聖霊降臨後第8主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月22日・10時30分 聖餐式・洗礼式
今日、これから洗礼式が行われることは、非常に嬉しく思う。さらに、洗礼式が行われる日に、今日のエフェソの信徒への手紙が読まれることになっているのも、心から神に感謝したいことである。神の計画としか思えない「偶然」だと思う。
僕のワイフのお父さんの本家は福島県の相馬市にある。海(松川浦)のすぐそばにある。
今まで、お盆休みに何回も訪問してきた。本家は古い長屋で、すべての障子を全開するとずっと広がる空間になる。真夏の風通しがいい。
来日した外人として初めてこの国の国民に受け入れてもらえていると実感したのは相馬でのこと。訪問すると初日、みんな何を言っているか全く理解できない。福島弁が強くて(ヒラメ→ヒラミ)。だけど、そのうち耳も慣れ、みんなと溶け込んで、楽しく過ごすのである。
夕方になると、親戚大勢が集まって夕食をする。女性たちは台所でせっせと働いて、男性は居間でせっせと焼酎を飲む(CCLemon割で)。そして順番にお風呂に入って、寝る。
本当に家族の一員として認められていると感じたのは、お風呂上りのおばあさんが堂々とズボンだけで僕もいるところに座って髪にブラシをかけ始めたときである。
残念ながら、3・11のときに家はかなりダメージを受けて、海辺も不安なので、本家はもはや存在しない。(グーグルマップで見たら空き地となっている。)
+ + +
本家がない。まさにこの世におけるわたしたちの悲しい状態である。キリストなしでは。
これがパウロが言っていることである。この世では、わたしたち人間は本当の本家がない、ということ。さらに正確な表現をすれば、アダムとエバの罪のせいで園にいられなくなってしまったと同じように、わたしたち人間の罪によって神の平安に留まることができない状態にあるのだ、ということ。
パウロはエフェソという町(現在のトルコの西海岸にある)に住んでいるクリスチャンにこの手紙を書いている。イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人もいるかも知れないけれど、異邦人(ユダヤ人でない人)の方が多いコミュニティである。
(初期教会では、異邦人がクリスチャンに改宗するとき、男性が割礼を受けるべきかどうかという論争があった。モーセのときから、割礼が神の民に属しているというユダヤ人にとって最も重要なしるしなのである。熱心なユダヤ人としてモーセの律法をきちんと守るべきだと強く思っていたパウロは、イエスに出会ってから心ががらっと変わり、割礼ではなくてむしろ洗礼が神の民に属しているしるしとなる立場を取った。)
とにかく、パウロはエフェソの兄弟姉妹にこの手紙を書いているのは、救われている喜びを思い起こしてもらうためである。以前に彼らが置かれていた状態と今の状態を比較したいのである。つまりBeforeとAfterの話をしている。
Beforeは本当に悲惨な状況だった。今日の箇所のちょっと前を読むと:
皆さん、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する[悪の力、神に反抗することをそそのかす悪の霊]に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆...以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:1-3)
生々しい言葉になっているけれど、実はごく日常的なことを話している。神のことや周りの人のことも考えず、自分のことばかりを考える、自己本位的な生活をする人たちの話である。都合のいいうそをついたり、ささいなことへのしっとに満ちた心を持ったりする。つまらないことで怒り出す。また、結果をあまり考えずに、とりあえず欲しいものを手に入れる人。自分が満足すればいいと思う人。
つまり、あなたたちは神がいないかのように生きる、神に対して、神が造ってくださった世界や他人に対して何の責任も持たないメンタリティーを持っていた、とパウロが言っているわけ。しかも、それが当たり前のことだと思っていたわけ。
でもそういう生き方は最終的にむなしいということを悟っただろう、と言っている。自分のために生きる人はすでに死んでいる人。欲を満たしても、時たま満足感を味わっても、あまり中身のない楽しみがあっても、真の喜びも平和もない。天国への望みの持てない。
そのころ[あなたたち]は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました(エフェソ2:12)
しかも、自分のために生きる人は、つまり罪深い人間は、神の愛の中に居場所がない、と言っている。神から「遠く離れている」(17節)状態にある。神の国から見ると外人になっている(19節)。神の存在を怒りの存在として感じ取ることしかできない。
+ + +
ところが、そういう悲惨な状態にある人のためにこそ、み子イエス・キリストが遣わされたのである。神はご自分を敵対している人間を友達にしたいのである。一人一人の人間は神にとって愛しい存在なのである。
パウロは2章の5-6節にはこう書いている:
神は、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして...キリスト・イエスによって共に復活させてくださいました。(エフェソ2:5-6)
これこそ洗礼の正体。死んでいた人が復活させられるのである。だから:
「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2:13)
また:
「十字架[の自己犠牲]を通して、キリストはユダヤ人も異邦人も一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(=無くした)」(エフェソ2:16)
ユダヤ人でも、異邦人でも、日本人でも、アメリカ人でも、中国人でも、男性でも女性でも、金持ちでも貧しい人でも、洗礼を50年前に受けた人でも、今日受ける人でも、十字架の前でひざまずいたらみんな平等である。上下関係はない。イエスのおかげで:
「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:18)
大胆に天の父のもとに近づくことができるのである。イエスのおかげでみんなが「聖なる民に属する者、神の家族である」(エフェソ2:19)
+ + +
では、このBeforeの状態からAfterの状態に移るにはどうすればいいだろうか。パウロは2章8-9節に:
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8-9)
と書いている。
つまり、キリストご自身がわたしたちのために成し遂げてくださったことをただ受け入れるだけである。すごく頑張れば、悪い癖を直せば、心の疑問をすべて撃ち殺せば――そういう話ではなしに、「恵みにより、信仰によって救われる」のである。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)
ここに出て来る「平和」はシャロムというヘブライ語に当たる(ギリシャ語はエイレネ)。「争いのない状態」という意味ではない。喜びに満ちた、揺るぎない心の安らぎのある、欠けるところのない、完全の幸福の状態を表すとても奥深い言葉である。
神が望んでいらっしゃるシャロムは、キリストのうちにある。キリスト以外にどこにもない。キリストのうちに差し伸べられている。それをただいただければいいわけ。
さて、わが平和であるキリストをいただいた、洗礼によってキリストと結ばれた人たちはどう生きればいいのか。わたしたちは一つの本家になる、大きな大きな長屋に暮らす神の家族なので、その家族のメンバーとしてどういうふうにやっていけばいいだろう。
まず、その本家の土台は聖書のみ言葉であることを常に心に留めておくべきだろう。
「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身である」(エフェソ2:20)。
つまり、新約聖書(=使徒)と旧約聖書(預言者)全体が、神の生きたみ言葉としてわたしたちの生活の道しるべ、生きる基準となるのである。み言葉にに慣れ親しもう。
そして、古い自分、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた自分を死なせて、新しい自分、キリストと親しく歩む自分を迎えていくのである。
古い自分を死なせて、新しい自分を迎える。これは洗礼式で決定的に起こることではあるが、その後、日に日に自分で、そして毎週毎週この聖なる食卓を共に囲む人たちとして、仲間として、家族として繰り返して、どんどん深めていくことでもある。
実に、キリストはわたしたちの平和である。神がいないかのように生活をするのではなく、キリストにある平和と祝福と豊かな命を味わいながら共に生きようではないか。
2012年7月22日日曜日
2012年7月8日日曜日
まだまだこれから(マルコ6:1-6)
聖霊降臨後第6主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月8日・10時30分 聖餐式
今日のマルコの福音書では、「イエスは人々の不信仰に驚かれた」と書いてあります(マルコ6:6)。イエスはわたしたちの信仰をどう思われるのだろう、とちょっと気になります!
この話の流れを把握したいと思います。イエス・キリストは、人類を悪の束縛から救い出すために神によって遣わされました。そこまではいいですか?世の中を見ると、「こうなるはずではなかった!!神様はどうにかしてくれないか、」と言いたいことに対して、神は「どうにか」してくださったのです。その「どうにか」はイエス・キリストです。
イエスがお生まれになる前からも、彼の使命が明らかになっていました。天使ガブリエルはマリアにもヨセフにも言いました:「この子の名前をイエスにしなさい」(ルカ1:31、マタイ1:21)。その名前自体が「神は救いなり」もしくは「神は癒しなり」という意味になっています。両方はあっています:神はわたしたちの魂だけではなくて体をも大切にしてくださるのです。
み子のミッションは神の救い・癒しとなることでした。しかもみ子が人間の世界来られたとき、人間として来られました。100%人間として。み子としての力と地位を全部捨てたのです:「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とパウロ(Ⅱコリント8:9)。
イエスはわたしたちと同じく完全に人間でした。ただ、わたしたちと違ってイエスは天の父とのつながりが途切れていなかったのです。神とのつながりを切ったり、妨げたりするのは罪なので、罪と何の関わりもないイエスは常に神の愛を直感し、神のみ心を行うことを喜びとされたのです。
ほかすべての点では、イエスは普通の人でした。1世紀のパレスチナのユダヤ人として、その義父ヨセフから大工の仕事を覚えられました。イエスの育ちについて殆ど記録がありません。数百人の村落であったナザレに普通に住んで、その地方の工事現場で普通に働かれたわけです。
ところが30歳のころ、イエスはそのいとこヨハネのもとで洗礼を受けに出掛けられます。洗礼のとき、イエスは聖霊に満たされて、「わたしの愛する子」と天からの声が聞こえる、と聖書が教えてくれます(マルコ1:11)。
ここからですね。イエスは子供のときから天の父の愛を感じ、特別なミッションが与えられていることもご存知です。だけどついに、そのミッションを遂行する力を授かるのです。
イエスの力の源泉は聖霊なのです。神の子であることではありません。そういうことを一切捨てられたのです:「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)。だから家畜小屋で、小さくて弱い赤ちゃんとしてイエスがこの世に来られました。そして30年間にわたり、人とほぼ変わらない生活を送られるわけです。
そしてついに、普通の人として聖霊に満たされて、やっと仕事に取り掛かれるのです。
イエスは洗礼を受けてから故郷のナザレに戻られます。地元の人たちに早く福音を伝えたいでしょう。マルコの福音書はイエスの行動を強調しますが、ルカの福音書ではそのナザレの会堂でイエスが何を話しておられたか、記録しています。彼はイザヤ書を引用なさるのです:
「神の霊がわたしの上におられる。貧しい人に良い知らせを告げるために、主がわたしをお選びになった。主がわたしを遣わされたのは、束縛されている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げるためである。圧迫されている人を自由にして、今年こそ神が動き出す年だということを宣言するためである。」(ルカ4:18-19)
つまり、イエスが地元の人たちに仰っているのは:400年前に預言されたことは今、起こっている。神は動き出しておられる!大規模な救出作戦が始まってる。この世を支配している暗闇の力から虜となっている人間をこれからどんどん自由にしていくのだ、と。神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのだ、と。
そしてこられのことの中心は、このわたしなのだ、と。
そしてそこで集まっている人は、はっ?と思うわけです。何言ってんの?何様だと思ってんの?あの大工のお兄さんだろう?!親戚みんな知ってるし...
「このように、人々はイエスにつまずいた」(マルコ6:2-3)。
つまり、どうしてド田舎の小さな村であるこのナザレ出身の人が救い主であり得るのか、ということでした。「なれなれしさは軽蔑を生む。」イエスのことをよく知っているので、別に特別な人ではないのだ、と。
しかも、20年以上ナザレに住みながら、一度も人を癒したり、奇跡を行ったりすることはない。自分が「救い主だ」と言ったこともない。
+ + +
これまで一度もありませんでした。いつもこんなふうなんです。同じような話は、教会でも耳にすることができます、たまには(笑)。
僕はクリスチャンファミリーに生れましたが高校生の頃、信仰から離れました。キリストに立ち帰ったときに一つ気づかされたのは、神やイエス・キリストのこと、教会のことを全部知ってるつもりだったけれども、実はそうではなかった、ということです。最初からやり直して、素朴な質問を聞き直して、学び直すことは本当に多かったです。今も学んでいる最中です。
そしてもう一つ気づかされたのは、神はもしかしたら新しい、予想外のこともなさる可能性がある、ということでした。「これまで一度もない」ことにとらわれてはいけないのです。結局、僕の人生においても、神は予想外のことをなさるかもしれない――実際になさろうとしていらっしゃる――ということを受け入れなければならないことに気づかされたのです。
周りに座っている人をご覧なさい。知っている人はいますか?「だいぶ変わっている人」というわけではないと思います。まあ、何人かへんてこりんがいるかも知れないけれども(笑)。でも、ここにいらっしゃる殆どの人はごく普通の人だと思います。
今日、ここに集まっている人たちを通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。自分自身を通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。
+ + +
イエスの人生が急に展開したのは、彼が聖霊に満たされて、力づけられたときです。
これはイエスに留まることではありませんでした。来週の聖書日課でも、イエスが十二人の弟子たちを派遣する場面が出てきます。ご自分と全く同じことをさせるのです。すなわち、み国の良い知らせを告げ、病人を癒すなど人々を暗闇の力から解放すること。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)
こうやって神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのです。
しかも十二人だけでもありません。後に、イエスは72人のごく普通の弟子たちを派遣されます。その名前さえ知られていないのです。そのミッションは?良い知らせを告げて、病人を癒す。
そして聖霊降臨の後も、このミッションが続くわけです。まずペテロとヨハネ、そしてフィリポ、そしてアナニア、そしてパウロなどなど、イエスに従う人たちが地の果てまで広がりながら常に二つのことに励んでいきます。み国の良い知らせ、すなわち、神が暗闇の力の虜になっている人を救い出すために動き出しておられるという良い知らせを告げることと、その言っていることを行動で証明して、人の癒しと解放のために祈っていくこと。これだけです。
3世紀初頭の教会リーダーであるテルトゥリアヌスは、すべてのクリスチャンにイエスの働きを受け継ぎなさいと促しました:最もえらい生き方は「悪の力に立ち向かって、人の癒しを祈り、神のために生きることなのである」と訴えたのです。
(こういう生き方は劇や競技場の試合を見に行くよりも楽しいのだ、とテルトゥリアヌスは言っていました[『見世物について』29章]。僕は、人の癒しのために祈ることは、オリンピックより楽しいよ!と言ったら、信じてもらえるかしら...)
+ + +
神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくことを明らかに示すために、イエスは癒しと悪霊払いの働きに専念されたのです。言葉だけではなくて行動で証明されたのです。そしてイエスの働きを通して、多くの人々の人生が変わりました。その弟子たちの働きを通しても、多くの人々の人生が変わりました。
いずれもその力の源泉は同じ聖霊でした。イエスの従っていくために、イエスが聖霊に満たされていたと同じようにわたしたちも聖霊に満たされなければならないわけです。
わたしたちは、2つの意味で聖霊を必要としています。まず聖霊の力によって、わたしたち自身が変えられなければならないのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)聖霊がわたしたちの心に取り掛かり、わたしたちをもっとイエスのような人に変えてくださいます。相当時間がかかりますが、もっと潤いのある心、もっと神の喜びと平和に開かれた心を与えてくださるのです。
でももう一つは、人を助けることができるために聖霊がいります。助けを必要としている人々のために大胆に祈る勇気を聖霊が与えてくださいます。道に迷っている人々を守り導くための知恵を聖霊が与えてくださいます。不安や困難の中にある人々を支えて励ますための愛を聖霊が与えてくださるのです。
聖霊の助けがなくても、人に優しく関わることができます。しかし聖霊の助けがあったら、わたしたちの祈りによって人が癒されたり、その人生が変わったりします。そこが違います。
もしかしたら、最も聖霊を必要としているのは、神のご計画に目と心を開いてもらうためなのかも知れません。このチャペルコミュニティを通して、わたしたちを通して、あなたを通して、僕を通して、神は予想外のこと、全く新しいことをなさることがおできになるのです。
聖霊よおいでください。わたしたちが口で言っていることを心から信じるようにさせてください:
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところの一切を、
はるかに越えてかなえてくださることができる方に、教会により、またキリスト・
イエスによって、栄光が世々に限りなくありますように アーメン」(エペソ 3:20-21、聖餐式の「感謝聖別」の終わり)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月8日・10時30分 聖餐式
今日のマルコの福音書では、「イエスは人々の不信仰に驚かれた」と書いてあります(マルコ6:6)。イエスはわたしたちの信仰をどう思われるのだろう、とちょっと気になります!
この話の流れを把握したいと思います。イエス・キリストは、人類を悪の束縛から救い出すために神によって遣わされました。そこまではいいですか?世の中を見ると、「こうなるはずではなかった!!神様はどうにかしてくれないか、」と言いたいことに対して、神は「どうにか」してくださったのです。その「どうにか」はイエス・キリストです。
イエスがお生まれになる前からも、彼の使命が明らかになっていました。天使ガブリエルはマリアにもヨセフにも言いました:「この子の名前をイエスにしなさい」(ルカ1:31、マタイ1:21)。その名前自体が「神は救いなり」もしくは「神は癒しなり」という意味になっています。両方はあっています:神はわたしたちの魂だけではなくて体をも大切にしてくださるのです。
み子のミッションは神の救い・癒しとなることでした。しかもみ子が人間の世界来られたとき、人間として来られました。100%人間として。み子としての力と地位を全部捨てたのです:「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とパウロ(Ⅱコリント8:9)。
イエスはわたしたちと同じく完全に人間でした。ただ、わたしたちと違ってイエスは天の父とのつながりが途切れていなかったのです。神とのつながりを切ったり、妨げたりするのは罪なので、罪と何の関わりもないイエスは常に神の愛を直感し、神のみ心を行うことを喜びとされたのです。
ほかすべての点では、イエスは普通の人でした。1世紀のパレスチナのユダヤ人として、その義父ヨセフから大工の仕事を覚えられました。イエスの育ちについて殆ど記録がありません。数百人の村落であったナザレに普通に住んで、その地方の工事現場で普通に働かれたわけです。
ところが30歳のころ、イエスはそのいとこヨハネのもとで洗礼を受けに出掛けられます。洗礼のとき、イエスは聖霊に満たされて、「わたしの愛する子」と天からの声が聞こえる、と聖書が教えてくれます(マルコ1:11)。
ここからですね。イエスは子供のときから天の父の愛を感じ、特別なミッションが与えられていることもご存知です。だけどついに、そのミッションを遂行する力を授かるのです。
イエスの力の源泉は聖霊なのです。神の子であることではありません。そういうことを一切捨てられたのです:「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)。だから家畜小屋で、小さくて弱い赤ちゃんとしてイエスがこの世に来られました。そして30年間にわたり、人とほぼ変わらない生活を送られるわけです。
そしてついに、普通の人として聖霊に満たされて、やっと仕事に取り掛かれるのです。
イエスは洗礼を受けてから故郷のナザレに戻られます。地元の人たちに早く福音を伝えたいでしょう。マルコの福音書はイエスの行動を強調しますが、ルカの福音書ではそのナザレの会堂でイエスが何を話しておられたか、記録しています。彼はイザヤ書を引用なさるのです:
「神の霊がわたしの上におられる。貧しい人に良い知らせを告げるために、主がわたしをお選びになった。主がわたしを遣わされたのは、束縛されている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げるためである。圧迫されている人を自由にして、今年こそ神が動き出す年だということを宣言するためである。」(ルカ4:18-19)
つまり、イエスが地元の人たちに仰っているのは:400年前に預言されたことは今、起こっている。神は動き出しておられる!大規模な救出作戦が始まってる。この世を支配している暗闇の力から虜となっている人間をこれからどんどん自由にしていくのだ、と。神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのだ、と。
そしてこられのことの中心は、このわたしなのだ、と。
そしてそこで集まっている人は、はっ?と思うわけです。何言ってんの?何様だと思ってんの?あの大工のお兄さんだろう?!親戚みんな知ってるし...
