doing such a thing in the first place? Why would he agree to sacrifice his own son? I want to think about the reason.

And the first thing to say is, Abraham knew this one thing: That YHWH is the one, true God.

To acknowledge that God is really God is to acknowledge that whatever God says is, by definition, right. Whatever God asks of us has a rightful claim on our obedience. Because He's God. Let's get this straight: With God, there just isn't such thing as an "ought not"—as in "God ought not ask me to do such and such."

God never makes bad decisions. His judgment is never off, not even by a little.

So, however unjust something may seem to us small, time- and culture-bound, bent-hearted human beings, that's simply not our call to make. Do you remember the story of Job? Job tried to call "Unfair! Unjust!" And do you remember God's response? His response was: Who do you think you are? Where were you when I created, you know, the cosmos?

This is why we have to take modern "ethics" with a huge grain of salt. The weakness in ethics is that the people who think about ethics never see far enough, never grasp enough of the situation, never have pure enough motives. They simply can't. So, what happens so often is that we end up using "ethical principles" as a fancy way to justify what we've already decided to do.

From an article I read yesterday: "An ethicist's job is like a magician's. The main job of both is to distract you from the obvious." Ethics can so easily become a way of saying "it's okay" to do what you want, while at the same time avoiding responsibility for your actions.

Look at Abraham's ethical dilemma: Should I sacrifice my son, or not? Hmm, let me weigh the advantages and disadvantages…

No. It doesn't work. God's revealed will smashes through all our ethical manoeuvering. To do God's will, that's all that is required of us. "Take your son, your only son…"

To be fair, ethical reasoning may be useful in cases where the will of God is not clear in a particular situation. Such as many end-of-life care decisions.

But the fact is, God's will is more than clear in a lot of cases when we wish it weren't:
  • Is it okay to steal money from my company? No.
  • Is it all right to sleep with my married co-worker? No.
  • Is it okay to have sex before or outside of marriage period? No.
  • Is it okay to fantasize about punching the rude commuter in the nose? No.
  • Is it okay to lie to make someone feel good? No.
  • Do I have to stay married to my husband, if there's no infidelity or abuse? Yes.
  • Do I have to protect all life in the womb? Yes.
  • Do I have to take care of my elderly mother even if she's a pain in the neck? Yes.
  • Do I have to forgive my sister-in-law? Yes.
 
All these things are clearly dealt with in Scripture. We know God's will concerning these things. So we don't need to deliberate or weigh the pros and cons. Our only dilemma is: do we obey God's will, or do we disobey God's will?
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But Abraham knows one more thing: "God himself will provide the lamb" (Gen 22:8) How can he say this?

When Abraham was already an old man, childless with his wife Sarah, God said to him: "I have made you a father of many nations" (Gen. 17:5). God told him that through his son, his child with Sarah, would come as many offspring as there are stars in the sky.

This is the promise God made to Abraham. At first, Abraham found it all pretty hard to swallow. A child? Born to a 100-year-old man and a 90-year-old wife? But a year later, behold! Isaac was born. The promise was fulfilled.

Abraham knows that God keeps His promises. God has promised "many nations" through his son, Isaac. And God always keeps His promises.

At times, God may seem to demand a lot from us, even things that seem at the time impossible to bear. But God will never mess around with us, and God will never ask us to do something meaningless.

Of course, Abraham doesn't know how things will turn out, exactly. We always want to know how the future will turn out, but frankly, that's far above our pay grade. (So, all this hype about the Mayan calendar is just a load of stuff!)

Abraham's trust in God must have been pushed to the very limits as he took the blade in his hand. Pushed, and yet he did not lose his hope in God. He continued to hope in the one, true God. The Lord of the living and of the dead. The God who always keeps His promises.

This is why Abraham is called "the father of our faith" (Rom 4:16). As St. Paul writes:
"Against all hope, Abraham in hope believed and so became the father of many nations, just as it had been said to him, ['I have made you a father of many nations' (Gen. 17:5)]" (Romans 4:18)

The author of the Letter to the Hebrews puts it this way:
"By faith Abraham, when God tested him, offered Isaac as a sacrifice. He who had embraced the promises was about to sacrifice his one and only son, even though God had said to him, 'It is through Isaac that your offspring will be reckoned.' [Gen 21:12] Abraham reasoned that God could even raise the dead, and so in a manner of speaking he did receive Isaac back from death." (Hebrews 11:17)
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There is another, terrible story about a "son," a "beloved only son." The child in this story, too, is chosen to become a sacrifice.

This child, too, is prepared to be sacrificed on wood. He is made to bear the weight of the wood. He carries it, not to the top of a mountain called Moriah, but to the top of a hill called Golgotha.

The child in this story, however, is not led in ignorance to the place of his sacrifice, but goes there willingly, in obedience to the will of God.

In this story, no angel stops the metal before it pierces the child's flesh. There is no last-minute reprieve. The sacrifice is carried out. The child dies.

Even more than Abraham, Christ withheld nothing, not even His own life. He continued to hope in God to the very end.
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And God keeps His promises. He is Lord of the living and the dead. He never asks of us something that is finally unjust. Just as with Abraham, God kept His promise to Jesus. More on that at Easter!

So, to trust God, to keep our hope fixed on God, is always the smart choice. And not to trust God, to place our ultimate hope on anything else, is always the foolish choice.

It's a paradox, but I think this is what Jesus is getting at when He says: "whoever would save his life will lose it, but whoever loses his life for my sake and the gospel's will save it" (Mark 8:35)

In other words, whoever would insist on deciding when and where and how much to obey the will of God will end up severing his connection with God, and render himself unable to receive life from God.

But, whoever puts himself in God's hands, come what may, knowing that God is a good, loving God who always keeps His promises, will receive fellowship with God--which is eternal life itself.

This is what it means to have faith. Even as we struggle with doubts and hardships, it is to keep putting our whole trust and hope in a loving God who never breaks a promise.

The Lord will provide. Abraham trusted that the Lord would provide for him, and he was not disappointed. Jesus trusted that the Lord would provided for Him, and He was not disappointed.

The Lord will provide for us what we really need. Let us trust Him with our lives.

なおも望みを抱いて(創世記 22:1-14)

大斎節第2主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 2012年3月4日・10時30分 聖餐式


このイサクが捧げられる話は、史上最も恐ろしいストーリーの一つだと思います。もしかしたらあまり集中しないでこれを早く読めば、悩まされないかもしれません。でもちゃんと読んで、想像力を使いながら行間も読んだら、たぶん読めば読むほど耐え難くなってくるのではないかと思います。

例えば、アブラハムはこういうことを神に言われます:「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」(創世記22:2)――同じようなことを繰り返している感じです。これは、アブラハムが誰の話しか誤解したり、わざと勘違いして逃げたりすることができないように、そうなっていると思います。

しかも神は「イサク」という名前を使われます。「笑い」という意味です。イサクはミラクルベビーでした。年老いたアブラハムとサラへの天からの贈り物。彼らの心の喜びでした。神は「イサク」「笑い」と言いながら、その子を「献げ物としてささげなさい」と仰っているわけです。イサクがもたらしてくれる笑いを死なせなさい、ということ。

「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置いた」(創世記22:3)。次の朝。アブラハムはどのような夜を過ごしたでしょう。何が求められているかを知っていて、何も誰にも言えない、その心の苦しさ。

そして、気づきましたか?モリヤ山まで三日間かかったということに。三日間。アブラハムにとって、どういう旅だったでしょう。夜、たき火のそばで寝ている息子を眺めながら。旅路で見たいろんな新しいことについてお父さんと話したがるイサクとともに進みながら...

そして最後に、自分の「息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた」(創世記22:10)ときの耐え切れない切なさ。これはきっと、やっと何が起こっているのかに気づく息子が抵抗しないように、すぐに終わらせられるように、そうしたのではないかと思います。

だから、この11節、天使が「アブラハム!アブラハム!」と必死に呼びかけたときのアブラハムの返事は、どういう声で、どういう心境で言ったのか、想像してみてください:
  「はい。」+   +   +
ああ、怖い!恐ろしい話です。これはビデオ屋さんの映画だったら絶対借りません。聖書以外の本だったら読みません。ハッピーエンドでよかったですね!