「このように、人々はイエスにつまずいた」(マルコ6:2-3)。
つまり、どうしてド田舎の小さな村であるこのナザレ出身の人が救い主であり得るのか、ということでした。「なれなれしさは軽蔑を生む。」イエスのことをよく知っているので、別に特別な人ではないのだ、と。
しかも、20年以上ナザレに住みながら、一度も人を癒したり、奇跡を行ったりすることはない。自分が「救い主だ」と言ったこともない。
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これまで一度もありませんでした。いつもこんなふうなんです。同じような話は、教会でも耳にすることができます、たまには(笑)。
僕はクリスチャンファミリーに生れましたが高校生の頃、信仰から離れました。キリストに立ち帰ったときに一つ気づかされたのは、神やイエス・キリストのこと、教会のことを全部知ってるつもりだったけれども、実はそうではなかった、ということです。最初からやり直して、素朴な質問を聞き直して、学び直すことは本当に多かったです。今も学んでいる最中です。
そしてもう一つ気づかされたのは、神はもしかしたら新しい、予想外のこともなさる可能性がある、ということでした。「これまで一度もない」ことにとらわれてはいけないのです。結局、僕の人生においても、神は予想外のことをなさるかもしれない――実際になさろうとしていらっしゃる――ということを受け入れなければならないことに気づかされたのです。
周りに座っている人をご覧なさい。知っている人はいますか?「だいぶ変わっている人」というわけではないと思います。まあ、何人かへんてこりんがいるかも知れないけれども(笑)。でも、ここにいらっしゃる殆どの人はごく普通の人だと思います。
今日、ここに集まっている人たちを通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。自分自身を通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。
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イエスの人生が急に展開したのは、彼が聖霊に満たされて、力づけられたときです。
これはイエスに留まることではありませんでした。来週の聖書日課でも、イエスが十二人の弟子たちを派遣する場面が出てきます。ご自分と全く同じことをさせるのです。すなわち、み国の良い知らせを告げ、病人を癒すなど人々を暗闇の力から解放すること。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)
こうやって神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのです。
しかも十二人だけでもありません。後に、イエスは72人のごく普通の弟子たちを派遣されます。その名前さえ知られていないのです。そのミッションは?良い知らせを告げて、病人を癒す。
そして聖霊降臨の後も、このミッションが続くわけです。まずペテロとヨハネ、そしてフィリポ、そしてアナニア、そしてパウロなどなど、イエスに従う人たちが地の果てまで広がりながら常に二つのことに励んでいきます。み国の良い知らせ、すなわち、神が暗闇の力の虜になっている人を救い出すために動き出しておられるという良い知らせを告げることと、その言っていることを行動で証明して、人の癒しと解放のために祈っていくこと。これだけです。
3世紀初頭の教会リーダーであるテルトゥリアヌスは、すべてのクリスチャンにイエスの働きを受け継ぎなさいと促しました:最もえらい生き方は「悪の力に立ち向かって、人の癒しを祈り、神のために生きることなのである」と訴えたのです。
(こういう生き方は劇や競技場の試合を見に行くよりも楽しいのだ、とテルトゥリアヌスは言っていました[『見世物について』29章]。僕は、人の癒しのために祈ることは、オリンピックより楽しいよ!と言ったら、信じてもらえるかしら...)
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神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくことを明らかに示すために、イエスは癒しと悪霊払いの働きに専念されたのです。言葉だけではなくて行動で証明されたのです。そしてイエスの働きを通して、多くの人々の人生が変わりました。その弟子たちの働きを通しても、多くの人々の人生が変わりました。
いずれもその力の源泉は同じ聖霊でした。イエスの従っていくために、イエスが聖霊に満たされていたと同じようにわたしたちも聖霊に満たされなければならないわけです。
わたしたちは、2つの意味で聖霊を必要としています。まず聖霊の力によって、わたしたち自身が変えられなければならないのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)聖霊がわたしたちの心に取り掛かり、わたしたちをもっとイエスのような人に変えてくださいます。相当時間がかかりますが、もっと潤いのある心、もっと神の喜びと平和に開かれた心を与えてくださるのです。
でももう一つは、人を助けることができるために聖霊がいります。助けを必要としている人々のために大胆に祈る勇気を聖霊が与えてくださいます。道に迷っている人々を守り導くための知恵を聖霊が与えてくださいます。不安や困難の中にある人々を支えて励ますための愛を聖霊が与えてくださるのです。
聖霊の助けがなくても、人に優しく関わることができます。しかし聖霊の助けがあったら、わたしたちの祈りによって人が癒されたり、その人生が変わったりします。そこが違います。
もしかしたら、最も聖霊を必要としているのは、神のご計画に目と心を開いてもらうためなのかも知れません。このチャペルコミュニティを通して、わたしたちを通して、あなたを通して、僕を通して、神は予想外のこと、全く新しいことをなさることがおできになるのです。
聖霊よおいでください。わたしたちが口で言っていることを心から信じるようにさせてください:
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところの一切を、
はるかに越えてかなえてくださることができる方に、教会により、またキリスト・
イエスによって、栄光が世々に限りなくありますように アーメン」(エペソ 3:20-21、聖餐式の「感謝聖別」の終わり)
you ain't seen nothing yet (Mark 6:1-6)
Sixth Sunday After Pentecost (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel
July 8, 2012– 10:30 a.m. Holy Eucharist
We read in Mark's Gospel this morning: "Jesus was amazed at their lack of faith" (Mark 6:6). I wonder what Jesus would think about our faith…
Let's take a minute to get the big picture of what's going on here. Jesus was sent by God to save mankind from the bondage of evil. Are you with me so far? Look around, the world isn't supposed to be like this. Won't God do something about it? He has, and that "something" is Jesus.
Even before Jesus was born, his mission was clear. The angel Gabriel told both Mary and Joseph: "You are to call the child 'Jesus'" (Luke 1:31; Matthew 1:21). His name means "God saves" or "God heals"—the original word has both meanings. And both are true: God is interested in our bodies as much as our souls.
So that's the mission assigned to the Son of God. But when the Son came into the world, He came as a man, 100% human. He gave up all power and privilege as the Son— "though he was rich, yet for your sake he became poor" (2 Corinthians 8:9).
So Jesus was fully human, like you and me. Although unlike us, He enjoyed unbroken communion with the heavenly Father. Sin breaks or blocks the connection between us and God, but Jesus was without sin. So He lived always knowing the love of God, always taking delight in doing the will of God.
In all other respects, though, He was pretty much a normal guy. A 1st century Palestinian Jew who learned carpentry from his step-father, Joseph. That's why we hear almost nothing about Jesus' life growing up. He lived a normal life in Nazareth, a town of maybe a few hundred people, and worked construction in the area.
But then, at around age 30, Jesus goes off to be baptized by his cousin, John the Baptist. At his baptism, we read that Jesus is filled with the Holy Spirit, and hears a voice from heaven saying to him: "You are my Son, my beloved" (Mark 1:11).
This is where things really kick off. Jesus has always known the Father's love, always known He had a mission to do in the world. But at last, He has the POWER to do it.
The Holy Spirit is the source of Jesus' power. NOT his special status as the Son of God. He put all that aside: "Though he was in the form of God, Christ did not count equality with God a thing to be grasped, but emptied himself, by taking the form of a servant, being born in the likeness of men" (Phil 2:6-7). So Jesus came into the world as a tiny baby born in a stable. For the first 30 years of His life, Jesus never performed any healings or other miracles. He was a normal guy.
But now, as a normal guy, He is filled with the Holy Spirit. So now He can get to work.
Jesus goes back to His hometown, Nazareth. He's probably eager to share the good news with the people He grew up with. Mark's Gospel is heavy on the action, but Luke reports what Jesus said in his hometown synagogue. He reads from the Book of Isaiah:
"God's Spirit is on me. He's chosen me to proclaim good news to the poor. He sent me to announce freedom for prisoners and recovery of sight for the blind. He sent me to set the oppressed free. To announce 'This is God's year to act!'" (Luke 4:18-19)
Jesus tells His fellow Nazarenes: What Isaiah said 400 years ago is happening NOW. God is on the move. God has launched His big rescue operation, to free us from our enslavement to the powers that control this world. God's Kingdom is advancing, the kingdom of darkness is receding.
And all of this is starting with Yours Truly.
And they're all like, huh? What is he TALKING about? Where does he get off talking that way? He's just a construction worker! We know his family!
"And they took offense at him" (Mark 6:2-3).
The people of Nazareth can't imagine that someone who grew up in their little hamlet could be the promised Savior. Familiarity breeds contempt. They know Jesus too well; He can't be special.
Besides, for more than 20 years Jesus lived in Nazareth and never did miracles before. He never claimed to be the Savior before.
+ + +
It's never happened before. It's always been this way. These are phrases one often hears in church.
I grew up in a Christian family but left the faith in high school. When I came back to Christ, one thing I was forced to realize was that, although I thought I already knew all about God and Jesus and Christianity, in fact, I didn't. I had to start from the beginning and reask the basic questions, relearn so many things. I'm still learning.
And I had to open my mind to the possibility that God could do new and unexpected things. Eventually I had to open my mind to the possibility that God wanted to do new and unexpected things IN MY LIFE.
Look around you. Do you know anybody here? We're a fairly normal lot, don't you think? A few of us are a bit strange, but…all and all, plain vanilla.
Do you think God is capable of doing something new and unexpected through the people gathered here today?
Do you think God is capable of doing something new and unexpected through you?
+ + +
What changed in Jesus' life was that He was filled and empowered by the Holy Spirit.
But it was never only about Jesus. Next week, we'll read about Jesus sending out the Twelve Disciples to do exactly the same thing that He's doing: proclaim the good news of the Kingdom, and heal the sick and deliver people from evil powers:
"They went out and preached that people should repent. They drove out many demons and anointed many sick people with oil and healed them" (Mark 6:12-13).
In this way, God's Kingdom advances, and the kingdom of darkness recedes.
And it's not just the Twelve, either. Later, Jesus sends out Seventy Two plain vanilla disciples—we don't even know their names: Proclaim the good news and heal the sick.
And after Pentecost, the mission continues. First Peter and John, then Philip, then Annanias, then Paul—and on and on, Jesus' followers go out to the ends of the earth. Always doing two things: Proclaiming the good news of the Kingdom, the good news that God is acting to rescue mankind from enslavement to evil, and then backing up their proclamation by praying for people to be healed and set free from bondage.
Tertullian, a Church leader of the early 3rd century, urged all Christians to continue in the ministry of Jesus. He said the noblest life is "to exorcise evil spirits—to perform cures—to live to God."
(Tertullian even argued that doing such things was more exciting than going to plays or sports events! (Tertullian, "De Spectaculis," Ch. 29) If I told you that praying for people was more exciting than watching the Olympics, would you believe me?)
+ + +
Jesus focused on a ministry of healing and deliverance to clearly show that God's Kingdom was advancing, and the kingdom of darkness was receding. It wasn't just words, it was His words backed up by His actions. Through His ministry, lives were changed. Through the ministry of His followers, lives were changed.
The source of power for Jesus' followers is the same source as for Jesus Himself: the Holy Spirit. If we are to follow Jesus, we need to be filled with the Holy Spirit just as Jesus was.
We need the Holy Spirit for two reasons. First, we need the Holy Spirit to change us. "The fruit of the Spirit is love, joy, peace, forbearance, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control" (Galatians 5:22-23). The Holy Spirit works on our hearts to make us more like Jesus, more full of life, more open to God's joy and peace.
But we also need the Holy Spirit so that we can really help people. The Spirit gives us courage to pray boldly for people who are in need, wisdom to give counsel to those who have lost their way, love to encourage those who are anxious or in doubt.
Without the Spirit, we can be kind and supportive. With the Spirit we can see people being healed and lives changed. That's the difference.
But perhaps most of all we need the Spirit to open our eyes and our hearts to the plans God has in store for us. God is capable of doing something new and unexpected through this chapel, through us, through you, through me.
Come, Holy Spirit, and help us to believe in our hearts what we say with our lips:
"Glory to God whose power, working in us, can do infinitely more than we can ask or imagine: Glory to him from generation to generation in the Church, and in Christ Jesus for ever and ever. Amen" (Ephesians 3:20,21, at the end of the Eucharistic Prayer)
2012年6月15日金曜日
a showdown at the harbor (Acts 13:4-12)
Led by the Holy Spirit, Paul and Barnabas preach their way across the island of Cyprus, Barnabus' home, and make a long stay in Paphos, a port on the west coast of the island. "The proconsul, Sergius Paulus" (v. 7) summons Paul and Barnabas to hear their message, which must have been causing quite a stir.
As Roman citizen, Paul is well-suited to establish a rapport with Sergius Paulus, which he uses to tell him the Good News about Jesus Christ. Paulus, "an intelligent man" (v. 7), is impressed by Paul's message, and is nearly ready to accept faith in Jesus. But then Bar-Jesus, the proconsul's Jewish counsellor and fortune-teller, steps in to interfere.
Filled with the wisdom of the Holy Spirit (v. 9), Paul can see what's going on: Bar-Jesus is operating under an evil influence. Satan (=the force of darkness that opposes God and His works) hates it when people come to believe in Christ—the devil doesn't want us to receive the forgiveness or healing or salvation or eternal life that God wants to give us. Forces that try to turn people away from the winsomness of Christ are finally demonic.
Bar-Jesus means "son of salvation," but Paul perceives that Elymas is really "a child of the devil" (v. 10)—i.e. acting as a proxy for the devil.
Serious problems require serious remedies, just as a brain tumor requires radical treatment. Paul declares the remedy that God will take in this situation: Bar-Jesus will be temporarily blinded. In other words, his inward spiritual blindness will be made clear and concrete in the form of temporary physical blindness.
When Paul declares this: "Immediately mist and darkness came over him" (v. 11=Luke the physician is here using contemporary medical language to describe the scene).
Paul surely recalls his own experience of being blinded on the road to Damascus, which changed his life. God does not cause sickness, although He may allow inward spiritual disorders to take on outward physical form. But God certainly does use times of sickness and physical and mental distress to bring about great change in us, fresh awareness, renewed resolution to live in consonance with His will.
The proconsul is deeply impressed because both the words and the actions of Paul reflect the reality of God. And so, Paul leads Paulus to Christ, his first Gentile convert.
As Roman citizen, Paul is well-suited to establish a rapport with Sergius Paulus, which he uses to tell him the Good News about Jesus Christ. Paulus, "an intelligent man" (v. 7), is impressed by Paul's message, and is nearly ready to accept faith in Jesus. But then Bar-Jesus, the proconsul's Jewish counsellor and fortune-teller, steps in to interfere.
Filled with the wisdom of the Holy Spirit (v. 9), Paul can see what's going on: Bar-Jesus is operating under an evil influence. Satan (=the force of darkness that opposes God and His works) hates it when people come to believe in Christ—the devil doesn't want us to receive the forgiveness or healing or salvation or eternal life that God wants to give us. Forces that try to turn people away from the winsomness of Christ are finally demonic.
Bar-Jesus means "son of salvation," but Paul perceives that Elymas is really "a child of the devil" (v. 10)—i.e. acting as a proxy for the devil.
Serious problems require serious remedies, just as a brain tumor requires radical treatment. Paul declares the remedy that God will take in this situation: Bar-Jesus will be temporarily blinded. In other words, his inward spiritual blindness will be made clear and concrete in the form of temporary physical blindness.
When Paul declares this: "Immediately mist and darkness came over him" (v. 11=Luke the physician is here using contemporary medical language to describe the scene).
Paul surely recalls his own experience of being blinded on the road to Damascus, which changed his life. God does not cause sickness, although He may allow inward spiritual disorders to take on outward physical form. But God certainly does use times of sickness and physical and mental distress to bring about great change in us, fresh awareness, renewed resolution to live in consonance with His will.
The proconsul is deeply impressed because both the words and the actions of Paul reflect the reality of God. And so, Paul leads Paulus to Christ, his first Gentile convert.
2012年6月13日水曜日
出だしが悪かった(創世記 3:1-21)
聖霊降臨後第2主日(B年)・10時30分 聖餐式
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
今日の創世記の言葉を皆さんと一緒に見たいと思います。なぜかというと、21世紀に住んでいるわたしたち人間の状況を理解するのに不可欠なものだと思うからです。
でも最初に、この創世記の記事の目的について一言。創世記は科学教科書のような資料ではありません。人類の生物学的な起源を説明しようとしていません(創世記と進化論の概念は基本的に相容れないものではないと思います)。
もちろん、論理的に考えると、何千年も前にどこかの時点で、「最初の親」が登場したはずです。つまり、チンパンジーでもネアンデルタール人でもない人間は、いつかどこかでスタートしたわけです。
でも聖書が興味を置いているのは、そういう点ではありません。アダムとエバの話は象徴的な言葉をもって2つのとても大事な質問に答えようとしています:すなわち、1)人間とはなにか、と2)何で人間は今このようになっているのか、と。
誰でもこの2つの質問について考えるべきだと思います。創世記は、神が知ってもらいたい答えを示しています。だから、限られた時間でも、この文章を皆さんと一緒に見たいと思います。
+ + +
蛇の出だしに注意してください。「[こういうこと]などと神は言われたのか。」これは悪魔の典型的な作戦です:神が示されたことに疑問を投げ掛けること。荒れ野にいたイエスの話を覚えていますか。「あなたは神の子なら...」とサタンが言ったわけです。その前、イエスが洗礼を受けられたとき、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天に言われたばかり。なのに悪魔は、それは本当かな?確かか?と疑わせようとします。
わたしたちも毎日同じような誘惑に遭うと思います。すなわち、神が明らかに示してくださったことを疑うように。イエスは隣人を赦しなさいと命じられたのだが、兄嫁もその「隣人」の中に入るかしら。聖書は、本当に結婚外の肉体的関係はだめだと言っているのかな。イエス・キリストは本当にこの世の救い主か。確かか?
でもここで蛇が何に疑問を投げ掛けているのか、注意してほしいです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
こういうことを言うのはどういう神でしょうか。イジワルな神に決まっていると思います。人間を美しい園に置き、四方に美味しい食べ物を置きながら「だめだ。食べるな」と言うこととは。
でも実際にこのような神のイメージを持つ人は少なくないと思います。神は厳しい独裁者のような神だと思ったりします。人の楽しみを台無しにしようとしている。長い、難しくてつまらない人生で我慢することを求める。理由もなくこれもあれも禁じる。実は悪魔が持たせたい神のイメージはまさにこのとおりです。
でもこのイメージは果たしてあっているでしょうか。実際に神が仰ったことを聞きましょう。
ちょっと前、2章にはこういうことがありました:
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:15-17)
園のすべての木から自由に取って食べなさい、と。どんな木でも!莫大な数の木々からぶら下がっている果物のどれでも食べなさい!いつでも、食べ放題だ!
これは独裁者の声?全然違います。これは子煩悩な父親が言うことです。その子供たちのために何不自由ない環境を整えてくださったのです。サタンはよくこの父の愛を疑わせるものです。
もうやばいです。エバは蛇の策略に引っ掛かりはしないが、すでに危ない方向に向かっています。エバが神の命じられたことを大げさに言っていることに気づきましたか?神:「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」エバはそれを曖昧にします:「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」
神はまず触れることについて何も仰っていません。しかも、「園の中央に生えている木」ではなくてはっきり一本だけの木を指定なさいました。
どうして神はこの善悪の知識の木だけを禁じられるのか。「食べて欲しくないなら、どうしてそういう木を置いたのか」と考える人がいます。その答えは、人間の自由に関係していると思います。
神はご自分にかたどって人間をお造りになった、と聖書。それはおもに、自ら進んで愛に応える、愛を捧げる特徴を表わしていることです。
神への愛を示す一番大きな方法は、神に聞き従うことです。従うか従わないか、わたしたちの自由何です。神は人をロボットのようなもの造られませんでした。だから、エデンの園で、禁止されるものが何もなかったら、アダムとエバには従う・従わないという自由もなかったわけです。本当の意味で神を愛することもできません。愛は自由に、自ら進んですることでなければいけないのです。
でもそれよりも、神が「善悪の知識の木から食べてはならない」と仰ったのは、僕が娘に「あついストーブに触るな」と言うと同じことです。娘を愛しているからそう言っているのです。
善悪の知識の木が禁止になっていたのは、害を加えるものだったからです。基本的に「神に禁じられているから」ことがいけないのではなくて、害になることは神に禁じられるわけです。
アダムとエバはすでに善悪を見分けることができていました。神に従わないで、その木から実を食べることが悪いことだ分かっていました。今までは、彼らは直感的に正しいことが分かり、自然に正しいことを、正しいから、そして神に喜んでもらえるから、ずっとやってきたのです。
でも禁断の果実を食べると、今までにないように善悪を「知る」ことになります。ヘブライ語で「知識」とか「知る」という言葉は、ただ意識する、理解するだけではなくて、知り尽くす、熟知する、その知っていることと密接に関わりを持つ、というニュアンスがあります。善悪の知識の木の実を食べれば、善だけではなくて悪も彼らの心に舞い込むわけです。そうすると、「神のように」なる(と5節に)。つまり、何が善なのか、何が悪なのか、神の仰っていることとは関係なく勝手に決める立場を取ることになるのです。
でも、この蛇とエバのやりとりの一番悲しいところは、エバが言う「神様」という一つの言葉にあると思います。
創世記では今まで神はずっと「主なる神」(Adonai Elohim)と呼ばれていますがここで始めて、ただの「神様」(Elohim)に変わります。「主」(adonai)という言葉には深い関係性の意味合いが含まれています。造り主とその造られた人。主人とその民。導いて守る側と賛美・感謝をもって仕える側。親しく語る主と喜んで耳を傾ける人。愛を注ぐ側と愛を返す側――そういう関係がもう、この時点でも、見失ってしまっているわけです。神はただ「神様」になっています。強い神ではありますが、よそよそしい神でもあります。「木に触れてもいけない!」のように勝手にルールを強要する神。
では恐ろしいシーンを見てみましょう:
禁断の果実を食べると、どうなったでしょうか。
これに続く話を見ますと、まずアダムとエバの関係が崩壊することが分かります。今までは、二人が裸でありながらも別に恥ずかしくない、と書いてありました(創世記2:25)。つまり、ありのままの自分で一緒にいて、相手のありのままを尊敬し、受け入れ合っていたのです。
もはやそうではありません。本当の自分が見られるのは恥ずかしい。しかも、今まで喜びに満ちた、互いに仕え合っていた夫婦関係が変な力関係に変わってしまうのです。
そして、神が恐ろしい存在になってしまいます。今までは神と人は友愛関係をもって、園における協同者でした。もはやそうではありません:
「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:9-10)
ここにものすごい距離感を感じませんか。ギクシャクして緊張を伴っている場面です。罪は、そういう効果があるのです。わたしたちを神から引き離します。神に見られたくなくなる。神の正しい裁きが恐ろしくなるのです。
続きの言葉を飛ばしますが、注意してほしいです。アダムはエバに責任転嫁して、エバは蛇に責任転嫁するのです。とても情けないことでないなら笑っちゃう場面ですね。このとき以来、人間は責任を回避するようになっています。今の政治化は、特にそれを見事に見せてくれます。
そして最後に、人間は地球そのものから疎遠してしまいます。地球を管理し、守り、耕すように頼まれた人間は、これから苦労して、環境を打ち勝って乱用するようになるのです。
+ + +
時々こういう話を耳にします:エデンの園で起こった出来事、いわゆる「堕罪」という出来事は、実は良かった、必要だった、という話です。アダムとエバの反抗は人類の成長の苦しみだったのだ、と。自主独立を得るにはこういう道を通らなければならなかったのだ、と。
しかしこれほど聖書全体が言っていることを強引に読み違えることはないと思います。聖書は一貫して「堕罪」という出来事が純然たる大災害でしかないと主張するのです。神と人間との関係、人間同士の関係、自分との関係、地球との関係はこれで引き裂かれたのだ、と訴えるのです。
神の子供が成長して巣立った話ではありません。もっと妥当なたとえは、少年や少女が町でスカウトされて、離れた都会で薬物と暴力と売春の人生に消えてしまったというような話になります。
アダムとエバの罪は、何から何まで悲惨なことでした。実は、その時点から、人間のストーリーがどんどん暗くなっていくのです。アダムとエバには二人の子供が生れますが、カインは弟のアベルを殺してしまいます。それからもっとひどくなります。人類を最初からやり直そうと神が思われるぐらいひどくなります。大洪水というリセットのときに、ノアとその家族だけ救われます。が、箱舟から降りるノアはすぐ、酔っ払ったあげくの放蕩に落ちってしまいます。
とにかくわたしたちはアダムとエバの罪の跡継ぎです。毎日、堕罪の結果は目に前に現われます。この世は大きな悪と苦しみの泥沼に巻き込まれています。しかもその殆どが直接あるいは間接的に人間の自己中心や欲張りや暴力、あるいは人間の無関心によるものです。
皆さんはドアに鍵を掛けていますか。僕は掛けています。絶えず年寄りの方に「振り込み詐欺」を警告しなければなりません。結婚はどんどん崩壊しています:日本の離婚率は40%弱(アメリカは50%!)。貧富の差は日本でも世界的にも広がっています。今現在、世界のすべての人に、毎日2,720kcalの食べ物が作られていますが、7人の1人は空腹状態にあります(半分以上はアジアに)。毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなっています。今、40ぐらいの武力紛争が世界各地に起きています。掛け替えのない熱帯雨林の破壊がどんどん進んでいます。毎日、3つの絶滅危惧種が消えていきます。
聖書は言います:こんなはずではなかった。この状態は当たり前と思ってはならない!!これは、人間が神の慈しみを疑ってしまうこと、神の代わりにだろうとする心の結果である、と。しかも、この泥沼から抜け出す力は、人間にはない、と。わたしたちの望みはどこにあるのでしょうか。
その話は別の機会にしたいと思います。ただ、最後に、今日の創世記の最後の言葉を見たいです。
アダムとエバはもはや園にいられません。ところが、これだけひどいことがあっても、2人が唯一定められた掟を破っても、基本的に神の愛と恵みを信頼していない姿勢を見せても、神の立場を取ろうとしても、園の麗しい平安を永遠に損なっても――それでも、神はどうされますか?彼らを滅ぼしてしまう?忘れてしまう?見捨ててしまうのでしょうか?
いや、違います。神は暖かい服を着せてくださるのです。園の外の気候は厳しくて、いちじくの葉だけでは足りないのです。だから神ご自身が衣を用意して、2人の罪の最もきつい結果から彼らを守ってくださるのです。
どうしてかというと、神は変わっておられないからです。アダムとエバは変わりましたが、神はそうではないのです。神は相変わらず、子煩悩な父親です。その子供たちが愛しい。神はわたしたちの幸福と喜び以外に何も望まれていないのです。わたしたちが神を見捨てても、神はわたしたちを見捨てたりはなさらないのです。
最後の最後に、質問があります:その服は、何でできたのか。動物の皮ですね。つまり、アダムとエバがその罪の結果から守られるために、罪のないものの血が流されたわけです。
お分かりでしょうか。ここストーリーの始まりに、ストーリーの終わりに起こることのヒントがあります。罪の結果からわたしたちを救うのが、やはり罪のない犠牲者の血である、ということ。
わたしたちの主イエス・キリストに感謝しましょう。「わたしたちはその血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
今日の創世記の言葉を皆さんと一緒に見たいと思います。なぜかというと、21世紀に住んでいるわたしたち人間の状況を理解するのに不可欠なものだと思うからです。
でも最初に、この創世記の記事の目的について一言。創世記は科学教科書のような資料ではありません。人類の生物学的な起源を説明しようとしていません(創世記と進化論の概念は基本的に相容れないものではないと思います)。
もちろん、論理的に考えると、何千年も前にどこかの時点で、「最初の親」が登場したはずです。つまり、チンパンジーでもネアンデルタール人でもない人間は、いつかどこかでスタートしたわけです。
でも聖書が興味を置いているのは、そういう点ではありません。アダムとエバの話は象徴的な言葉をもって2つのとても大事な質問に答えようとしています:すなわち、1)人間とはなにか、と2)何で人間は今このようになっているのか、と。
誰でもこの2つの質問について考えるべきだと思います。創世記は、神が知ってもらいたい答えを示しています。だから、限られた時間でも、この文章を皆さんと一緒に見たいと思います。
+ + +
主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:1)教会では、この蛇はサタンあるいはその使いだというふうに理解しています。サタンの動機というのは、洗礼式にあるように「神によって造られたこの世を堕落させ破壊する」のです。
蛇の出だしに注意してください。「[こういうこと]などと神は言われたのか。」これは悪魔の典型的な作戦です:神が示されたことに疑問を投げ掛けること。荒れ野にいたイエスの話を覚えていますか。「あなたは神の子なら...」とサタンが言ったわけです。その前、イエスが洗礼を受けられたとき、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天に言われたばかり。なのに悪魔は、それは本当かな?確かか?と疑わせようとします。
わたしたちも毎日同じような誘惑に遭うと思います。すなわち、神が明らかに示してくださったことを疑うように。イエスは隣人を赦しなさいと命じられたのだが、兄嫁もその「隣人」の中に入るかしら。聖書は、本当に結婚外の肉体的関係はだめだと言っているのかな。イエス・キリストは本当にこの世の救い主か。確かか?
でもここで蛇が何に疑問を投げ掛けているのか、注意してほしいです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
こういうことを言うのはどういう神でしょうか。イジワルな神に決まっていると思います。人間を美しい園に置き、四方に美味しい食べ物を置きながら「だめだ。食べるな」と言うこととは。
でも実際にこのような神のイメージを持つ人は少なくないと思います。神は厳しい独裁者のような神だと思ったりします。人の楽しみを台無しにしようとしている。長い、難しくてつまらない人生で我慢することを求める。理由もなくこれもあれも禁じる。実は悪魔が持たせたい神のイメージはまさにこのとおりです。
でもこのイメージは果たしてあっているでしょうか。実際に神が仰ったことを聞きましょう。
ちょっと前、2章にはこういうことがありました:
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:15-17)
園のすべての木から自由に取って食べなさい、と。どんな木でも!莫大な数の木々からぶら下がっている果物のどれでも食べなさい!いつでも、食べ放題だ!
これは独裁者の声?全然違います。これは子煩悩な父親が言うことです。その子供たちのために何不自由ない環境を整えてくださったのです。サタンはよくこの父の愛を疑わせるものです。
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:2-3)
もうやばいです。エバは蛇の策略に引っ掛かりはしないが、すでに危ない方向に向かっています。エバが神の命じられたことを大げさに言っていることに気づきましたか?神:「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」エバはそれを曖昧にします:「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」
神はまず触れることについて何も仰っていません。しかも、「園の中央に生えている木」ではなくてはっきり一本だけの木を指定なさいました。
どうして神はこの善悪の知識の木だけを禁じられるのか。「食べて欲しくないなら、どうしてそういう木を置いたのか」と考える人がいます。その答えは、人間の自由に関係していると思います。
神はご自分にかたどって人間をお造りになった、と聖書。それはおもに、自ら進んで愛に応える、愛を捧げる特徴を表わしていることです。
神への愛を示す一番大きな方法は、神に聞き従うことです。従うか従わないか、わたしたちの自由何です。神は人をロボットのようなもの造られませんでした。だから、エデンの園で、禁止されるものが何もなかったら、アダムとエバには従う・従わないという自由もなかったわけです。本当の意味で神を愛することもできません。愛は自由に、自ら進んですることでなければいけないのです。
でもそれよりも、神が「善悪の知識の木から食べてはならない」と仰ったのは、僕が娘に「あついストーブに触るな」と言うと同じことです。娘を愛しているからそう言っているのです。
善悪の知識の木が禁止になっていたのは、害を加えるものだったからです。基本的に「神に禁じられているから」ことがいけないのではなくて、害になることは神に禁じられるわけです。
アダムとエバはすでに善悪を見分けることができていました。神に従わないで、その木から実を食べることが悪いことだ分かっていました。今までは、彼らは直感的に正しいことが分かり、自然に正しいことを、正しいから、そして神に喜んでもらえるから、ずっとやってきたのです。
でも禁断の果実を食べると、今までにないように善悪を「知る」ことになります。ヘブライ語で「知識」とか「知る」という言葉は、ただ意識する、理解するだけではなくて、知り尽くす、熟知する、その知っていることと密接に関わりを持つ、というニュアンスがあります。善悪の知識の木の実を食べれば、善だけではなくて悪も彼らの心に舞い込むわけです。そうすると、「神のように」なる(と5節に)。つまり、何が善なのか、何が悪なのか、神の仰っていることとは関係なく勝手に決める立場を取ることになるのです。
でも、この蛇とエバのやりとりの一番悲しいところは、エバが言う「神様」という一つの言葉にあると思います。
創世記では今まで神はずっと「主なる神」(Adonai Elohim)と呼ばれていますがここで始めて、ただの「神様」(Elohim)に変わります。「主」(adonai)という言葉には深い関係性の意味合いが含まれています。造り主とその造られた人。主人とその民。導いて守る側と賛美・感謝をもって仕える側。親しく語る主と喜んで耳を傾ける人。愛を注ぐ側と愛を返す側――そういう関係がもう、この時点でも、見失ってしまっているわけです。神はただ「神様」になっています。強い神ではありますが、よそよそしい神でもあります。「木に触れてもいけない!」のように勝手にルールを強要する神。
では恐ろしいシーンを見てみましょう:
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:6-7)
禁断の果実を食べると、どうなったでしょうか。
これに続く話を見ますと、まずアダムとエバの関係が崩壊することが分かります。今までは、二人が裸でありながらも別に恥ずかしくない、と書いてありました(創世記2:25)。つまり、ありのままの自分で一緒にいて、相手のありのままを尊敬し、受け入れ合っていたのです。
もはやそうではありません。本当の自分が見られるのは恥ずかしい。しかも、今まで喜びに満ちた、互いに仕え合っていた夫婦関係が変な力関係に変わってしまうのです。
そして、神が恐ろしい存在になってしまいます。今までは神と人は友愛関係をもって、園における協同者でした。もはやそうではありません:
「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:9-10)
ここにものすごい距離感を感じませんか。ギクシャクして緊張を伴っている場面です。罪は、そういう効果があるのです。わたしたちを神から引き離します。神に見られたくなくなる。神の正しい裁きが恐ろしくなるのです。
続きの言葉を飛ばしますが、注意してほしいです。アダムはエバに責任転嫁して、エバは蛇に責任転嫁するのです。とても情けないことでないなら笑っちゃう場面ですね。このとき以来、人間は責任を回避するようになっています。今の政治化は、特にそれを見事に見せてくれます。
そして最後に、人間は地球そのものから疎遠してしまいます。地球を管理し、守り、耕すように頼まれた人間は、これから苦労して、環境を打ち勝って乱用するようになるのです。
+ + +
時々こういう話を耳にします:エデンの園で起こった出来事、いわゆる「堕罪」という出来事は、実は良かった、必要だった、という話です。アダムとエバの反抗は人類の成長の苦しみだったのだ、と。自主独立を得るにはこういう道を通らなければならなかったのだ、と。
しかしこれほど聖書全体が言っていることを強引に読み違えることはないと思います。聖書は一貫して「堕罪」という出来事が純然たる大災害でしかないと主張するのです。神と人間との関係、人間同士の関係、自分との関係、地球との関係はこれで引き裂かれたのだ、と訴えるのです。
神の子供が成長して巣立った話ではありません。もっと妥当なたとえは、少年や少女が町でスカウトされて、離れた都会で薬物と暴力と売春の人生に消えてしまったというような話になります。
アダムとエバの罪は、何から何まで悲惨なことでした。実は、その時点から、人間のストーリーがどんどん暗くなっていくのです。アダムとエバには二人の子供が生れますが、カインは弟のアベルを殺してしまいます。それからもっとひどくなります。人類を最初からやり直そうと神が思われるぐらいひどくなります。大洪水というリセットのときに、ノアとその家族だけ救われます。が、箱舟から降りるノアはすぐ、酔っ払ったあげくの放蕩に落ちってしまいます。
とにかくわたしたちはアダムとエバの罪の跡継ぎです。毎日、堕罪の結果は目に前に現われます。この世は大きな悪と苦しみの泥沼に巻き込まれています。しかもその殆どが直接あるいは間接的に人間の自己中心や欲張りや暴力、あるいは人間の無関心によるものです。
皆さんはドアに鍵を掛けていますか。僕は掛けています。絶えず年寄りの方に「振り込み詐欺」を警告しなければなりません。結婚はどんどん崩壊しています:日本の離婚率は40%弱(アメリカは50%!)。貧富の差は日本でも世界的にも広がっています。今現在、世界のすべての人に、毎日2,720kcalの食べ物が作られていますが、7人の1人は空腹状態にあります(半分以上はアジアに)。毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなっています。今、40ぐらいの武力紛争が世界各地に起きています。掛け替えのない熱帯雨林の破壊がどんどん進んでいます。毎日、3つの絶滅危惧種が消えていきます。
聖書は言います:こんなはずではなかった。この状態は当たり前と思ってはならない!!これは、人間が神の慈しみを疑ってしまうこと、神の代わりにだろうとする心の結果である、と。しかも、この泥沼から抜け出す力は、人間にはない、と。わたしたちの望みはどこにあるのでしょうか。
その話は別の機会にしたいと思います。ただ、最後に、今日の創世記の最後の言葉を見たいです。
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:21)
アダムとエバはもはや園にいられません。ところが、これだけひどいことがあっても、2人が唯一定められた掟を破っても、基本的に神の愛と恵みを信頼していない姿勢を見せても、神の立場を取ろうとしても、園の麗しい平安を永遠に損なっても――それでも、神はどうされますか?彼らを滅ぼしてしまう?忘れてしまう?見捨ててしまうのでしょうか?
いや、違います。神は暖かい服を着せてくださるのです。園の外の気候は厳しくて、いちじくの葉だけでは足りないのです。だから神ご自身が衣を用意して、2人の罪の最もきつい結果から彼らを守ってくださるのです。
どうしてかというと、神は変わっておられないからです。アダムとエバは変わりましたが、神はそうではないのです。神は相変わらず、子煩悩な父親です。その子供たちが愛しい。神はわたしたちの幸福と喜び以外に何も望まれていないのです。わたしたちが神を見捨てても、神はわたしたちを見捨てたりはなさらないのです。
最後の最後に、質問があります:その服は、何でできたのか。動物の皮ですね。つまり、アダムとエバがその罪の結果から守られるために、罪のないものの血が流されたわけです。
お分かりでしょうか。ここストーリーの始まりに、ストーリーの終わりに起こることのヒントがあります。罪の結果からわたしたちを救うのが、やはり罪のない犠牲者の血である、ということ。
わたしたちの主イエス・キリストに感謝しましょう。「わたしたちはその血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)
2012年6月12日火曜日
starting off on the wrong foot (Genesis 3:1-21)
Second Sunday After Pentecost (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel - 10:30 a.m. Holy Eucharist
I want to look a bit at the text from Genesis we read today, because I think what is revealed here is so essential for understanding what it means to live as a human being in the 21st century.
But first I should say a quick word about what this account in Genesis is aiming to do. Genesis is not like a science textbook: It isn't trying to explain the biological origin of the human race.
Of course, even simple logic dictates that, at some point, however many thousands of years ago, our "first parents" had to come on stage—that is, the human race, as distinct from chimpanzees or Neanderthals, had to start at some point, somewhere.
But that's actually not where the Bible's interest lies. The story of Adam and Eve is trying to answer two very important questions: 1. What is a human being? and 2. Why are human beings the way we are now, today?
Notice how the serpent starts out: "Did God really say…?" That's a typical approach for the devil: To cast doubt on what God has revealed. Do you recall what Satan said to Jesus in the wilderness: "If you are the Son of God" (Matt 4:3)? God had just declared at Jesus' baptism: "You are my Son, my Beloved," but the devil says, Is it really true? Are you absolutely sure?
Every day, we face similar temptations to doubt what God has clearly shown us. Jesus commanded us to forgive our neighbor, but did He really mean my sister-in-law? Does the Bible really say no sex outside marriage? Is Jesus Christ really Lord and Savior of the world? Are you absolutely sure?
But notice what the serpent is trying to get Eve to doubt here: "Did God really say, 'You must not eat from any tree in the garden'?"
What kind of God would say such a thing?! A cruel, tyrannical God! To put man in a beautiful garden, surround him with good things to eat, and then to say: Sorry, not for you. Hands off.
Actually, many people have a similar view of God. They assume God is a harsh tyrant. He's out to spoil our enjoyment of life. He asks us stoically to endure life as one long, joyless grind. He forbids this and that for no reason. And that's exactly the image of God the devil wants us to have!
But is it true? Let's listen to what God really did say, a few verses back in Chapter 2:
The Lord God took the man and put him in the Garden of Eden to work it and take care of it. And the Lord God commanded the man, "You are free to eat from any tree in the garden; but you must not eat from the tree of the knowledge of good and evil." (Genesis 2:15-17)
You are free to eat from any tree in the garden! Any tree! Thousands upon thousands of trees bearing wonderful fruit and vegetables--and you can eat whatever you like! Whenever you like! As much as you like!
Does that sound like a tyrant? No, that is a loving Father who has provided for the needs of his children. Nothing is lacking. And yet, getting us to doubt the love of the Father is one of Satan's most successful tactics.
God never said anything about touching the tree. And He was very specific: "the tree of the knowledge of good and evil".
Why did God forbid that tree? Some people ask, "Why did God make the tree in the first place if He didn't want people eating from it?" The answer has to do with freedom. God made man in His image, which means He made us free to respond to Him, and free to offer love. And the primary way we show that we love God is by obeying what God says.
We are free to obey, or not to obey. God did not make people like robots. If nothing were forbidden in Eden, there wouldn't be even the possibility of Adam and Eve choosing to not obey. Which means there would also be no possibility of loving God: Love has to be freely chosen, or else it's not love.
But more importantly, God said "Don't eat from the tree of the knowledge of good and evil" in the same way I say to my daughter, "Don't touch the hot stove." I say that precisely because I love her.
Well, the tree was off limits because it was harmful. Something isn't just wrong because it is forbidden by God; God forbids things that are harmful.
Adam and Eve already knew right from wrong. They knew it was wrong to disobey God and eat from that tree. Up until now, Adam and Eve have had an intuitive knowledge of good. They have naturally done what is good, simply because it is good and because it is pleasing to God.