でもそもそもアブラハムは、なぜこういうことをしようと思ったのか。なぜ自分のいとしい息子を捧げ物にすることを承諾したのか、そのわけについて考えたいと思います。まず、言っておかなければならないことは、アブラハムには、一つのことがはっきり分かったからだと思います。すなわち、ヤハウェが唯一のまことの神であられる、ということです。
神が本当に神であると認めるというのは、定義からして、その仰ることがすべて正しい、というのをも認めることです。神がお求めになることならば、人は当然それに従うべきです。神ですから。これは、はっきりさせたいところです。神の場合は、「してはいけない」ことは何一つない、ということです。「神はそういうことを求めてはいけない」という話はあり得ない、ということです。

神は誤った判断を一切なさらないのです。物事を見誤ることはないのです。少しでも。

だから、わたしたち小さくて、時代や文化に大いに影響され、心の歪めた人間の目から見て「不条理、理不尽」だと思っていても、実はわたしたちの決めることではないわけです。ヨブの話を覚えていますか?ヨブは訴えてみました:「不正!理不尽!」そして神の答えは?お前、何様だと思っているのか?わたしがこの宇宙全体を創造したとき、お前はどこにいたのか?レベルは全然違うのです。

こういうわけで「倫理学」というものを割り引いて捉えないといけません。倫理の弱いところは、倫理を考える人が十分物事を把握していない、その視野は十分広くない、十分客観的に検討していない――というか、それができないのです。だから結果として、いわゆる「倫理原則」をうまく使って、最初から自分で決めたことを正当化してしまうことになることはしばしば起こります。

昨日読んだある記事にこういう言葉がありました:「倫理学者と手品師の仕事は似ている。いずれも、おもな仕事は当たり前のことから目をそらすことだ」と。倫理は、したいことを「していいよ」と訴えつつ、かつその責任を取らない方法になりがちなのです。

アブラハムの倫理的ジレンマを見てみましょう。息子を捧げ物にべきかどうか。うーん、どうかなあ。そのメリット・デメリットを考えましょう...

やはり無理です!そういう問題ではありません。神の示されたご意思は、人間のさまざまな倫理的工作を突き破ってしまいます。み心に従うかどうか、それだけが問われます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて」、と。

しかしながら、神のご意思が十分明確でない場合は、倫理は役に立つかもしれません(例えば終末期のケアに関するさまざまな決定)。でも実を言いますと、もうちょっと曖昧であってほしいところに、神のご意思が十二分明確に示されている場合が多いと思います。例えば:
  • 会社からお金をつまみ食いしていいのか?だめです。
  • 結婚している同僚と寝ていいのか?だめです。
  • 結婚する前、または結婚外の肉体的関係を結んでいいのか?だめです。
  • 通勤電車の人をパンチするところを空想していいのか?だめです。
  • 人の気持ちを盛り上げるために嘘をついていいのか?だめです。
  • 不倫とか暴力がない場合、夫婦を続けなければならないのか?その通り。
  • 胎内の命を守らなければならないのか?その通り。
  • 面倒くさくても年上の父親の世話をしなければならないのか?その通り。
  • 兄嫁を赦さなければならないのか?その通り。

これらのことは全部、聖書で明確に取り上げられているものです。これらについて、神のみ心が分かっています。良く考えようとか、メリット・デメリットを検討する必要は全くありません。わたしたちの唯一のジレンマはこれです:み心に従うか、それかみ心に逆らうか。それだけです。
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でも、アブラハムにはもう一つのことが分かりました。「献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記22:8)ということ。どうしてそんなことを言えるのでしょうか。

アブラハムがすでに年老いて、年老いた妻のサラとの間で子どもができていなかったとき、神は彼に告げられました。「あなたを多くの国民の父とする」(創世記17:5)。自分の息子、サラとの間で生まれる子を通して、星の数ほどの子孫ができちゃう、と神が告げられたのです。

これは、神のアブラハムへの約束です。最初は、アブラハムにとってやすやすと受け入れられる話ではありませんでした。子ども?100歳の自分と90歳の妻に?でも、一年後、ほら!イサクが生れました。約束は実現されたのです。

だから神が約束を守る方であることは、アブラハムによく分かります。「多くの国民」を息子イサクを通してできることが、神に約束されています。そして神は必ず約束を守る方です。だから「献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と言えると思います。

神がお求めになることは、時々大変に思うときがあります。耐え難いと感じるときもあります。でも神は決していたずらしたり、無意味で求めたりすることはございません。

もちろん、これこら何が起こるか、アブラハムにははっきり分かりません。人間は、将来を前もって知りたがるけれども、それは許されていないことです。(マヤの暦のどのこのはすべてデタラメです!)