In eating this fruit, though, Adam and Eve will "know" good and evil in a way they never did before. The Hebrew word for "knowledge" doesn't just mean awareness--it means being enmeshed with the thing known. After eating the forbidden fruit, evil will become part of them. And they will become "like God," it says in verse 5. Which means, they put themselves in the position of deciding what is good and what is evil--regardless of what God says.
But the saddest thing about this interaction between Eve and the serpent is one word spoken by Eve: "God" (kami-sama).
Up until now in Genesis, God has been called "the Lord God" (adonai Elohim in Hebrew). But now Eve says simply, "God" (Elohim).
"Lord" signifies a profound relationship. Creator and created. The Lord and his people. The One who guides and protects and those who serve Him with praise and thanksgiving. The One who speaks intimately and those who listen with joy. The One who pours out love and those who return love.
Already at this point, Eve has lost sight of this relationship. For her, "God" is powerful, but distant. He is Someone who simply imposes rules: Don't even touch the tree!
As we skim over the next verses of Genesis 3, first we see Adam and Eve's relationship breaks down. Until now, the two of them have been naked but not ashamed (Gen 2:25). In other words, they were completely themselves with each other; each completely accepted the other one as they were.
But now they're ashamed to be seen as they really are. What's more, the husband-wife relationship which was one of delight and mutual service becomes an imbalanced power relationship.
The second thing we see is that Adam and Eve are terrified of God. Up until now, God and man were friends, co-workers in the garden. But no longer: "The Lord God called to the man, 'Where are you?' He answered, 'I heard you in the garden, and I was afraid…'" (Genesis 3:9-10)
Can you feel the incredible distance, the anxiety here? That's what sin does: It pulls us far away from God, and makes us afraid of submitting to His gaze, afraid of His righteous judgments.
I will skip over the next verses. But notice how Adam shifts blame to Eve, and Eve shifts blame to the serpent--people have been denying responsibility ever since. Our politicians are a shining example of this.
Finally, man is alienated from the natural world itself. Man, whose job was to manage and protect and till the soil now has to fight to dominate the natural world.
+ + +
Once in awhile you hear someone say what happened in the garden of Eden, what's commonly called "the Fall," was somehow good or necessary. The disobedience of Adam and Eve was sort of humankind's "growing pains," the cost of gaining autonomy.
It's hard to imagine a more outrageous misreading of everything the Bible says about Eden. Scripture speaks with one voice in declaring the Fall an unmitigated catastrophe, a total dislocation of man from right relationship to God, to his fellow man, to himself and the natural world.
It wasn't that God's children grew up and left the nest. A better example would be a teenager being "scouted" and lured into a life of drug abuse, violence, and prostitution, in a city far from home.
Absolutely nothing about the sin of Adam and Eve was good or necessary. In fact, from this point on, the human story just goes from bad to worse. Adam and Eve have two sons, Cain and Abel. Cain ends up killing Abel. It gets even worse after that. So bad, in fact, that God decides to start over, using the Flood as a kind of reset button for the human race. Only Noah and his family are spared--but as soon as they get off the boat, they fall back into drunken perversion.
We are inheritors of the sin of Adam and Eve. Every day we live with the consequences of the Fall. Our world is stuck in the mire of great evil and suffering, the bulk of which is caused directly or indirectly by human selfishness and greed and violence, as well as sheer disinterest.
Do you lock your door? I do. Elder people constantly have to be warned about bank transfer frauds. Marriages are failing left and right: the divorce rate in Japan is just under 40% (50% in America!). The rich-poor gap is growing both in Japan and globally. Even though the earth currently produces enough food for every single person to have 2,720 kcal of food every day, 1 in 7 people goes hungry--mostly in Asia. There are a dozen ongoing major armed conflicts in the world and twice that many minor ones. Irreplaceable rainforests are being progressively destroyed. Every day, three endangered species disappear forever.
The Bible declares: It wasn't supposed to be like this! This is not normal! This is the result of man's lack of trust in the goodness of God, and his desire to put himself in the place of God. What's more, we are powerless to get ourselves out of this mess. What hope do we have?
No. God gives them warm clothes to wear. The climate outside the garden is harsh, and Adam and Eve's fig leaves just won't cut it. So God himself acts to protect them, to keep them safe from the worst results of their sin.
Why? Because God has not changed. Adam and Eve have changed, but not God. He is the same loving Father he has always been. His children are precious in His sight. He wants nothing more than our well-being and our joy. Even when we reject God, He does not reject us.
I want to leave you with this last thought: What were the clothes made of? Animal skin. In other words, the blood of innocent creatures was shed so that Adam and Eve would be protected from the effects of their own sin.
Do you see, here at the very beginning of the story, a hint of what happens at the end of the story? Do you see that it's the blood of an innocent victim which alone saves us from the consequences of our sin?
As Paul writes: Praise to our Lord Jesus Christ, for "in Him we have redemption through his blood, the forgiveness of our trespasses, according to the riches of his grace, which he lavished upon us." (Eph 1:7-8)
St. Luke's International Hospital Chapel - 10:30 a.m. Holy Eucharist
I want to look a bit at the text from Genesis we read today, because I think what is revealed here is so essential for understanding what it means to live as a human being in the 21st century.
But first I should say a quick word about what this account in Genesis is aiming to do. Genesis is not like a science textbook: It isn't trying to explain the biological origin of the human race.
Of course, even simple logic dictates that, at some point, however many thousands of years ago, our "first parents" had to come on stage—that is, the human race, as distinct from chimpanzees or Neanderthals, had to start at some point, somewhere.
But that's actually not where the Bible's interest lies. The story of Adam and Eve is trying to answer two very important questions: 1. What is a human being? and 2. Why are human beings the way we are now, today?
Every person ought to try to find answers to these questions. Genesis offers the answers God wanted us to know. With that in mind, and in our limited time, I want to explore the text with you.
+ + +
- Now the serpent was more crafty than any of the wild animals the Lord God had made. He said to the woman, "Did God really say, 'You must not eat from any tree in the garden'?" (Gen 3:1)
The Church has always understood the serpent to be Satan or his servant. His goal, as we say in baptism, is to seek to "corrupt and destroy the world God created."
Notice how the serpent starts out: "Did God really say…?" That's a typical approach for the devil: To cast doubt on what God has revealed. Do you recall what Satan said to Jesus in the wilderness: "If you are the Son of God" (Matt 4:3)? God had just declared at Jesus' baptism: "You are my Son, my Beloved," but the devil says, Is it really true? Are you absolutely sure?
Every day, we face similar temptations to doubt what God has clearly shown us. Jesus commanded us to forgive our neighbor, but did He really mean my sister-in-law? Does the Bible really say no sex outside marriage? Is Jesus Christ really Lord and Savior of the world? Are you absolutely sure?
But notice what the serpent is trying to get Eve to doubt here: "Did God really say, 'You must not eat from any tree in the garden'?"
What kind of God would say such a thing?! A cruel, tyrannical God! To put man in a beautiful garden, surround him with good things to eat, and then to say: Sorry, not for you. Hands off.
Actually, many people have a similar view of God. They assume God is a harsh tyrant. He's out to spoil our enjoyment of life. He asks us stoically to endure life as one long, joyless grind. He forbids this and that for no reason. And that's exactly the image of God the devil wants us to have!
But is it true? Let's listen to what God really did say, a few verses back in Chapter 2:
The Lord God took the man and put him in the Garden of Eden to work it and take care of it. And the Lord God commanded the man, "You are free to eat from any tree in the garden; but you must not eat from the tree of the knowledge of good and evil." (Genesis 2:15-17)
You are free to eat from any tree in the garden! Any tree! Thousands upon thousands of trees bearing wonderful fruit and vegetables--and you can eat whatever you like! Whenever you like! As much as you like!
Does that sound like a tyrant? No, that is a loving Father who has provided for the needs of his children. Nothing is lacking. And yet, getting us to doubt the love of the Father is one of Satan's most successful tactics.
- The woman said to the serpent, "We may eat fruit from the trees in the garden, but God did say, 'You must not eat fruit from the tree that is in the middle of the garden, and you must not touch it, or you will die.'" (Gen 3:2-3)
Uh oh. Eve doesn't fall for the serpent's trick, but she's already halfway there. Did you notice how she expands on what God commanded? God said: "Don't eat from the tree of the knowledge of good and evil." Eve is much more vague: "We mustn't eat from the tree that is in the middle of the garden, AND we mustn't touch it."
God never said anything about touching the tree. And He was very specific: "the tree of the knowledge of good and evil".
Why did God forbid that tree? Some people ask, "Why did God make the tree in the first place if He didn't want people eating from it?" The answer has to do with freedom. God made man in His image, which means He made us free to respond to Him, and free to offer love. And the primary way we show that we love God is by obeying what God says.
We are free to obey, or not to obey. God did not make people like robots. If nothing were forbidden in Eden, there wouldn't be even the possibility of Adam and Eve choosing to not obey. Which means there would also be no possibility of loving God: Love has to be freely chosen, or else it's not love.
But more importantly, God said "Don't eat from the tree of the knowledge of good and evil" in the same way I say to my daughter, "Don't touch the hot stove." I say that precisely because I love her.
Well, the tree was off limits because it was harmful. Something isn't just wrong because it is forbidden by God; God forbids things that are harmful.
Adam and Eve already knew right from wrong. They knew it was wrong to disobey God and eat from that tree. Up until now, Adam and Eve have had an intuitive knowledge of good. They have naturally done what is good, simply because it is good and because it is pleasing to God.
In eating this fruit, though, Adam and Eve will "know" good and evil in a way they never did before. The Hebrew word for "knowledge" doesn't just mean awareness--it means being enmeshed with the thing known. After eating the forbidden fruit, evil will become part of them. And they will become "like God," it says in verse 5. Which means, they put themselves in the position of deciding what is good and what is evil--regardless of what God says.
But the saddest thing about this interaction between Eve and the serpent is one word spoken by Eve: "God" (kami-sama).
Up until now in Genesis, God has been called "the Lord God" (adonai Elohim in Hebrew). But now Eve says simply, "God" (Elohim).
"Lord" signifies a profound relationship. Creator and created. The Lord and his people. The One who guides and protects and those who serve Him with praise and thanksgiving. The One who speaks intimately and those who listen with joy. The One who pours out love and those who return love.
Already at this point, Eve has lost sight of this relationship. For her, "God" is powerful, but distant. He is Someone who simply imposes rules: Don't even touch the tree!
Let's move ahead to the awful scene itself:
- When the woman saw that the fruit of the tree was good for food and pleasing to the eye, and also desirable for gaining wisdom, she took some and ate it. She also gave some to her husband, who was with her, and he ate it. Then the eyes of both of them were opened, and they realized they were naked; so they sewed fig leaves together and made coverings for themselves. (Gen 3:6-7)
As we skim over the next verses of Genesis 3, first we see Adam and Eve's relationship breaks down. Until now, the two of them have been naked but not ashamed (Gen 2:25). In other words, they were completely themselves with each other; each completely accepted the other one as they were.
But now they're ashamed to be seen as they really are. What's more, the husband-wife relationship which was one of delight and mutual service becomes an imbalanced power relationship.
The second thing we see is that Adam and Eve are terrified of God. Up until now, God and man were friends, co-workers in the garden. But no longer: "The Lord God called to the man, 'Where are you?' He answered, 'I heard you in the garden, and I was afraid…'" (Genesis 3:9-10)
Can you feel the incredible distance, the anxiety here? That's what sin does: It pulls us far away from God, and makes us afraid of submitting to His gaze, afraid of His righteous judgments.
I will skip over the next verses. But notice how Adam shifts blame to Eve, and Eve shifts blame to the serpent--people have been denying responsibility ever since. Our politicians are a shining example of this.
Finally, man is alienated from the natural world itself. Man, whose job was to manage and protect and till the soil now has to fight to dominate the natural world.
+ + +
Once in awhile you hear someone say what happened in the garden of Eden, what's commonly called "the Fall," was somehow good or necessary. The disobedience of Adam and Eve was sort of humankind's "growing pains," the cost of gaining autonomy.
It's hard to imagine a more outrageous misreading of everything the Bible says about Eden. Scripture speaks with one voice in declaring the Fall an unmitigated catastrophe, a total dislocation of man from right relationship to God, to his fellow man, to himself and the natural world.
It wasn't that God's children grew up and left the nest. A better example would be a teenager being "scouted" and lured into a life of drug abuse, violence, and prostitution, in a city far from home.
Absolutely nothing about the sin of Adam and Eve was good or necessary. In fact, from this point on, the human story just goes from bad to worse. Adam and Eve have two sons, Cain and Abel. Cain ends up killing Abel. It gets even worse after that. So bad, in fact, that God decides to start over, using the Flood as a kind of reset button for the human race. Only Noah and his family are spared--but as soon as they get off the boat, they fall back into drunken perversion.
We are inheritors of the sin of Adam and Eve. Every day we live with the consequences of the Fall. Our world is stuck in the mire of great evil and suffering, the bulk of which is caused directly or indirectly by human selfishness and greed and violence, as well as sheer disinterest.
Do you lock your door? I do. Elder people constantly have to be warned about bank transfer frauds. Marriages are failing left and right: the divorce rate in Japan is just under 40% (50% in America!). The rich-poor gap is growing both in Japan and globally. Even though the earth currently produces enough food for every single person to have 2,720 kcal of food every day, 1 in 7 people goes hungry--mostly in Asia. There are a dozen ongoing major armed conflicts in the world and twice that many minor ones. Irreplaceable rainforests are being progressively destroyed. Every day, three endangered species disappear forever.
The Bible declares: It wasn't supposed to be like this! This is not normal! This is the result of man's lack of trust in the goodness of God, and his desire to put himself in the place of God. What's more, we are powerless to get ourselves out of this mess. What hope do we have?
On that note, I want to end by looking at the last verse in our text today:
- The Lord God made garments of skin for Adam and his wife and clothed them. (Genesis 3:21)
Adam and Eve have to leave the Garden. But even after all that has happened, even after they have disobeyed the only commandment they were given, even after they have demonstrated their basic distrust of God's love and gracious provision and tried to put themselves in the place of God, even if they have forever spoiled the beautiful harmony of the garden--even after all this, what does God do? Destroy them? Forget about them? Cut off all ties with them?
No. God gives them warm clothes to wear. The climate outside the garden is harsh, and Adam and Eve's fig leaves just won't cut it. So God himself acts to protect them, to keep them safe from the worst results of their sin.
Why? Because God has not changed. Adam and Eve have changed, but not God. He is the same loving Father he has always been. His children are precious in His sight. He wants nothing more than our well-being and our joy. Even when we reject God, He does not reject us.
I want to leave you with this last thought: What were the clothes made of? Animal skin. In other words, the blood of innocent creatures was shed so that Adam and Eve would be protected from the effects of their own sin.
Do you see, here at the very beginning of the story, a hint of what happens at the end of the story? Do you see that it's the blood of an innocent victim which alone saves us from the consequences of our sin?
As Paul writes: Praise to our Lord Jesus Christ, for "in Him we have redemption through his blood, the forgiveness of our trespasses, according to the riches of his grace, which he lavished upon us." (Eph 1:7-8)
2012年6月1日金曜日
good: 1; evil: 0
For a change of scenery, I was grading papers on the steps overlooking the Sumida River (right next to St. Luke's). Building storm clouds reflected on the gray, roiling water of the canal.
Then a huge wasp showed up and I made a hasty departure. So hasty, in fact, that I left my appointment calendar on the steps. I only noticed it was gone after I got back to the office. Instant panic. Lost calendar=end of world.
I rushed back, retracing my steps, reviewing in my mind all the places I might have possibly laid the book down. Finally, I get to the steps: Nothing.
Then I notice a dog-walking couple standing close by, talking as they examined something. My calendar! I thank them profusely, resisting the urge to hug them.
I start to breathe again. As I head back to the hospital, the first drops of rain start to fall.
Fortunate? You might think so. But I prefer to think of it as a narrow victory over the Forces of Darkness that were trying to disrupt my work and make me really, really bummed. It's more interesting to see myself as involved, albeit in a very miniscule way, in an epic clash between Light and Darkness.
Besides, I have absolutely no trouble imagining wasps as agents of the devil.
Then a huge wasp showed up and I made a hasty departure. So hasty, in fact, that I left my appointment calendar on the steps. I only noticed it was gone after I got back to the office. Instant panic. Lost calendar=end of world.
I rushed back, retracing my steps, reviewing in my mind all the places I might have possibly laid the book down. Finally, I get to the steps: Nothing.
Then I notice a dog-walking couple standing close by, talking as they examined something. My calendar! I thank them profusely, resisting the urge to hug them.
I start to breathe again. As I head back to the hospital, the first drops of rain start to fall.
Fortunate? You might think so. But I prefer to think of it as a narrow victory over the Forces of Darkness that were trying to disrupt my work and make me really, really bummed. It's more interesting to see myself as involved, albeit in a very miniscule way, in an epic clash between Light and Darkness.
Besides, I have absolutely no trouble imagining wasps as agents of the devil.
2012年3月15日木曜日
a startling discovery
A newly unearthed fragment from the end of Matthew's Gospel, dated possibly to the first century.
最近発掘されたマタイによる福音書28章の写本の一部(1世紀?)
"Therefore go and instill a general understanding of Christianity in all nations, affirming them in their own spiritual quests and urging them at least to to take under consideration those things I have taught which do not conflict with current public opinion."This authoritative new text is set to be included in an upcoming Nippon Sei Ko Kai translation of the Bible.
最近発掘されたマタイによる福音書28章の写本の一部(1世紀?)
「だから、あなたがたは行って、すべての民をキリスト教の良き理解者にしなさい。彼らなりの霊的追求を肯定し、あなたがたに教えておいたことの中から、現代社会で広く支持されている考えに相容れるものと少し向き合ってもらえるように勧めなさい。」近いうちに出版される日本聖公会の聖書にこの新しい文が採用される予定。
2012年3月7日水曜日
何かをやめる
「夕の祈り」オルガンコンサート
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂
今、教会の暦で大斎節中。大斎節とは、2月の半ば(灰の水曜日)で始まり、イースター(復活祭)前の40日間。
これはより一層自分を振り返ったり、見詰めなおしたり、聖書を読んだり、祈ったりする時期です。
やや地味で、ちょっと緊張感のある時期です。受験前の2ヶ月間に似ているかもしれません。日曜日以外、この時期にお祝いをあまりしません。結婚式も原則として行わないのです。
何で40日間というと、聖書によれば、イエス・キリストがその働きを始める前に、40日間荒れ野で断食された。(40は、聖書暗号では「長い間」という意味)
まあ、そこまでするのは、普通の人にとって難しいと思います。
実は、大学で試として1週間断食した...全く宗教上の理由ではなかった。(大学生にるまでに、教会を卒業したつもりでいた。)ただ、一週間何も食べないでいけるのかな?どういうことが起こるか...好奇心があったのです。
何が起こったかというと...お腹がすいたのです!(笑)
でもそれは最初の2-3日。その後、空腹感がない。しかも、集中しやすくなります。気分がすっきりします。不思議でした。
大学で試したことの中で白状できるのはこれぐらいですけれども...(笑)
とにかく、長い間断食することは、普通は難しい。だから教会ではもっと小さいスケールで、大斎節中「何かをやめる」という習慣が昔からあります。
この「やめる」ことは、もちろん好きなことでないといけないのですね。だから、わたしが「40日間納豆を食べない!」と言ってもあまり意味がないのです。そもそも納豆が嫌いですから。
でも逆にお酒になりますと、相当きつい!(いつか、勇気を出してコーヒーをやめるように頑張りたい...考えるだけで禁断症状が出そうです!)
でも、どうして「何かをやめる」という変なことをするのでしょうか。だってそれは、現代社会と全く正反対なことになってしまいます。世の中では、もっと買い物する、もっと消費する、もっとモノを持つ流れになっています。いろんなことを満喫して、いろんなことを経験して、いろんな楽しみを得ることが美徳になっています。
だからこそ、こういう変な習慣は大事だと思います。現代社会の「もっともっと」主義の中で、何かをやめる、より少ないもので間に合わせることによって、すでにあるものへのありがたさをよみがえらせることができるからです。贅沢な暮らしを当然だと思ってもっと欲求するのではなくて、今すでにある恵みにもう少し満足できるような訓練だと思います。
(「そんなに贅沢な暮らしはしていない」と思っている方はいらっしゃいましたら、一週間だけスーダンとかインドとか中央アメリカで生活してみると、間違いなく見る目が変わります。日本に住んでいるわたしたちは、どう考えても贅沢な暮らしをしているからです。)
だから、「何かをやめる」ことによって、すでにあるものへの感謝の気持ちを改めることに役立つのだと思います。そして、わたしたちは世界の大多数の人よりも物質的に恵まれていることを改めて気づくことにもつながります。
でも教会では、「何かをやめる」ことにもう一つの理由があると思っています。それは、自分に対して欲求が持っている力を打ち破る効果があるからです。何かをやめるとき、良く気づくのは、もしかして初めて気づくのは、いかにそのものを頼りにしていることか、ということです。
わたしが断食をすると食べ物ばかりを考えてしまいます。少なくとも最初のころ。甘いものをやめると、オフィスにあるチョコレートの箱を一日20回ぐらい見詰めている自分がいます。
お酒をやめると、毎晩帰り道、肩の上に悪魔がしっかり座ってそそのかします:「今日は大変だっただろう。ビール一杯はどう?リラックスできるよ。当然のご褒美よ!」
要は、何かをやめると、そのものへの欲求が生意気な子どものようになってきます。注目されたい。満足させてもらいたい。ちょうだい!ちょうだい!ちょうだい!
皆さんは分かりませんが、わたしは自分の欲求に左右されていると思うといやです。何をどうするか、どういう生活をするか、わたしが欲求に強いられるのではなく、自由に決めたいのです。
まあ、そういうわけで、大斎節中、さまざまな欲求の出すぎをたしなめる修行として、「何かをやめる」という習慣が昔からあります。
こういう話をするとどんどんお腹がついてきます。だから、お話はこれで終わりにしたいと思います!
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂
今、教会の暦で大斎節中。大斎節とは、2月の半ば(灰の水曜日)で始まり、イースター(復活祭)前の40日間。
これはより一層自分を振り返ったり、見詰めなおしたり、聖書を読んだり、祈ったりする時期です。
やや地味で、ちょっと緊張感のある時期です。受験前の2ヶ月間に似ているかもしれません。日曜日以外、この時期にお祝いをあまりしません。結婚式も原則として行わないのです。
何で40日間というと、聖書によれば、イエス・キリストがその働きを始める前に、40日間荒れ野で断食された。(40は、聖書暗号では「長い間」という意味)
まあ、そこまでするのは、普通の人にとって難しいと思います。
実は、大学で試として1週間断食した...全く宗教上の理由ではなかった。(大学生にるまでに、教会を卒業したつもりでいた。)ただ、一週間何も食べないでいけるのかな?どういうことが起こるか...好奇心があったのです。
何が起こったかというと...お腹がすいたのです!(笑)
でもそれは最初の2-3日。その後、空腹感がない。しかも、集中しやすくなります。気分がすっきりします。不思議でした。
大学で試したことの中で白状できるのはこれぐらいですけれども...(笑)
とにかく、長い間断食することは、普通は難しい。だから教会ではもっと小さいスケールで、大斎節中「何かをやめる」という習慣が昔からあります。
この「やめる」ことは、もちろん好きなことでないといけないのですね。だから、わたしが「40日間納豆を食べない!」と言ってもあまり意味がないのです。そもそも納豆が嫌いですから。
でも逆にお酒になりますと、相当きつい!(いつか、勇気を出してコーヒーをやめるように頑張りたい...考えるだけで禁断症状が出そうです!)
でも、どうして「何かをやめる」という変なことをするのでしょうか。だってそれは、現代社会と全く正反対なことになってしまいます。世の中では、もっと買い物する、もっと消費する、もっとモノを持つ流れになっています。いろんなことを満喫して、いろんなことを経験して、いろんな楽しみを得ることが美徳になっています。
だからこそ、こういう変な習慣は大事だと思います。現代社会の「もっともっと」主義の中で、何かをやめる、より少ないもので間に合わせることによって、すでにあるものへのありがたさをよみがえらせることができるからです。贅沢な暮らしを当然だと思ってもっと欲求するのではなくて、今すでにある恵みにもう少し満足できるような訓練だと思います。
(「そんなに贅沢な暮らしはしていない」と思っている方はいらっしゃいましたら、一週間だけスーダンとかインドとか中央アメリカで生活してみると、間違いなく見る目が変わります。日本に住んでいるわたしたちは、どう考えても贅沢な暮らしをしているからです。)
だから、「何かをやめる」ことによって、すでにあるものへの感謝の気持ちを改めることに役立つのだと思います。そして、わたしたちは世界の大多数の人よりも物質的に恵まれていることを改めて気づくことにもつながります。
でも教会では、「何かをやめる」ことにもう一つの理由があると思っています。それは、自分に対して欲求が持っている力を打ち破る効果があるからです。何かをやめるとき、良く気づくのは、もしかして初めて気づくのは、いかにそのものを頼りにしていることか、ということです。
わたしが断食をすると食べ物ばかりを考えてしまいます。少なくとも最初のころ。甘いものをやめると、オフィスにあるチョコレートの箱を一日20回ぐらい見詰めている自分がいます。
お酒をやめると、毎晩帰り道、肩の上に悪魔がしっかり座ってそそのかします:「今日は大変だっただろう。ビール一杯はどう?リラックスできるよ。当然のご褒美よ!」
要は、何かをやめると、そのものへの欲求が生意気な子どものようになってきます。注目されたい。満足させてもらいたい。ちょうだい!ちょうだい!ちょうだい!
皆さんは分かりませんが、わたしは自分の欲求に左右されていると思うといやです。何をどうするか、どういう生活をするか、わたしが欲求に強いられるのではなく、自由に決めたいのです。
まあ、そういうわけで、大斎節中、さまざまな欲求の出すぎをたしなめる修行として、「何かをやめる」という習慣が昔からあります。
こういう話をするとどんどんお腹がついてきます。だから、お話はこれで終わりにしたいと思います!
2012年2月12日日曜日
神の「よろしい」(マルコ1: 40-45)
顕現後第6主日(B年)・聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年2月12日・10時30分 聖餐式
人は親になると大きく変わると思います。でもおじいさん、おばあさんになると、もっと大きく変わる気がします。
うちのおやじは、僕が子どものころ、かなり厳しかったです。本人もストイックだったし、子どもたちに対しても結構シビアなときがありました。友人によく言われました:「お前のとうさんは怖うぇぇよ!」
→ 僕は怖いかどうか、ぜひ子どもたちに聞いてみてください!(笑)
ありがたいことは、おやじは気まぐれではなくて、考え方は一貫性があって、明らかだったので、分かりやすかったです。特に嫌いなことは2つありました:
1. 自分の子どもが周りの人に迷惑をかけること
2. 子どもが同じ失敗を繰り返すこと
子どもがこのようなことを起こしたたら、たいていの場合、おやじが怒ります。その反応はかなり怖かったものです。目つきがきつくなり、歯を食いしばるようにして話すわけ。「やめろ!」(ああ、怖っ!)
でも、この同じ人が今度おじいちゃんになったら、いきなり穏やかになりました。とても優しいやつになっています。孫たちにメロメロ。「ジュース、もう一杯ほしい?いいよ。」「あれ?壊したかい?No problem!」とか。なんてこと!?!!ありえない!
とにかく、言いたいことは、子供のころ、自分にとって権力のある人(親、先生、牧師)から、自分の持っている「神像」に大いに影響を受ける、ということです。
そういうわけで僕は、長年、神はどちらかというと怖い存在だとずっと思っていました。歯を食いしばりながら、僕をじっと見詰めて、何か失敗したらすぐに懲らしめるような神ではないかなぁと思っていました。
いい子にすれば、大人しくすれば喜んでもらえるけれども、失敗したら、罪を犯したら、その期待に裏切ったら、雷が落ちるのではないか、と思っていました。
最初は、そういう神が怖かったのですが、結局、そういう神だったらいらない、と思うようになって、とても長い間神から離れて行ってしまったわけです。
+ + +
今日の福音書を読んだら、この「重い皮膚病を患っている人」は、そのような神像を抱いていたのではないかなと思いました。
どの種類の病気だったかはっきり分かりません。ハンセン病、乾癬(かんせん)、アトピーなどの皮膚病は、全部「レプロス」という単語でひとまとめにされて、旧約聖書では「汚れ」=人を汚す病気と見なされました(レビ記13-14)。
いずれにしても、ただの病気だけではなくて、その人が、あるいはその人の親とかが、悪いことをしたからこういう病気にかかってしまうという発想もありました。病気は罪が及ぼす結果の一つだという考えです。
当時、これらの病気には治療方法がないし、感染しやすいものと思われたので、患っている人たちは村八分にされました。完全隔離になります。親戚や村から離れて、村外に他の病人とともに極めて貧しい生活に強いられていたのです。
しかも、道を歩くとき、自分から「ケガレ!ケガレ!」と叫びながら進まなければならないことになっていました。
そういうふうにさせれてしまう人たちは、やがて自分の中にそういう偏見を取り込んでしまいます。
だから、福音書に出て来るこの人がイエスのところに来てひざまずく時点では、もう、かなり大胆なことをしているわけです。無断で人に近寄ることは、当時の社会のルール違反だからです。
そこでその人は「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
要は、イエスには自分を治す力があることは疑わないけれど、自分を治す意思があることを疑っています。
周りの人々から汚れた者、近寄っちゃいけない者、迷惑の存在と見なされてきました。
もしかしたら、神からも同じように見なされているかも知れません。そして神の子であるこのイエスからも、そういうふうに見なされているのではないか、と思っていたでしょう。
治りたい。普通の生活に戻りたい。良くなりたい。だからあえてイエスの足元にひざまずいています。けれども、このイエスに拒まれてしまうかも知れません。
そこでイエスの反応はどうだったでしょうか。
「イエスが深く憐れんで」――この翻訳はちょっと弱いです。直訳すると「イエスのはらわたが動かされた」となります。どちらかというと「怒りを覚えた」に近いニュアンス。
おそらく翻訳した人たちは「きつ過ぎる」と思っていたかも知れません。助けを求められただけで、どうしてイエスは怒りを覚えるだろう、と。だから「イエスが深く憐れんで」と訳したでしょう。
でも十分理解していなかったではないかと思います。ここは、イエスがこの人に対して怒っているわけではありません。
違います。イエスの怒りは、弱い人、病気の人が社会から完全に隅っこに追いやられていることから生まれたものだと思います。悪いことをしていないのに、極貧生活に強いられている人がいる社会に対する怒りです。
また、律法を守れない人――汚れと見なされる病気にかかったり、罪を犯したりする人を神のところに連れて帰るのではなくて疎外してしまう世の中を見て、イエスが怒りを覚えていらっしゃるのではないかと思います。
この重い皮膚病を患っている人が崩れ落ちるほど打ちのめされて、神の憐れみを求めることでさえ恐れています。エジプトで奴隷生活に苦しんでいた民の嘆き声を聞き、苦悩から救い出してくださった神の憐れみを疑っています。
周りの社会の悪影響を受けて、「神像」が非常に歪んでいるのです。お前が汚れた者だ、ここにいっちゃいけない者だ、としきりに言われてきたこの人は、「もしかしたら、神の手に届かないところにいるかも」と思うようになってしまっているのです。
神の憐れみの手、赦しの手、癒しの手の届かないところにいる人は一人もいません。そういう話は、サタンの口から出る嘘にほかなりません。
人類の大敵であるサタンは告発人で、わたしたちを神の愛から引き離そうとします。あなたみたいな人は、神の恵みにふさわしくない。あなたみたいな罪深い人とは神が無関係だ、と。
ところがイエスは、救い主です。病んでいる人、人生に迷っている人、神の道から離れてしまった人に出会い、神の愛に連れて帰るために来られた方です。
皆さんは、この重い皮膚病を患っている人の気持ちに共感できるでしょうか。神の憐れみの手の届かないところにいるかも知れないと感じたことがありませんか。こんなわたしがきっと赦してもらえない。失敗を繰り返したわたしにきっと神はうんざり。こんなわたしは周りの人に迷惑ばかり。きっと神にも迷惑だろう。
違います。全然違います。
「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」...「よろしい。清くなれ」憐れみをもらいなさい。赦しをもらいなさい。癒しをもらいなさい。
イエスは手を差し伸べてこの人に触れられました。この人、他人に触ってもらえたのは、何年ぶりでしょうか。他人がこの人の悲しみ、痛み、不安、孤独感に向き合ってくれたのは、何年ぶりでしょうか。
イエスは手を差し伸べてその人に触れられました。
イエスは手を差し伸べてわたしたちにも触れてくださいます。神の深い憐れみをわたしたちに注ぎ込んでくださいます。
何よりもそのイエスとの触れ合いができるところは、これからいただく聖餐式にあります。パンとぶどう酒がイエスの体とイエスの血、イエスご自身となるのです。イエスの差し伸べられた手となります。
今日も、どうぞこの聖卓に近づき、その豊かな憐れみをいただきなさい。
神に「よろしい」と言われているのです。
2012年2月12日・10時30分 聖餐式
人は親になると大きく変わると思います。でもおじいさん、おばあさんになると、もっと大きく変わる気がします。
うちのおやじは、僕が子どものころ、かなり厳しかったです。本人もストイックだったし、子どもたちに対しても結構シビアなときがありました。友人によく言われました:「お前のとうさんは怖うぇぇよ!」
→ 僕は怖いかどうか、ぜひ子どもたちに聞いてみてください!(笑)
ありがたいことは、おやじは気まぐれではなくて、考え方は一貫性があって、明らかだったので、分かりやすかったです。特に嫌いなことは2つありました:
1. 自分の子どもが周りの人に迷惑をかけること
2. 子どもが同じ失敗を繰り返すこと
子どもがこのようなことを起こしたたら、たいていの場合、おやじが怒ります。その反応はかなり怖かったものです。目つきがきつくなり、歯を食いしばるようにして話すわけ。「やめろ!」(ああ、怖っ!)
でも、この同じ人が今度おじいちゃんになったら、いきなり穏やかになりました。とても優しいやつになっています。孫たちにメロメロ。「ジュース、もう一杯ほしい?いいよ。」「あれ?壊したかい?No problem!」とか。なんてこと!?!!ありえない!
とにかく、言いたいことは、子供のころ、自分にとって権力のある人(親、先生、牧師)から、自分の持っている「神像」に大いに影響を受ける、ということです。
そういうわけで僕は、長年、神はどちらかというと怖い存在だとずっと思っていました。歯を食いしばりながら、僕をじっと見詰めて、何か失敗したらすぐに懲らしめるような神ではないかなぁと思っていました。
いい子にすれば、大人しくすれば喜んでもらえるけれども、失敗したら、罪を犯したら、その期待に裏切ったら、雷が落ちるのではないか、と思っていました。
最初は、そういう神が怖かったのですが、結局、そういう神だったらいらない、と思うようになって、とても長い間神から離れて行ってしまったわけです。
+ + +
今日の福音書を読んだら、この「重い皮膚病を患っている人」は、そのような神像を抱いていたのではないかなと思いました。
どの種類の病気だったかはっきり分かりません。ハンセン病、乾癬(かんせん)、アトピーなどの皮膚病は、全部「レプロス」という単語でひとまとめにされて、旧約聖書では「汚れ」=人を汚す病気と見なされました(レビ記13-14)。
いずれにしても、ただの病気だけではなくて、その人が、あるいはその人の親とかが、悪いことをしたからこういう病気にかかってしまうという発想もありました。病気は罪が及ぼす結果の一つだという考えです。
当時、これらの病気には治療方法がないし、感染しやすいものと思われたので、患っている人たちは村八分にされました。完全隔離になります。親戚や村から離れて、村外に他の病人とともに極めて貧しい生活に強いられていたのです。
しかも、道を歩くとき、自分から「ケガレ!ケガレ!」と叫びながら進まなければならないことになっていました。
そういうふうにさせれてしまう人たちは、やがて自分の中にそういう偏見を取り込んでしまいます。
だから、福音書に出て来るこの人がイエスのところに来てひざまずく時点では、もう、かなり大胆なことをしているわけです。無断で人に近寄ることは、当時の社会のルール違反だからです。
そこでその人は「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
要は、イエスには自分を治す力があることは疑わないけれど、自分を治す意思があることを疑っています。
周りの人々から汚れた者、近寄っちゃいけない者、迷惑の存在と見なされてきました。
もしかしたら、神からも同じように見なされているかも知れません。そして神の子であるこのイエスからも、そういうふうに見なされているのではないか、と思っていたでしょう。
治りたい。普通の生活に戻りたい。良くなりたい。だからあえてイエスの足元にひざまずいています。けれども、このイエスに拒まれてしまうかも知れません。
そこでイエスの反応はどうだったでしょうか。
「イエスが深く憐れんで」――この翻訳はちょっと弱いです。直訳すると「イエスのはらわたが動かされた」となります。どちらかというと「怒りを覚えた」に近いニュアンス。
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われた」(マルコ1:41)
おそらく翻訳した人たちは「きつ過ぎる」と思っていたかも知れません。助けを求められただけで、どうしてイエスは怒りを覚えるだろう、と。だから「イエスが深く憐れんで」と訳したでしょう。
でも十分理解していなかったではないかと思います。ここは、イエスがこの人に対して怒っているわけではありません。
違います。イエスの怒りは、弱い人、病気の人が社会から完全に隅っこに追いやられていることから生まれたものだと思います。悪いことをしていないのに、極貧生活に強いられている人がいる社会に対する怒りです。
また、律法を守れない人――汚れと見なされる病気にかかったり、罪を犯したりする人を神のところに連れて帰るのではなくて疎外してしまう世の中を見て、イエスが怒りを覚えていらっしゃるのではないかと思います。
この重い皮膚病を患っている人が崩れ落ちるほど打ちのめされて、神の憐れみを求めることでさえ恐れています。エジプトで奴隷生活に苦しんでいた民の嘆き声を聞き、苦悩から救い出してくださった神の憐れみを疑っています。
周りの社会の悪影響を受けて、「神像」が非常に歪んでいるのです。お前が汚れた者だ、ここにいっちゃいけない者だ、としきりに言われてきたこの人は、「もしかしたら、神の手に届かないところにいるかも」と思うようになってしまっているのです。
神の憐れみの手、赦しの手、癒しの手の届かないところにいる人は一人もいません。そういう話は、サタンの口から出る嘘にほかなりません。
人類の大敵であるサタンは告発人で、わたしたちを神の愛から引き離そうとします。あなたみたいな人は、神の恵みにふさわしくない。あなたみたいな罪深い人とは神が無関係だ、と。
ところがイエスは、救い主です。病んでいる人、人生に迷っている人、神の道から離れてしまった人に出会い、神の愛に連れて帰るために来られた方です。
皆さんは、この重い皮膚病を患っている人の気持ちに共感できるでしょうか。神の憐れみの手の届かないところにいるかも知れないと感じたことがありませんか。こんなわたしがきっと赦してもらえない。失敗を繰り返したわたしにきっと神はうんざり。こんなわたしは周りの人に迷惑ばかり。きっと神にも迷惑だろう。
違います。全然違います。
「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」...「よろしい。清くなれ」憐れみをもらいなさい。赦しをもらいなさい。癒しをもらいなさい。
イエスは手を差し伸べてこの人に触れられました。この人、他人に触ってもらえたのは、何年ぶりでしょうか。他人がこの人の悲しみ、痛み、不安、孤独感に向き合ってくれたのは、何年ぶりでしょうか。
イエスは手を差し伸べてその人に触れられました。
イエスは手を差し伸べてわたしたちにも触れてくださいます。神の深い憐れみをわたしたちに注ぎ込んでくださいます。
何よりもそのイエスとの触れ合いができるところは、これからいただく聖餐式にあります。パンとぶどう酒がイエスの体とイエスの血、イエスご自身となるのです。イエスの差し伸べられた手となります。
今日も、どうぞこの聖卓に近づき、その豊かな憐れみをいただきなさい。
神に「よろしい」と言われているのです。
2012年2月4日土曜日
sermon preview: Jesus gives evil a beat down
"And he came and took her by the hand and lifted her up, and the fever left her, and she began to serve them." (Mark 1:31)
Last week, in the synagogue in Capernaum, Jesus confronted and drove out the evil spirit that was harassing a man (Mark 1:21-26). Compared with that, the "miracle" He now performs, healing the fever of Peter's mother-in-law, somehow seems a bit trifling. But God doesn't only deal with the massive evils in the world. God hates evil, it's true, but at the same time He loves us passionately. So, He is concerned about whatever troubles us and prevents us from living abundantly. Jesus came not only to drive out evil, but also to bring in joy.