アブラハムが刃物を手にしたとき、きっとその神への信頼が極端に試されたと思います。試されたけれども、アブラハムは望みを失いませんでした。唯一のまことの神、生きる人と死んだ人の主である神、約束を必ず守ってくださる神に望みをかけ続けたのです。

だからこそアブラハムは「我々の信仰の父」と呼ばれるのです(ローマ4:16)。聖パウロが言います:
「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、[『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』(創世記17:5)]と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」(ローマ4:16)

ヘブライ人への手紙の著者はこういうふうに言います:
「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました(創世記21:12)。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(ヘブライ11:17)
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もう一つの恐ろしいストーリーをわたしたちは知っています。これもある息子、愛される独り子についてのストーリーです。このストーリーの子も、捧げ物として選ばれるのです。

この子も、木の上に屠られるように定められます。その木をこの子にも背負わせられます。そしてご自分がその木を運ばれます。モリアという山ではなくて、ゴルゴタという丘の上まで。

ところが、このストーリーでは、その子が何も知らないでその捧げられる場所に連れて行かれるのではなくて、自ら進んで、神のみ心に従ってそこまで足を運ばれます。

また、このストーリーでは、天使などが間に入ったり、金属がその子の体を刺し貫く前に止めたりはしません。ギリギリで免れることはありません。いけにえは実行されてしまいます。その子は死なれます。

アブラハム以上にキリストは何も、その命でさえ、惜しまなかったのです。最後の最後まで神に望みをかけ続けられたのです。
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でも、神は約束を守られる方です。生きる人と死んだ人の主です。最終的に理不尽なことを求めたりはなさいません。神は、アブラハムと同じようにイエスへの約束をも守られました。その話はイースターになったらしましょう!

こういう神ですから、神に信頼を、希望をかけることは、どんなときでも必ず賢い選択です。逆に、神を信用しない、ほかのことに最終的な希望を置くことは、愚かな選択です。

逆説ですが、イエスはそういうことを仰っているのではないかなと思います:

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:35)

つまり、いつ、どこ、どの程度神のみ心に従うか、自分で決めようとする人は、結局神とのつながりを切ってしまって、本当の命をいただけなくなってしまうのだ、ということです。逆に、神に身を任せる人、神が計り知れなく恵み深くて慈しみ深い、必ず約束を守る方であると分かって、何があっても神に信頼・希望をかけ続ける人は、神との交わりを大いに味わえる人だ、と。それこそ、永遠に至る命だ、ということだと思います。

「信仰を持つ」というのは、こういうことです。約束を決して敗らない、慈愛深い父に信頼と希望をかけ続けることです。

きっと神が備えてくださる。アブラハムはそう思って、裏切られませんでした。イエスもそう思われて、裏切られませんでした。わたしたちが必要としていることも、きっと神が備えてくださる。その約束をしっかり受け入れて、前向きにこの大斎節を送りたいと思います。

2011年11月8日火曜日

天国では結婚式がない(ルカ20:35)

今週の聖書勉強会、ルカによる福音書20章の準備から...

「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」(ルカ20:35)
かの日、他者と一体となることへの切望は廃れるのではなくて成就されるのである。結婚の神秘は、天上の現実を指し示す地上のしるしに過ぎない。天の国に至れば、もはやそのしるしは必要でない。「小羊の婚宴」(ヨハネの黙示録19:7)において、わたしたちが望んでいる愛の結び付きは完全なものにされる。キリストに結ばれている人たちは互いに結び合わされ、贖われた者のコミュニティ、神の聖なる都、小羊の花嫁となるのである。地上で夫婦が一体となる奇跡は、このことの前兆となっている(エフェソ5:31-32)。これは、わたしたちにとって全く新しい経験にはなるが、今の世では夫婦が味わう深くて親しい、子づくりにつながり得る結合とは見分けのつく類似性はあるであろう。

 
(ヨハネ・パウロ第二世の「体の神学」を説き明かすクリストファー・ウェストのホームページを参照しました。特にこの記事:"What is the Theology of the Body & Why is it Changing so Many Lives?")

no marrying in heaven (Luke 20:35)

From my study of Luke 20 this week...

"Those who are considered worthy of taking part in the age to come and in the resurrection from the dead will neither marry nor be given in marriage." (Luke 20:35)
On that day, our longing for union will not be jettisoned--it will be fulfilled. The mystery of marriage is merely an earthly sign of the heavenly reality. When we are in heaven, we will no longer need signs. The "marriage feast of the Lamb" (Rev 19:7)--the union of love we all seek--will be consummated. All who are bound to Christ will be bound to one another, forming the community of the redeemed, the holy city of God, the Bride of the Lamb, who is Christ. The miracle of becoming one flesh that husband and wife experience on earth is a foreshadowing of this (Eph 5:31-32). For us, this will be a completely new experience, but it will also bear a recognizable resemblance to the deep, intimate, child-producing union experienced by husband and wife in this life.  
 
h/t Christopher West's website dedicated to Pope John Paul II's "Theology of the Body." See the article "What is the Theology of the Body & Why is it Changing so Many Lives?"