説教プレビュー:悪をやっつけるイエス
「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(マルコ1:31)
先週、カファルナウムの会堂でイエスはある男性を虐げている悪霊に立ち向かい、それを追い払われた(マルコ1:21-26)。それと比べると、今度の「奇跡」――イエスがペテロのしゅうとめの高熱を癒される出来事は、何かしら取るに足りないものに感じる。でも神は世の中の強大な悪に対処なさるだけではない。確かに神は悪を憎まれるが、同時にわたしたちを熱烈に愛しておられる。だから、わたしたちを悩ませていること、豊かな命を妨害することにまで、関心を寄せてくださる。イエスは、悪を追い出すだけではなくて、喜びをもたらすためにも来られたのである。
2011年12月18日日曜日
必ず約束を守る神(イザヤ書42:1-12)
降臨第4主日 夕の礼拝
好きなアメリカンドラマの一つ:CSIマイアミ。警察の科学捜査の話。好きな理由の一つ:捜査本部長である主人公はまさに「正義の味方」。とても頼もしい人。いったん何か約束したら、必ずそれおを守るということが分かるから。
助けを求めに来る人に「必ずこの問題を解決するぞ」や悪いやつに「お前を捕まえるぞ」と言うと、間違いなくそれを成し遂げるのです。
それを知っているから、彼がそういう発言をするとき、言葉に非常に重みがある。また、ホッとする。彼がそう言うならきっと大丈夫。
こちら見ている人もそう思うけど、ドラマの中の人たちは何となくそれを直感しているような演技をする。
彼は必ず言ったことを守るような男だから、きっと大丈夫。言っただけで、希望が沸いて来る。今の困難から抜け出せるときが近い。あるいは悪いやつに天罰が下る日が近い!
そのとき、見た感じでは、何も変わっていない。けど、見る目が変わっている。約束があるから。
+ + +
でもそれはテレビで、現実の世界では、そういう頼もしい人は少ない。約束したら、必ずそれを守る、成し遂げる人は果たしているのでしょうか。
政治家はどうでしょう?政治家は基本的に自分の立場を守るのに必死になっている。そのために何でも約束する。しかも、自分の力で(あるいは国全体の力でも)どうしようもできないことに対してまで約束したりする。
頼もしくない、全然。
企業はどうでしょう?企業はCMとかでは、ものすごいことを約束する。この車を買ったら幸せになる。この商品を手に入れると人生は充実になる。ハワイで旅行したらロマンスを体験できる。
もちろん、嘘ばっかり。
結婚式でも偉い約束をしてもらっているけど、実際はどうでしょう。
「幸いなときも災いのときも、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病気のときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、あなたとともに生涯を送ります」とだって。
最後までこれがずっとできる人はそんなにいない気がする...神の助けを得ながら、何とかなれるかもしれませんが、ずっと、むらなく、相手をそういうふうに大事にできる人は、いる?
アメリカの離婚率は5割になっている。日本は4割弱だそうです。離婚まで行かなくても、十分にこの大きな約束を守れる夫婦はそんなに多くはないと思います(自分を含めて!)
+ + +
ところが、神はいったん約束をなさったら、それを絶対守ってくださる、と聖書は一貫して教えてくれる。捜査本部長よりも遥かに頼もしい方です!
そして神はイザヤとかに一つ大きな約束をなさいました。それは、救い主を送るぞ、ということ。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」(イザヤ書42:1)
この派遣される「僕」の仕事は何でしょう?光として立ち上がること。そして、「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出す。」(イザヤ書42:6-7)
そしてその対象は?全世界です。「地の果て」まで、「島々」、「諸国」、「地の上に住むすべての人々」に、神は心を止めてくださっているのです。
+ + +
そしてついに、約束のとおり、神は救い主を与えてくださいました。クリスマスはそういう話です。神はご自分のみ子を送ってくださいました。
イザヤに与えられた言葉は、再びイエスの洗礼の場面で語られた:
「『見よ、これはわたしの愛する子、わたし喜び迎える者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ3:17)
そしてイエスがその「神の国運動」を始めようされたとき、ご自分のふるさとのナザレに帰られてこういう宣言をなさいました:
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)
それはイエスのミッションでした。イザヤとかで示された神の約束を成就することがイエスのミッションでした。
そしてイエスも、一つの大きな約束しました。それは、聖霊を通してご自分に結ばれている人たちと共にいてくださる、ということ。
これは教会そのものです。イエスに結ばれている、イエスと共に生きる人たち。
そしてこのことによって、イザヤに授けられた約束はどんどん実現されて来たわけ。今日に至るまで、地の果てまで、島々、諸国、地の上に住むすべての人々に――この日本という島に住んでいるわたしたちにも、愛の光がもたらされています。
今でも、「見ることのできない目を開いて」、人生に迷っている人、道が見えなくなってきた人、行き詰っている人々を導いてくださっています。
「捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出して」、さまざまな束縛や罪から、心の痛みから大勢の人々を救い出してくださっています。
+ + +
イエスが教えたことやなさったことに照らされて、少しずつ神の性格が分かっていくと、少しホッとすることがある。神がそう仰るならきっと大丈夫。神は必ず仰ったことを守るような方だから。
なので神の約束を知っているだけで、希望が持てる。
見た感じでは、何も変わっていないかもしれませんが、見る目が変わる。神の約束があるから。今の困難から抜け出せるときが近い。その日が必ずやって来る。世の中のさまざまな闇の力も、こう見えても最終的に一掃される日が近い!
しかも、政治家のように不可能なことを約束するのではない。
「神にできないことは何一つない」(ルカ1:36)と今朝の福音書で読まれました。
また、偽物幸福とか幻想、むなしくて、本当の幸せにつながらないことを約束するのではなくて、本当の、深い、いつまでも続く喜びを約束なさっているのです。
その神の約束に信頼をかけて、続けて祈りを捧げたいと思います。
好きなアメリカンドラマの一つ:CSIマイアミ。警察の科学捜査の話。好きな理由の一つ:捜査本部長である主人公はまさに「正義の味方」。とても頼もしい人。いったん何か約束したら、必ずそれおを守るということが分かるから。
助けを求めに来る人に「必ずこの問題を解決するぞ」や悪いやつに「お前を捕まえるぞ」と言うと、間違いなくそれを成し遂げるのです。
それを知っているから、彼がそういう発言をするとき、言葉に非常に重みがある。また、ホッとする。彼がそう言うならきっと大丈夫。
こちら見ている人もそう思うけど、ドラマの中の人たちは何となくそれを直感しているような演技をする。
彼は必ず言ったことを守るような男だから、きっと大丈夫。言っただけで、希望が沸いて来る。今の困難から抜け出せるときが近い。あるいは悪いやつに天罰が下る日が近い!
そのとき、見た感じでは、何も変わっていない。けど、見る目が変わっている。約束があるから。
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でもそれはテレビで、現実の世界では、そういう頼もしい人は少ない。約束したら、必ずそれを守る、成し遂げる人は果たしているのでしょうか。
政治家はどうでしょう?政治家は基本的に自分の立場を守るのに必死になっている。そのために何でも約束する。しかも、自分の力で(あるいは国全体の力でも)どうしようもできないことに対してまで約束したりする。
頼もしくない、全然。
企業はどうでしょう?企業はCMとかでは、ものすごいことを約束する。この車を買ったら幸せになる。この商品を手に入れると人生は充実になる。ハワイで旅行したらロマンスを体験できる。
もちろん、嘘ばっかり。
結婚式でも偉い約束をしてもらっているけど、実際はどうでしょう。
「幸いなときも災いのときも、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病気のときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、あなたとともに生涯を送ります」とだって。
最後までこれがずっとできる人はそんなにいない気がする...神の助けを得ながら、何とかなれるかもしれませんが、ずっと、むらなく、相手をそういうふうに大事にできる人は、いる?
アメリカの離婚率は5割になっている。日本は4割弱だそうです。離婚まで行かなくても、十分にこの大きな約束を守れる夫婦はそんなに多くはないと思います(自分を含めて!)
+ + +
ところが、神はいったん約束をなさったら、それを絶対守ってくださる、と聖書は一貫して教えてくれる。捜査本部長よりも遥かに頼もしい方です!
そして神はイザヤとかに一つ大きな約束をなさいました。それは、救い主を送るぞ、ということ。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」(イザヤ書42:1)
この派遣される「僕」の仕事は何でしょう?光として立ち上がること。そして、「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出す。」(イザヤ書42:6-7)
そしてその対象は?全世界です。「地の果て」まで、「島々」、「諸国」、「地の上に住むすべての人々」に、神は心を止めてくださっているのです。
+ + +
そしてついに、約束のとおり、神は救い主を与えてくださいました。クリスマスはそういう話です。神はご自分のみ子を送ってくださいました。
イザヤに与えられた言葉は、再びイエスの洗礼の場面で語られた:
「『見よ、これはわたしの愛する子、わたし喜び迎える者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ3:17)
そしてイエスがその「神の国運動」を始めようされたとき、ご自分のふるさとのナザレに帰られてこういう宣言をなさいました:
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)
それはイエスのミッションでした。イザヤとかで示された神の約束を成就することがイエスのミッションでした。
そしてイエスも、一つの大きな約束しました。それは、聖霊を通してご自分に結ばれている人たちと共にいてくださる、ということ。
これは教会そのものです。イエスに結ばれている、イエスと共に生きる人たち。
そしてこのことによって、イザヤに授けられた約束はどんどん実現されて来たわけ。今日に至るまで、地の果てまで、島々、諸国、地の上に住むすべての人々に――この日本という島に住んでいるわたしたちにも、愛の光がもたらされています。
今でも、「見ることのできない目を開いて」、人生に迷っている人、道が見えなくなってきた人、行き詰っている人々を導いてくださっています。
「捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出して」、さまざまな束縛や罪から、心の痛みから大勢の人々を救い出してくださっています。
+ + +
イエスが教えたことやなさったことに照らされて、少しずつ神の性格が分かっていくと、少しホッとすることがある。神がそう仰るならきっと大丈夫。神は必ず仰ったことを守るような方だから。
なので神の約束を知っているだけで、希望が持てる。
見た感じでは、何も変わっていないかもしれませんが、見る目が変わる。神の約束があるから。今の困難から抜け出せるときが近い。その日が必ずやって来る。世の中のさまざまな闇の力も、こう見えても最終的に一掃される日が近い!
しかも、政治家のように不可能なことを約束するのではない。
「神にできないことは何一つない」(ルカ1:36)と今朝の福音書で読まれました。
また、偽物幸福とか幻想、むなしくて、本当の幸せにつながらないことを約束するのではなくて、本当の、深い、いつまでも続く喜びを約束なさっているのです。
その神の約束に信頼をかけて、続けて祈りを捧げたいと思います。
2011年11月11日金曜日
and I mean to be one too (1 john 3:1-3)
Back at my home church of St. Alban's last Sunday. Got to preach in English for the first time in a while! They were observing the Feast of All Saint's that Sunday.
We're celebrating All Saints today. We're actually five days late. Somehow we manage to observe Halloween on October 31, but find it harder to celebrate the feast of All Saints on it's proper day, November 1...
Oh well, better late than never!
DO YOU WANT TO BE A SAINT? I remember a song we used to sing in Church when I was a child (singing): "I sing a song of the saints of God, / patient and brave and true, / who toiled and fought and lived and died / for the Lord they loved and knew."
Do you know that song? It goes on to list a lot of different vocations: One was a doctor, one was a queen, one was a soldier, one was a priest, etc.
The last words were (singing): "...and I mean to be one, too."
The question I want to ask today is: Do you? Mean to be a saint, that is?
CREATURES, BUT NOT CHILDRENSometimes you hear well-meaning Christians say things like "every person is a child of God." It sounds nice. I suspect such statements come from a desire to affirm the dignity and value of every person, and not to come off as arrogant or closed-minded.
These are good desires. We should affirm the dignity and value of every person. We shouldn't be arrogant or closed-minded
But when we say "every person is a child of God," I think we're claiming more than what the Bible allows us to claim. And when we start going beyond what God has revealed to us, we run the risk of actually obscuring the truth, replacing reality as it is with our own preferred version of reality.
And if we start out with a false or distorted version of reality, we have far less chance of making smart choices about things that really matter.
I think we can say with confidence that every person is a CREATURE of God, made by God, in His image, and therefore with inherent dignity. And we can go further and claim that every person is LOVED by God. "For God so loved the world (which means all people in it) that He gave His only begotten Son." (John 3:16).
But I think we're on very shaky ground when we say every person is a child of God...
Sons and daughters love their parents and seek to please them, make them proud. They seek ways to be helpful to their parents. They look to their parents for direction. They are quick to obey.
(That is to say, good children are quick to obey. My children, well...not so much. When I tell my seven-year-old to take his foot out of his sister's ear, I mean "now" but he thinks, "in a few minutes, when it gets boring.")
Sons and daughters come to bear a family resemblance, in terms of the way they speak and act, and set their priorities. Sons and daughters mature in the character of their parents.
In this sense, the Bible very clearly says human beings are NOT children of God. We do not seek to please Him and serve Him in the world. We do not resemble God in our words and actions. We do not reflect God's character.
At the very least, I think we have to say that, if are children of God, we are children who have turned our backs on our home, and squandered our inheritance, and are living as prodigal sons and daughters in a far country.
Like the prodigal son in Jesus' parable, if we are honest most of us would have to confess: "Father, I have sinned against heaven and before you. I am no longer worthy to be called your son" (Luke 15:21).
I know that's been true of my life.
EVEN SO, CALLED CHILDRENThe amazingly good news of Jesus Christ is stated straight out in our Epistle today: "See what love the Father has given us, that we should be called children of God." (3:1)
I want you to take some time simply to savor that. "See what love the Father has given us, that we should be called children of God."
Even people like us, unworthy as we are, can be called children of God--and that is all down, not to anything we do or don't do, but to the sheer, incredible love of the Father. And because God in His love has called us His children, "that is now what we are."
Please get this, because it's important: We WERE NOT children of God, we WEREN'T WORTHY to be called His children, but now we ARE His children because out of love He has CHOSEN TO CALL us His children.
At the beginning of his Gospel, John puts it this way: "To all who have received [Jesus Christ]--those who believe in his name--he has given the right to become God's children." (John 1:12)
Notice there are no conditions attached to this. "To ALL who have received Jesus."
You can't get more inclusive than that. There is no discrimination here. Nobody is shut out or told "you can't belong."
In biblical terms, the "name" of Jesus signifies the meaning of His life work, and above all His atoning death on the cross. Jesus' name literally means "God saves," and to believe in His name is to bet the farm on the salvation He won for us through His death.
When Jesus came into the world, in fact, He was traveling into the far country where all of us prodigal sons and daughters live, far away from the love of the Father, spiritually starving, morally impoverished, dishonored, disgraced, caught up in a cycle of wounding and sorrow and selfishness and hard-heartedness.
Jesus came into this far country to lead us all home again. The cross became the road home for us.
You don't have to understand exactly how that works--it's hard for me to wrap my head around it a lot of the time--you just have to know that it was for you, too, and receive the gift of salvation from His hands.
CHILDREN, AND SO BECOMING SAINTSSo, because of God's love reaching out to us through Jesus Christ, we have been put into a new status with God: "Beloved, we are God's children now" (1 John 3:2) .
But the Good News doesn't end there:
"Beloved, we are God's children now; what we will be has not yet been revealed. What we do know is this: when Jesus is revealed, we will be like him, for we will see him as he is. And all who have this hope in him purify themselves, just as he is pure." (3:2-3)
We are children of God, and as His children, we are all heading in a certain direction. The details of where we're going aren't clear. There are probably lots of things we can't fully understand from our present vantage point. What's important is that we will be like Jesus.
John talks about "purifying" ourselves. I don't know about you, but hearing the word "purity" instantly makes me think of goody-goody, holier-than-thou types—the kind of people I tend to want to avoid.
(I think this is one of the devil's linguistic victories, actually, to associate perfectly good words like "purity" with mostly negative connotations. Kind of like "holy" is associated with "holier-than-thou" and "righteous" morphs into "self-righteous".)
So it helped me to me as I was thinking about this sermon to focus the phrase "just as He is pure." Just as Jesus is pure. I think of Jesus as someone who was able to laugh from the belly, but without mockery. Who was brilliant without being cynical. Shrewd without being jaded. Who understood the ways of the world and of the human heart better than anyone else on earth, but was always capable of experiencing simple joys.
Jesus said: "Whoever does not receive the kingdom of God as a little child will never enter it" (Mark 10:15, Luke 18:17)
Maybe part of being a child of God means recovering this kind of purity--the ability to enjoy the simple blessings of life, the ability to take life as it comes...and the ability to obey in small, daily things.
Where we are heading is on a need-to-know basis. Simple obedience is all that's expected of us. (I'll date myself if I draw a comparison to Karate Kid: Wash on. Wash off. Or in the new Karate Kid--actually Kung Fu Kid: Put on jacket. Take off jacket. The boy didn't know what the destination was. He simply had to obey.)
Earlier in his Letter, John wrote: "Whoever says, 'I abide in Christ,' ought to walk just as he walked" (2:6). Here is where the Sermon on the Mount is PURE GOLD to a child of God, seeking to walk as Christ walked.
We read the introduction to the Sermon on the Mount this morning, the so-called "Beatitudes" of chapter 5. The Sermon goes on through chapter 7.
The Sermon on the Mount is a roadmap for living life with a child's heart, a child's purity. It's kind of like a GPS navigation system for aspiring to Christlikeness. It marks off the road of purity and joy, and it also warns against the dead ends and dangers of the world, which lead us away from God.
Leon Bloy, a 20th century French writer, once said “the only tragedy in life is not to become a saint.” Becoming a saint is about realizing our deepest, greatest potential, becoming who we were truly destined to be. What a shame it would be to miss out on that.
At the end of the day, becoming a saint is not about what you do--you can be a doctor, or a queen, or a soldier, or a priest, or whatever--but it's about how much love you do it with. And God--who is Love, as John writes in this letter--who comes to dwell with His children, and in us, is always ready to give us His love to do all the things we do to please Him.
The saint, the child of God who, with God's help, tries and keeps trying to walk just as Christ walked, has this to look forward to: He, she will see God as He is. And God is more beautiful, more delightful, more satisfying, than anything we can possibly imagine.
The saints we remember today are already there! Do you mean to be one too?
We're celebrating All Saints today. We're actually five days late. Somehow we manage to observe Halloween on October 31, but find it harder to celebrate the feast of All Saints on it's proper day, November 1...
Oh well, better late than never!
DO YOU WANT TO BE A SAINT? I remember a song we used to sing in Church when I was a child (singing): "I sing a song of the saints of God, / patient and brave and true, / who toiled and fought and lived and died / for the Lord they loved and knew."
Do you know that song? It goes on to list a lot of different vocations: One was a doctor, one was a queen, one was a soldier, one was a priest, etc.
The last words were (singing): "...and I mean to be one, too."
The question I want to ask today is: Do you? Mean to be a saint, that is?
CREATURES, BUT NOT CHILDRENSometimes you hear well-meaning Christians say things like "every person is a child of God." It sounds nice. I suspect such statements come from a desire to affirm the dignity and value of every person, and not to come off as arrogant or closed-minded.
These are good desires. We should affirm the dignity and value of every person. We shouldn't be arrogant or closed-minded
But when we say "every person is a child of God," I think we're claiming more than what the Bible allows us to claim. And when we start going beyond what God has revealed to us, we run the risk of actually obscuring the truth, replacing reality as it is with our own preferred version of reality.
And if we start out with a false or distorted version of reality, we have far less chance of making smart choices about things that really matter.
I think we can say with confidence that every person is a CREATURE of God, made by God, in His image, and therefore with inherent dignity. And we can go further and claim that every person is LOVED by God. "For God so loved the world (which means all people in it) that He gave His only begotten Son." (John 3:16).
But I think we're on very shaky ground when we say every person is a child of God...
Sons and daughters love their parents and seek to please them, make them proud. They seek ways to be helpful to their parents. They look to their parents for direction. They are quick to obey.
(That is to say, good children are quick to obey. My children, well...not so much. When I tell my seven-year-old to take his foot out of his sister's ear, I mean "now" but he thinks, "in a few minutes, when it gets boring.")
Sons and daughters come to bear a family resemblance, in terms of the way they speak and act, and set their priorities. Sons and daughters mature in the character of their parents.
In this sense, the Bible very clearly says human beings are NOT children of God. We do not seek to please Him and serve Him in the world. We do not resemble God in our words and actions. We do not reflect God's character.
At the very least, I think we have to say that, if are children of God, we are children who have turned our backs on our home, and squandered our inheritance, and are living as prodigal sons and daughters in a far country.
Like the prodigal son in Jesus' parable, if we are honest most of us would have to confess: "Father, I have sinned against heaven and before you. I am no longer worthy to be called your son" (Luke 15:21).
I know that's been true of my life.
EVEN SO, CALLED CHILDRENThe amazingly good news of Jesus Christ is stated straight out in our Epistle today: "See what love the Father has given us, that we should be called children of God." (3:1)
I want you to take some time simply to savor that. "See what love the Father has given us, that we should be called children of God."
Even people like us, unworthy as we are, can be called children of God--and that is all down, not to anything we do or don't do, but to the sheer, incredible love of the Father. And because God in His love has called us His children, "that is now what we are."
Please get this, because it's important: We WERE NOT children of God, we WEREN'T WORTHY to be called His children, but now we ARE His children because out of love He has CHOSEN TO CALL us His children.
At the beginning of his Gospel, John puts it this way: "To all who have received [Jesus Christ]--those who believe in his name--he has given the right to become God's children." (John 1:12)
Notice there are no conditions attached to this. "To ALL who have received Jesus."
You can't get more inclusive than that. There is no discrimination here. Nobody is shut out or told "you can't belong."
In biblical terms, the "name" of Jesus signifies the meaning of His life work, and above all His atoning death on the cross. Jesus' name literally means "God saves," and to believe in His name is to bet the farm on the salvation He won for us through His death.
When Jesus came into the world, in fact, He was traveling into the far country where all of us prodigal sons and daughters live, far away from the love of the Father, spiritually starving, morally impoverished, dishonored, disgraced, caught up in a cycle of wounding and sorrow and selfishness and hard-heartedness.
Jesus came into this far country to lead us all home again. The cross became the road home for us.
You don't have to understand exactly how that works--it's hard for me to wrap my head around it a lot of the time--you just have to know that it was for you, too, and receive the gift of salvation from His hands.
CHILDREN, AND SO BECOMING SAINTSSo, because of God's love reaching out to us through Jesus Christ, we have been put into a new status with God: "Beloved, we are God's children now" (1 John 3:2) .
But the Good News doesn't end there:
"Beloved, we are God's children now; what we will be has not yet been revealed. What we do know is this: when Jesus is revealed, we will be like him, for we will see him as he is. And all who have this hope in him purify themselves, just as he is pure." (3:2-3)
We are children of God, and as His children, we are all heading in a certain direction. The details of where we're going aren't clear. There are probably lots of things we can't fully understand from our present vantage point. What's important is that we will be like Jesus.
John talks about "purifying" ourselves. I don't know about you, but hearing the word "purity" instantly makes me think of goody-goody, holier-than-thou types—the kind of people I tend to want to avoid.
(I think this is one of the devil's linguistic victories, actually, to associate perfectly good words like "purity" with mostly negative connotations. Kind of like "holy" is associated with "holier-than-thou" and "righteous" morphs into "self-righteous".)
So it helped me to me as I was thinking about this sermon to focus the phrase "just as He is pure." Just as Jesus is pure. I think of Jesus as someone who was able to laugh from the belly, but without mockery. Who was brilliant without being cynical. Shrewd without being jaded. Who understood the ways of the world and of the human heart better than anyone else on earth, but was always capable of experiencing simple joys.
Jesus said: "Whoever does not receive the kingdom of God as a little child will never enter it" (Mark 10:15, Luke 18:17)
Maybe part of being a child of God means recovering this kind of purity--the ability to enjoy the simple blessings of life, the ability to take life as it comes...and the ability to obey in small, daily things.
Where we are heading is on a need-to-know basis. Simple obedience is all that's expected of us. (I'll date myself if I draw a comparison to Karate Kid: Wash on. Wash off. Or in the new Karate Kid--actually Kung Fu Kid: Put on jacket. Take off jacket. The boy didn't know what the destination was. He simply had to obey.)
Earlier in his Letter, John wrote: "Whoever says, 'I abide in Christ,' ought to walk just as he walked" (2:6). Here is where the Sermon on the Mount is PURE GOLD to a child of God, seeking to walk as Christ walked.
We read the introduction to the Sermon on the Mount this morning, the so-called "Beatitudes" of chapter 5. The Sermon goes on through chapter 7.
The Sermon on the Mount is a roadmap for living life with a child's heart, a child's purity. It's kind of like a GPS navigation system for aspiring to Christlikeness. It marks off the road of purity and joy, and it also warns against the dead ends and dangers of the world, which lead us away from God.
Leon Bloy, a 20th century French writer, once said “the only tragedy in life is not to become a saint.” Becoming a saint is about realizing our deepest, greatest potential, becoming who we were truly destined to be. What a shame it would be to miss out on that.
At the end of the day, becoming a saint is not about what you do--you can be a doctor, or a queen, or a soldier, or a priest, or whatever--but it's about how much love you do it with. And God--who is Love, as John writes in this letter--who comes to dwell with His children, and in us, is always ready to give us His love to do all the things we do to please Him.
The saint, the child of God who, with God's help, tries and keeps trying to walk just as Christ walked, has this to look forward to: He, she will see God as He is. And God is more beautiful, more delightful, more satisfying, than anything we can possibly imagine.
The saints we remember today are already there! Do you mean to be one too?
2011年10月27日木曜日
a call to arms (luke 4:14-21)
St. Luke's Hospital Anniversary Service
October 26, 2011 3:00 p.m.
(Note: This address was given at the worship service celebrating the anniversary of St. Luke's International Hospital. On this occasion, employees who have worked 10, 20, and 30 years were recognized, as were volunteers who have served from 100 hours to 22,000 hours. In attendance were the chairman of the board, the president and vice-presidents, and various department heads, as well the long-term employees recognized and many of the 380 volunteers who serve the hospital.)
We just read about Jesus declaring war.
Like many a politician, at the start of his public career Jesus returns to his hometown, to Nazareth, the place where he might expect his strongest support base. There, he gives his inaugural speech. He goes public with his agenda, lays out his vision for the road ahead.
And the vision he lays out is one of war.
But what kind of war? Not the kind of war his fellow countrymen were hoping for, one that would liberate them from the yoke of Roman imperial oppression. Not the kind of war that involves airstrikes, or guerilla attacks, or indeed any shedding of enemy blood. Not the kind of war that involves the toppling of governments or the seizing of territory.
Not that kind of war. But if not that kind of war, then what kind? Look at what Jesus says:
What do all these things have in common? They distort the human person. They make it impossible to live humanly, in freedom. Jesus is going to war to restore the human person, a being with dignity and value and purpose. A being, in short, made in the image of God.
This is the fundamental understanding revealed to us by God in the Bible: Every human person is a being of great wonder and irreplaceable value, beloved by his Creator, made with care and intent.
At the same time the Bible reveals that every human person, and humanity as a whole, is set upon by powers of darkness, powers that work against God's purposes and seek to deface and destroy God's creation. And, precisely because human beings are created in God's image and endowed by God with dignity and value, these powers of darkness strive hard to rob us of our humanness.
This is the understanding revealed to us by the light of Holy Scripture.
These powers of darkness wage battle on many fronts. They work through individual sin and moral weakness and greed, through self-interest and a disinterest in the suffering of others. They work through injustice, and social evils such as strife, hunger, poverty. They work through so-called tragedies such as sickness and natural disasters.
Jesus at the beginning of his career stands up against all these forms of evil and declares: No more!
And every thing Jesus did from this point on in his life was a full-scale assault on these forces of darkness. He healed the sick. He set free those who were in bondage to evil spirits. He befriended the friendless. He comforted the grieving and those who were afraid. He hung out with people society considered worthless, the losers. He taught generosity in the sharing of material blessings. He condemned leaders who failed in their duty to protect the weak.
This was Jesus' lifework, his mission, his war.
So this hospital is called to engage in the war. But so is each one of us. We fight back against the powers of darkness whenever we, as individuals, take hold of the life we have been given, and respond with gratitude in service to others. Each of us can become an outpost of light in the darkness when we use our God-given talents and time in the service of human flourishing.
God gives wisdom and courage to those who are willing to join in the fight against the darkness. Once again, let us pray together for that wisdom and courage, and ask God's blessing on our work in the year to come.
October 26, 2011 3:00 p.m.
(Note: This address was given at the worship service celebrating the anniversary of St. Luke's International Hospital. On this occasion, employees who have worked 10, 20, and 30 years were recognized, as were volunteers who have served from 100 hours to 22,000 hours. In attendance were the chairman of the board, the president and vice-presidents, and various department heads, as well the long-term employees recognized and many of the 380 volunteers who serve the hospital.)
We just read about Jesus declaring war.
Like many a politician, at the start of his public career Jesus returns to his hometown, to Nazareth, the place where he might expect his strongest support base. There, he gives his inaugural speech. He goes public with his agenda, lays out his vision for the road ahead.
And the vision he lays out is one of war.
But what kind of war? Not the kind of war his fellow countrymen were hoping for, one that would liberate them from the yoke of Roman imperial oppression. Not the kind of war that involves airstrikes, or guerilla attacks, or indeed any shedding of enemy blood. Not the kind of war that involves the toppling of governments or the seizing of territory.
Not that kind of war. But if not that kind of war, then what kind? Look at what Jesus says:
"The Spirit of the Lord is on me, because he has anointed me to proclaim good news to the poor. He has sent me to proclaim freedom for the prisoners and recovery of sight for the blind, to set the oppressed free, to proclaim the year of the Lord’s favor" (Luke 4:18-19)So, he's talking about fighting a war against grinding poverty; against debilitating sickness; against physical, emotional, and spiritual bondage; against social oppression and injustice. In other words, it is a war against the powers of darkness that rule the human race with an iron hand.
What do all these things have in common? They distort the human person. They make it impossible to live humanly, in freedom. Jesus is going to war to restore the human person, a being with dignity and value and purpose. A being, in short, made in the image of God.
This is the fundamental understanding revealed to us by God in the Bible: Every human person is a being of great wonder and irreplaceable value, beloved by his Creator, made with care and intent.
At the same time the Bible reveals that every human person, and humanity as a whole, is set upon by powers of darkness, powers that work against God's purposes and seek to deface and destroy God's creation. And, precisely because human beings are created in God's image and endowed by God with dignity and value, these powers of darkness strive hard to rob us of our humanness.
This is the understanding revealed to us by the light of Holy Scripture.
These powers of darkness wage battle on many fronts. They work through individual sin and moral weakness and greed, through self-interest and a disinterest in the suffering of others. They work through injustice, and social evils such as strife, hunger, poverty. They work through so-called tragedies such as sickness and natural disasters.
Jesus at the beginning of his career stands up against all these forms of evil and declares: No more!
And every thing Jesus did from this point on in his life was a full-scale assault on these forces of darkness. He healed the sick. He set free those who were in bondage to evil spirits. He befriended the friendless. He comforted the grieving and those who were afraid. He hung out with people society considered worthless, the losers. He taught generosity in the sharing of material blessings. He condemned leaders who failed in their duty to protect the weak.
This was Jesus' lifework, his mission, his war.
It is our war, too. This hospital was founded to be a stronghold, an outpost in the war against the powers of darkness that threaten the human person. So, as a hospital we are also called to fight, taking our cue from Jesus Christ:
- We are called to carry out medical approaches that foster health, cure disease, and aid long life.
- We are called to alleviate pain and improve the quality of life of those who suffer.
- We are called to help patients and their families face the end of life with courage and dignity.
- We are called to help realize the physical, emotional, and spiritual flourishing of each patient, in their particular family and social contexts.
So this hospital is called to engage in the war. But so is each one of us. We fight back against the powers of darkness whenever we, as individuals, take hold of the life we have been given, and respond with gratitude in service to others. Each of us can become an outpost of light in the darkness when we use our God-given talents and time in the service of human flourishing.
God gives wisdom and courage to those who are willing to join in the fight against the darkness. Once again, let us pray together for that wisdom and courage, and ask God's blessing on our work in the year to come.
参戦せよ!(ルカ4:14-21)
聖路加国際病院記念・福音記者聖ルカ日礼拝
今、読ませていただいた聖書は、イエスが戦争を宣言なさるところでした。
多くの政治家と同じように、イエスはその公の活動の始まりに当たって、その故郷、一番支持率が高いと思われる故郷であるナザレに戻り、そこで立ち上げの演説をされます。そのアジェンダを明かされます。将来的なビジョンを打ち出されます。
そして、その打ち出された将来的なビジョンは戦争だ、ということです。
しかし、どのような戦いを話しておられるのでしょうか。その同胞のユダヤ人が待ち望んでいたような、ローマ帝国の圧政からの解放につながるような戦争ではありません。また、空襲とかゲリラ攻撃など、敵の血を流すような戦争でもありません。また、政権を打倒したり、領土を奪回したりするような戦争でもありません。
そういう戦争でもないなら、では、どういう話なのでしょうか。イエスの言葉を見てみます:
イエスが話しておられるこれらのことの共通点は何なのでしょうか。いずれも人間を歪めることだ、ということです。これらのことによって人間らしく生きることが殆ど不可能になるのです。だからイエスは、人間の本来の姿を取り戻すために戦争を始められるのです。尊厳を持って、生きがいを持って生きる人間、つまり神にかたどって造られた人間の回復のための戦いなのです。
聖書において神が啓示してくださっている根本的な人間理解はこれです:一人一人の人は不思議で掛け替えのない存在である。その造り主にトコトン愛されて、訳があって、たんせいを込めて造られた神の作品である、と。
同時に聖書が教えてくれるのは、一人一人の人間、そして人類全体は、暗闇の力に襲われているのだ、ということです。神に執念深く反対して、神によって造られたすべてのものを堕落させ、破壊しようとする力に。そして人間は神にかたどって造られ、神からその尊厳と価値が与えられているからこそ狙われているのだ、と。暗闇の力はその人間らしさを奪い取ろうとせっせと働くのだ、と。
聖書に照らされて得られる人間理解はそういうものです。
こういった暗闇の力はさまざまな戦線で攻撃をかけます。個々人の罪や弱さや欲張りを通して、あるいは利己心や他人の痛みに対する無関心を通して働きます。構造的な不正や抑圧、または争いや飢饉や貧困という社会的問題を通して働きます。また、病気や天災などいわゆる自然な悲劇を通して働くのです。
イエスは公の活動の始まりに当たって、これらの悪に立ち向かって:もう十分だ!と宣言なさるのです。
そして、この時点からイエスのあらゆる行動は、こういった暗闇の力への全面攻撃でした。病気の人を癒されました。悪霊に取り付かれていた人を解放されました。友のない人の友となられました。社会から疎外されている人、いわゆる「負け組み」の人々と付き合っておられました。悲しんでいる人、苦しみ悩んでいる人を慰められました。物質的に恵まれている人に物惜しみしない喜びを教えられました。弱き者を守らないリーダーたちを激しく非難されました。
これはイエスのライフワーク、その使命、その戦いでした。
わたしたちの戦いでもあります。この病院は、人間の尊厳をおびやかす暗闇の力に対して、確固たる要塞として、前哨地(ぜんしょうち)として設立されているのです。したがって、この病院に関わっているわたしたちは、イエス・キリストに倣って、いろいろな形で戦うよう求められているのです。
だから、この病院は参戦するよう求められているわけです。しかも、わたしたち一人一人もそうです。わたしたち個々人が授かっている命をきちんと受け止めて、感謝をもってそれに応答するとき、他人に仕える形でその恵みに応えるときは、暗闇の力に反撃するときです。わたしたち一人一人も、神からいただいている賜物、才能を人々の幸福のために生かすとき、暗闇の中の光の要塞になり得るのです。
暗闇への応戦に加わろうとする人に、神は知恵と勇気を与えてくださいます。わたしたちは、これからの一年間に向かって、その知恵と勇気を求めて、わたしたち一人一人の働きの上に神の豊かな祝福をお祈りしたいと思います。
2011年10月26日(水)15:00
今、読ませていただいた聖書は、イエスが戦争を宣言なさるところでした。
多くの政治家と同じように、イエスはその公の活動の始まりに当たって、その故郷、一番支持率が高いと思われる故郷であるナザレに戻り、そこで立ち上げの演説をされます。そのアジェンダを明かされます。将来的なビジョンを打ち出されます。
そして、その打ち出された将来的なビジョンは戦争だ、ということです。
しかし、どのような戦いを話しておられるのでしょうか。その同胞のユダヤ人が待ち望んでいたような、ローマ帝国の圧政からの解放につながるような戦争ではありません。また、空襲とかゲリラ攻撃など、敵の血を流すような戦争でもありません。また、政権を打倒したり、領土を奪回したりするような戦争でもありません。
そういう戦争でもないなら、では、どういう話なのでしょうか。イエスの言葉を見てみます:
要は、苛酷な貧困に対する戦い。重い病気に対する戦い。身体的、精神的、スピリチュアルな束縛に対する戦い。社会的抑圧や不正に対する戦い。つまり、人類を厳しく支配している暗闇の力に対する戦争の話なのだ、ということです。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)
イエスが話しておられるこれらのことの共通点は何なのでしょうか。いずれも人間を歪めることだ、ということです。これらのことによって人間らしく生きることが殆ど不可能になるのです。だからイエスは、人間の本来の姿を取り戻すために戦争を始められるのです。尊厳を持って、生きがいを持って生きる人間、つまり神にかたどって造られた人間の回復のための戦いなのです。
聖書において神が啓示してくださっている根本的な人間理解はこれです:一人一人の人は不思議で掛け替えのない存在である。その造り主にトコトン愛されて、訳があって、たんせいを込めて造られた神の作品である、と。
同時に聖書が教えてくれるのは、一人一人の人間、そして人類全体は、暗闇の力に襲われているのだ、ということです。神に執念深く反対して、神によって造られたすべてのものを堕落させ、破壊しようとする力に。そして人間は神にかたどって造られ、神からその尊厳と価値が与えられているからこそ狙われているのだ、と。暗闇の力はその人間らしさを奪い取ろうとせっせと働くのだ、と。
聖書に照らされて得られる人間理解はそういうものです。
こういった暗闇の力はさまざまな戦線で攻撃をかけます。個々人の罪や弱さや欲張りを通して、あるいは利己心や他人の痛みに対する無関心を通して働きます。構造的な不正や抑圧、または争いや飢饉や貧困という社会的問題を通して働きます。また、病気や天災などいわゆる自然な悲劇を通して働くのです。
イエスは公の活動の始まりに当たって、これらの悪に立ち向かって:もう十分だ!と宣言なさるのです。
そして、この時点からイエスのあらゆる行動は、こういった暗闇の力への全面攻撃でした。病気の人を癒されました。悪霊に取り付かれていた人を解放されました。友のない人の友となられました。社会から疎外されている人、いわゆる「負け組み」の人々と付き合っておられました。悲しんでいる人、苦しみ悩んでいる人を慰められました。物質的に恵まれている人に物惜しみしない喜びを教えられました。弱き者を守らないリーダーたちを激しく非難されました。
これはイエスのライフワーク、その使命、その戦いでした。
わたしたちの戦いでもあります。この病院は、人間の尊厳をおびやかす暗闇の力に対して、確固たる要塞として、前哨地(ぜんしょうち)として設立されているのです。したがって、この病院に関わっているわたしたちは、イエス・キリストに倣って、いろいろな形で戦うよう求められているのです。
- 人々の健康を促進し、病を治して、長寿の助けとなる医療を行うよう求められています。
- 痛み・苦しみを緩和して、病気にかかっている人のQOLを上げるよう求められています。
- 患者さんやその家族が、勇気と尊厳を持って人生の最期を迎えることを支えるよう求められています。
- 一人一人の患者さんの置かれている家族環境、社会環境で、その身体的、精神的、スピリチュアルな幸福(well-being)を支えるよう求められています。
だから、この病院は参戦するよう求められているわけです。しかも、わたしたち一人一人もそうです。わたしたち個々人が授かっている命をきちんと受け止めて、感謝をもってそれに応答するとき、他人に仕える形でその恵みに応えるときは、暗闇の力に反撃するときです。わたしたち一人一人も、神からいただいている賜物、才能を人々の幸福のために生かすとき、暗闇の中の光の要塞になり得るのです。
暗闇への応戦に加わろうとする人に、神は知恵と勇気を与えてくださいます。わたしたちは、これからの一年間に向かって、その知恵と勇気を求めて、わたしたち一人一人の働きの上に神の豊かな祝福をお祈りしたいと思います。
2011年9月28日水曜日
changing course (Eze 18:1-4, 25-32; Matt 21:28-32)
Fifteenth Sunday after Pentecost (Year A, Proper 21)
St. Luke's International Hospital Chapel
September 25, 2011– 10:30 a.m. Holy Eucharist
Both the Old Testament reading and the Gospel today talk about changing course.
Arguably one of the most important words in Bible is the word "turn". The Hebrew is shuv. Shuv can be translated turn, go home, return, reconsider, regret, repent. It means to change course, to face in a new direction.
The idea of shuv is at the heart of the message of all the prophets. Return to the Lord! Turn back from evil and return to His ways, and you will find life and peace.
And it's at the heart of the New Testament. Both John the Baptist and Jesus began their work with the same call to shuv: Repent, for the kingdom of God is at hand.
+ + +
The message God gave to Ezekiel is very straightforward: You sin? You die.
It's not rocket science. One thing follows the other, cause and effect.
Remember that "sin" in the biblical sense doesn't mean just the Big Stuff like murder, robbery, adultery. It means turning your back on the Lord, straying from His path.