2011年7月5日火曜日

let's talk about it

Oh God. The "bishops" in England say there needs to be "discussion" "around" the "issue" of human sexuality.

And we all know what that means. Along with a steady programme ('cuz, you know, it's the UK) of establishing facts on the ground (a vociferous gay-rights dean here and there, a nudge-nudge-wink-wink "celibate" bishop or three), England will be bored stiff with 3-5 years of commissions and position papers and "study groups" and "reflections" and "theological" rationales (read: -izations) and meetings programmed to reach preordained conclusions using the Indaba-Delphi technique, culminating in a majority-voted policy change, followed by half-hearted calls for "living into the differences" in our "common life" so that we can continue to "honor" our "diversity" and "witness" to our "unity" in "the Christ" (or "Christa," depending).

Oh, crap. Now I'm almost out of scare quotes. I think I'll use my last two sets thusly:

First, to say that, you know, some things just don't need "discussing," especially when calling for discussion is itself an act of disobedience ("Did God really say...?" ←regular ol' quotes--still got plenty of those!).

It's like the husband who says there needs to be a discussion around the issue of monogamy in the marriage.

"Um, no, actually, my dear husband, we do NOT 'need to talk about this' and if you ever bring it up again you'll be staying in a motel eating frozen dinners for the rest of your life. For now, I think the sofa is the perfect place for you to reflect more deeply on how the psychologically unhealthy constraints of an outdated and repressive morality, as you put it, might actually be a good thing for you in the long run. Consider it your own, personal listening process."

And, second, I'm just going to put scare quotes around "Anglican Communion" and call it a day. Because daily, this creature I onced loved grows more and more into a parody of itself...

2011年6月27日月曜日

blessable and unblessable

Often, the Enemy tries to push through error by totalizing things which are only partial.

So, for example, since some who call themselves Christian are angry, unthinking Neanderthals, it therefore follows that Christianity is a religion of wrath and reactionary irrationality. Since a glass or two with dinner is a delightful thing, there can be nothing wrong with tossing back seven or eight.

As shoddy as the logic is, you see it all over the place. It often crops up in the attempt to sanction what God has revealed to be sinful. A kind of pernicious end-run.

The hottest hot example would be, of course, same-sex sexual relationships. The line goes like this: "My relationship with Fred is a grace-filled source of blessing to me and to all who know us. It therefore follows that our sexual relationship cannot be sinful."

Well, yes, actually, it can be sinful. And is, which we know because it has been revealed to be sinful.

It may be true that you and Fred have a bond of friendship which is a vehicle of grace. You may indeed care for one another with true agape love as brothers in Christ. And your friendship and your example of lived charity may indeed be a blessing to those around you.

It does not follow, however, that your misuse of the gift of sexual intimacy can also be somehow considered either capable of being blessed or capable of being an instrument of blessing.

God is quite able to distinguish between obedience and disobedience even within the same human heart. Sex outside the bounds which He has established for our good, i.e. in any context other than a lifelong union of man and woman, is disobedience. And God never uses disobedience to bless His creatures.

In this way, the Enemy tries to totalize partial things in a way that overturns the revelation of God.

God, on the other hand, delights to bless whenever and wherever He can. If even the worst sinner brings even the smallest area of his life into alignment with God's good will, God will rush to deliver grace through the opening thus provided.

God never writes us off. The greedy man who drops a wad of bills into the Salvation Army box: An opening for God's grace. The atheist who finds herself whispering a word of thanks when the baby's fever subsides: An opening for God's grace. The sexually broken man who stops before that final click online, the alcohol abuser who decides "just not today," the abusive husband who agrees to counseling, the glutton who says no to seconds--God waits for these little openings to come in with His blessing, to establish even a small foothold of grace in the human heart.

God always uses even the smallest obedience to bless His creatures.  

Jesus, give my gay friends the grace to bring their friendships and their whole lives fully into line with your good will for them. Give all of us sinners the grace to submit more and more areas of our lives to your lordship.