Note also: It's not that we die because our parents or our ancestors sinned. God clearly rejects that line of thinking. In Ezekiel's time, the Jews had been taken captive and forcibly relocated to Babylon. They complained that they were being punished because of what their ancestors did, saying: "The fathers have eaten sour grapes, and the children's teeth are set on edge" (Ezek 18:2).
To that, God says, in effect, "gimme a break":
"Behold, all lives are mine; the life of the father as well as the life of the son is mine. The one who sins, he it is who shall die." (Ezek 18:4)
God isn't in the business of punishing the children of sinners. You sin? You die, not your children or your grandchildren.
We may--and, sadly, quite often do--suffer the fallout from the sins of our parents. A selfish father's adultery. An anxious mother's overprotectiveness. Abuse. A lack of affection. That's part of the tragedy of the world. But to say we suffer the fallout from someone else's sin is different from saying the sin and its punishment are ours.
You sin? You die. And this is not God's capriciousness, either. It's just cause and effect. St. Paul put it like this: "The wages of sin is death" (Rom 6:23). The recompense for working is money. The recompense for sin is death.
What kind of death are we talking about? Physical death, yes, evenutally, but even worse, spiritual death, which can begin even in life and which goes on…for all eternity.
So what is spiritual death? Many of you have probably tasted it already. The "symptoms" include:
And unless we turn back, it will go on forever and ever.
To become a Christian means to make this turn. To become a Christian involves turning away from darkness, from self-centeredness, from injustice, from emnity with God--away from everything that displeases God.
And it involves turning toward Jesus, toward life, toward justice, toward obedience, toward intimacy with the Father.
That is what Christian baptism is all about. Do you renounce the devil and all his ways? Do you turn toward Jesus and life in harmony with God's will?
The hitch is, we can't make this turn. We're like the Titanic heading toward the iceberg. Even knowing the danger was ahead, the huge ship couldn't turn enough to avoid it.
Human beings are actually worse off than the the Titanic. Because, given enough time, the Titanic was capable of changing course. But we're not. We don't have it in us to change ourselves.
Sure, we can change the clothes we wear, get a new haircut. We can train ourselves to take on new habits. We can learn to control ourselves and put on a presentable face.
But we can't change our hearts.
"Cast away from you all the transgressions you have committed, and make yourselves a new heart and a new spirit!" (Ezek 18:31)
The people to whom Ezekiel relayed this message proved that they couldn't make a new heart and a new spirit for themselves. And neither can we. We are unable to save ourselves. Our wills are weakened, our hearts are bent. And we can't fix that.
But God can. God can make possible what was impossible. What God commands, He enables. God tells us to make new hearts; He gives us the grace to do it.
The Reformer John Calvin said "[God] invites all to repentance and rejects no one." (Calvin, Comm. Ezekiel 18:32). And because God invites all to repentence, He offers all the grace to enable such repentence.
St. Paul is on to this in today's letter to the Philippians: "Work out your own salvation with fear and trembling, for it is God who works in you, both to will and to work for his good pleasure." (Phil 2:12b-13)
It is God who works in us. If we allow Him to, God will work in us, healing our wills so that we WANT to do what pleases Him. Notice the all-important repeated clause in the baptismal vows:
- Do you turn away from all the powers of darkness?
I do, WITH GOD'S HELP.
- Do you turn toward Christ and toward the light?
I do, WITH GOD'S HELP.
+ + +
The first son in Jesus' parable changed course. He went from not doing the will of his father to doing the will of his father.
Jesus confronts every person with this same question. Jesus' whole mission, today as well as back then, is to summon every one of us to the same obedience: Today, go and work in the vineyard. Today, go and live a God-pleasing life in harmony with the Father's will.
Two thousand years ago, tax-collectors and prostitutes heard this call and they responded to it. Like the older brother, with their lives they had been saying "I will not" to God's will. But, like the older brother, they "changed their mind" and began to follow Jesus. They changed course. They discovered in Jesus the power to change course. The grace to stop living in sin. The grace to enter into fellowship with God.
To be a Christian is to change course. If we are still living pretty much like everybody else in the world--if we are making decisions pretty much on the same basis, if we are using our time and our money and our talents for the same ends, if we are thinking mostly about ourselves, if we are just as comfortable in our sinfulness--then maybe we haven't really become Christians yet. Maybe we're more like the younger brother who says "Yes" to his father but then goes on with business as usual.
Jesus offers us the power to change course. The power both to say "Yes" and to live a life that also says "Yes" to God.
And what happens when we change course?
Life happens.
"Why will you die, O house of Israel? Turn, and live!" (Ezek 18:31b, 32b)
The tax-collectors and prostitutes repented and followed Jesus into the Kingdom because they saw that that's where real life was. Real joy. Real community. Fellowship with the living God. The sweetness of heaven, here on earth, and forever.
Turn, and live!
St. Luke's International Hospital Chapel
September 25, 2011– 10:30 a.m. Holy Eucharist
Both the Old Testament reading and the Gospel today talk about changing course.
Arguably one of the most important words in Bible is the word "turn". The Hebrew is shuv. Shuv can be translated turn, go home, return, reconsider, regret, repent. It means to change course, to face in a new direction.
The idea of shuv is at the heart of the message of all the prophets. Return to the Lord! Turn back from evil and return to His ways, and you will find life and peace.
And it's at the heart of the New Testament. Both John the Baptist and Jesus began their work with the same call to shuv: Repent, for the kingdom of God is at hand.
+ + +
The message God gave to Ezekiel is very straightforward: You sin? You die.
It's not rocket science. One thing follows the other, cause and effect.
Remember that "sin" in the biblical sense doesn't mean just the Big Stuff like murder, robbery, adultery. It means turning your back on the Lord, straying from His path.
Note also: It's not that we die because our parents or our ancestors sinned. God clearly rejects that line of thinking. In Ezekiel's time, the Jews had been taken captive and forcibly relocated to Babylon. They complained that they were being punished because of what their ancestors did, saying: "The fathers have eaten sour grapes, and the children's teeth are set on edge" (Ezek 18:2).
To that, God says, in effect, "gimme a break":
"Behold, all lives are mine; the life of the father as well as the life of the son is mine. The one who sins, he it is who shall die." (Ezek 18:4)
God isn't in the business of punishing the children of sinners. You sin? You die, not your children or your grandchildren.
We may--and, sadly, quite often do--suffer the fallout from the sins of our parents. A selfish father's adultery. An anxious mother's overprotectiveness. Abuse. A lack of affection. That's part of the tragedy of the world. But to say we suffer the fallout from someone else's sin is different from saying the sin and its punishment are ours.
You sin? You die. And this is not God's capriciousness, either. It's just cause and effect. St. Paul put it like this: "The wages of sin is death" (Rom 6:23). The recompense for working is money. The recompense for sin is death.
What kind of death are we talking about? Physical death, yes, evenutally, but even worse, spiritual death, which can begin even in life and which goes on…for all eternity.
So what is spiritual death? Many of you have probably tasted it already. The "symptoms" include:
A narrowing of the heart. A sense of distance from people around you, the world around you. The inability to make real connections. A loss of yourself, your identity. A loss of meaning and purpose. A sense of emptiness. Boredom even with the pleasures of life. Anxiety. Anger at others, at God, at yourself. Hopelessness. A slowly deepening darkness in your heart.This spiritual death can begin here, now. It begins whenever we sin--whenever we turn away from God, whenever we pull away from His good will for our lives.
And unless we turn back, it will go on forever and ever.
To become a Christian means to make this turn. To become a Christian involves turning away from darkness, from self-centeredness, from injustice, from emnity with God--away from everything that displeases God.
And it involves turning toward Jesus, toward life, toward justice, toward obedience, toward intimacy with the Father.
That is what Christian baptism is all about. Do you renounce the devil and all his ways? Do you turn toward Jesus and life in harmony with God's will?
The hitch is, we can't make this turn. We're like the Titanic heading toward the iceberg. Even knowing the danger was ahead, the huge ship couldn't turn enough to avoid it.
Human beings are actually worse off than the the Titanic. Because, given enough time, the Titanic was capable of changing course. But we're not. We don't have it in us to change ourselves.
Sure, we can change the clothes we wear, get a new haircut. We can train ourselves to take on new habits. We can learn to control ourselves and put on a presentable face.
But we can't change our hearts.
"Cast away from you all the transgressions you have committed, and make yourselves a new heart and a new spirit!" (Ezek 18:31)
The people to whom Ezekiel relayed this message proved that they couldn't make a new heart and a new spirit for themselves. And neither can we. We are unable to save ourselves. Our wills are weakened, our hearts are bent. And we can't fix that.
But God can. God can make possible what was impossible. What God commands, He enables. God tells us to make new hearts; He gives us the grace to do it.
The Reformer John Calvin said "[God] invites all to repentance and rejects no one." (Calvin, Comm. Ezekiel 18:32). And because God invites all to repentence, He offers all the grace to enable such repentence.
St. Paul is on to this in today's letter to the Philippians: "Work out your own salvation with fear and trembling, for it is God who works in you, both to will and to work for his good pleasure." (Phil 2:12b-13)
It is God who works in us. If we allow Him to, God will work in us, healing our wills so that we WANT to do what pleases Him. Notice the all-important repeated clause in the baptismal vows:
- Do you turn away from all the powers of darkness?
I do, WITH GOD'S HELP.
- Do you turn toward Christ and toward the light?
I do, WITH GOD'S HELP.
+ + +
The first son in Jesus' parable changed course. He went from not doing the will of his father to doing the will of his father.
Jesus confronts every person with this same question. Jesus' whole mission, today as well as back then, is to summon every one of us to the same obedience: Today, go and work in the vineyard. Today, go and live a God-pleasing life in harmony with the Father's will.
Two thousand years ago, tax-collectors and prostitutes heard this call and they responded to it. Like the older brother, with their lives they had been saying "I will not" to God's will. But, like the older brother, they "changed their mind" and began to follow Jesus. They changed course. They discovered in Jesus the power to change course. The grace to stop living in sin. The grace to enter into fellowship with God.
To be a Christian is to change course. If we are still living pretty much like everybody else in the world--if we are making decisions pretty much on the same basis, if we are using our time and our money and our talents for the same ends, if we are thinking mostly about ourselves, if we are just as comfortable in our sinfulness--then maybe we haven't really become Christians yet. Maybe we're more like the younger brother who says "Yes" to his father but then goes on with business as usual.
Jesus offers us the power to change course. The power both to say "Yes" and to live a life that also says "Yes" to God.
And what happens when we change course?
Life happens.
"Why will you die, O house of Israel? Turn, and live!" (Ezek 18:31b, 32b)
The tax-collectors and prostitutes repented and followed Jesus into the Kingdom because they saw that that's where real life was. Real joy. Real community. Fellowship with the living God. The sweetness of heaven, here on earth, and forever.
Turn, and live!
方向転換をする(エゼキエル書18:1-4, 25-32; マタイ21:28-32)
聖霊降臨後第15主日(A年・特定21)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年9月25日・10時30分 聖餐式
今日、旧約聖書も福音書も「方向転換」をテーマにしています。
聖書の中で最も重要なキーワードの一つは「向きを変える」と言えましょう。そのヘブライ語は「シュブ」。これを訳すと、向きを変える、戻る、帰宅する、立ち帰る、考え直す、反省する、悔い改めるなどの言葉が出てきます。方向転換ともなれるのです。
すべての預言者のメッセージの中心にこの「シュブ」があります。主に立ち帰れ!悪の道から離れて主の道に戻れ!そうすれば平和と祝福が得られるのだ、と。
新約聖書の中心にもあります。洗礼者ヨハネもイエス・キリストも、その働きの始まりに「シュブ」への呼び掛けがあります。例えば:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と(マルコ1:15など)。
+ + +
エゼキエルに託された神のメッセージは分かりやすいものです。罪を犯す人は死ぬ、と。
きつい言葉ではありますが、複雑ではないと思います。明らかな因果関係になっています。
なお、聖書が言う「罪」とは、人殺しや強盗、姦通という大罪だけではないことを覚えていただきたいです。むしろ、神に背を向けること、その道から離れることを指しています。
もう一つ注意すべきことは、両親や先祖が罪を犯したからわたしたちは死ぬわけではない、ということです。神はこういう考えを真っ向から否定されます。エゼキエルが活躍していた時期は、ユダヤ人が捕囚としてバビロン王国に強制移住させられた後の話です。よその国で奴隷になっているユダヤ人はぶーぶー言っているようです。先祖の罪のために自分たちが懲らしめられているのだ、と。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」(エゼキエル18:2)
これに対して神は「いいかげんにしろ!」、と仰っています。「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル18:2)
神は罪人の子どもを懲らしめる方ではないのです。あなたが罪を犯したら、あなたの子孫が苦しむのではなくて、あなた自身がその結果を受けさせられるのだ、と。
もちろん、両親や先祖の罪から悪影響を受けることはあり得ます。残念ながら、よくあることです。自己中心の父親の不倫とか。ノイローゼの母親の過保護とか。さまざまな虐待や愛情不足とか。これは、世の中の悲劇の一部です。でもかつての罪から悪影響を受けることと、その責任が自分たちに問われていたり、そのために自分たちが懲らしめられていたりするというのとは、全く別の話です。
「罪を犯した者、その人が死ぬ。」しかも、これは神の気まぐれでもありません。ただの因果関係です。聖パウロはこういうふうに言いました「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。労働すれば賃金を受ける、罪を犯せば死ぬ――自然の実りです。
でも先から「死」という言葉を何度も申し上げていますが、果たしてどういう意味でしょう。体が息を引き取る、ということ?まあ、やがてそういうこともありますが、遥かにひどいことは、霊的な死です。霊的な死は生きている間にでも始まるのです。
霊的な死とは何か。皆さんはそれをある程度味わったことがあるかも知れません。その「症状」として次のことを挙げることができると思います。
このような霊的な死は、罪によってもたらされます。神に背を向けたり、その恵み深いみ心から離れるとき、さらに霊的な死に近づくのです。
この死から立ち帰らなければ、かの日、もう引き返せないことになってしまいます。
+ + +
クリスチャンになるというのは、方向転換をする話です。霊的な死に至る道から向きを変える。自己中心の生き方から、不正から、神との対立から自分を向け直すことです。
同時に、自分をイエスへと向け直す話です。命へと、正義へと、従順へと、天の父との交わりへと自分を向け直すことです。
教会の洗礼はそういうことです。式の中で志願者に聞きます。あなたは悪魔とすべて悪の力を退けますか。あなたはイエスへと向きを変えて、神のみ心にそった生活を送りますか。
問題は、わたしたちはこのように向きを変えることができない、ということです。氷山に向かっているタイタニックのようです。危ないと分かっていても、方向転換は間に合わなかったのです。
でも人間は実はタイタニックよりも悲しい立場にあります。なぜかというと、タイタニックは十分時間をかければ方向転換ができたのですが、人間は違います。わたしたちは、いつまで経っても自分を変える力は持っていないのです。
着る服を変えたり、髪形を変えたりすることはできます。新しい習慣を作ることもできます。また、自分を抑えて、人前に出せる顔を作ることもできます。
でも心を変えるのは無理です。
「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」
このエゼキエルのメッセージ(18:31)を最初に耳にした人たちも、わたしたちも、こう言われても「新しい心と新しい霊を造り出す」ことはできないのです。
わたしたちは、自分を救うことができないのです。意志が弱くて、心が曲がっているのです。それを直すこともわたしたちにはできないのです。
ところが神にはできます。神は不可能なことを可能にすることがおできになります。神が何かをお命じになったら、必ずそれを果たせるようにしてくださいます。だから「新しい心を造り出せ」と仰るのでしたら、そのための恵みをも与えてくださるに違いないのです。
宗教改革者のジョン・カルビンが言いました:「主はすべての人を悔い改めへと誘い、誰をも拒まれない」と(Calvin, Comm. Ezekiel 18:32)。悔い改めへと誘ってくださる神は、悔い改めることができる恵みをも与えてくださるのです。
今日のフィリピの信徒への手紙でも、聖パウロはそういうことを言っていると思います。
「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:12b-13)
わたしたちが許せば、神はわたしたちのうちに働いて、弱まった意志を強めて、神に喜んでもらえることを自ら進んでしたいようにならせてくださいます。洗礼式の誓いの言葉でも、こういうことを表す極めて重要な言葉が入っています。
- あらゆる暗闇の力を退けますか? → はい、神の助けによって退けます。
- イエス・キリストへ、光へと向きを変えますか? → はい、神の助けによって...
+ + +
イエスのたとえ話では、長男は方向転換をしました。父の言うことを拒否する方向から父の言うことを行う方向に変わったのです。
イエスはこの同じ質問をすべての人にお聞きになります。かつても今もイエスのミッションはわたしたち一人一人を従順へと呼び掛けることです。つまり、今日、ぶどう園へ行って働きなさい、と。今日、天の父のみ心にそった生活を送りなさい、と。
2000年前、徴税人や売春婦はこの呼び掛けを聞き、それに応えました。長男と同じように、以前その生き方によって神に向かって「いやです」と言っていました。しかし長男と同じように、彼らは「考え直して」イエスに従うようになりました。方向転換をしました。要は、イエスとの出会いにおいて、方向転換をするための力を発見したのです。罪深い生活から離れる恵みを発見しました。神との交わりに入る恵みを発見しました。
クリスチャンになるというのは、方向転換をすることです。未だに、わたしたちは周りの人々と殆ど変わらない生活をしているのであれば――同じ根拠に基づいてものを決めたり、同じ目的のために時間、お金、才能を使っていたり、自分のことばかりを考えたり、自分の罪であまり違和感を持たなかったりしているのであれば、ひょっとしたらまだクリスチャンにはなっていないかも知れません。ひょっとしたら次男のように、口では神に「はい」といいながら、今まで通りの生き方をしているかも知れません。
イエスは、方向転換をするための力を与えてくださいます。口で神に「はい」と言い、生活を通しても「はい」と言うことができる恵みを与えてくださるのです。
さて、方向転換したら、何があるのでしょうか。
命があります。
「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか...お前たちは立ち帰って、生きよ!」(エゼキエル18:31b, 32b)
徴税人や売春婦は悔い改めて、み国に入るまでイエスについて行きました。それは、そこに豊かな命があると見えたからです。本当の喜び、本当のコミュニティ、行ける神との交わりはそこにあると分かったのです。
立ち帰って、生きよ!
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年9月25日・10時30分 聖餐式
今日、旧約聖書も福音書も「方向転換」をテーマにしています。
聖書の中で最も重要なキーワードの一つは「向きを変える」と言えましょう。そのヘブライ語は「シュブ」。これを訳すと、向きを変える、戻る、帰宅する、立ち帰る、考え直す、反省する、悔い改めるなどの言葉が出てきます。方向転換ともなれるのです。
すべての預言者のメッセージの中心にこの「シュブ」があります。主に立ち帰れ!悪の道から離れて主の道に戻れ!そうすれば平和と祝福が得られるのだ、と。
新約聖書の中心にもあります。洗礼者ヨハネもイエス・キリストも、その働きの始まりに「シュブ」への呼び掛けがあります。例えば:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と(マルコ1:15など)。
+ + +
エゼキエルに託された神のメッセージは分かりやすいものです。罪を犯す人は死ぬ、と。
きつい言葉ではありますが、複雑ではないと思います。明らかな因果関係になっています。
なお、聖書が言う「罪」とは、人殺しや強盗、姦通という大罪だけではないことを覚えていただきたいです。むしろ、神に背を向けること、その道から離れることを指しています。
もう一つ注意すべきことは、両親や先祖が罪を犯したからわたしたちは死ぬわけではない、ということです。神はこういう考えを真っ向から否定されます。エゼキエルが活躍していた時期は、ユダヤ人が捕囚としてバビロン王国に強制移住させられた後の話です。よその国で奴隷になっているユダヤ人はぶーぶー言っているようです。先祖の罪のために自分たちが懲らしめられているのだ、と。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」(エゼキエル18:2)
これに対して神は「いいかげんにしろ!」、と仰っています。「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル18:2)
神は罪人の子どもを懲らしめる方ではないのです。あなたが罪を犯したら、あなたの子孫が苦しむのではなくて、あなた自身がその結果を受けさせられるのだ、と。
もちろん、両親や先祖の罪から悪影響を受けることはあり得ます。残念ながら、よくあることです。自己中心の父親の不倫とか。ノイローゼの母親の過保護とか。さまざまな虐待や愛情不足とか。これは、世の中の悲劇の一部です。でもかつての罪から悪影響を受けることと、その責任が自分たちに問われていたり、そのために自分たちが懲らしめられていたりするというのとは、全く別の話です。
「罪を犯した者、その人が死ぬ。」しかも、これは神の気まぐれでもありません。ただの因果関係です。聖パウロはこういうふうに言いました「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。労働すれば賃金を受ける、罪を犯せば死ぬ――自然の実りです。
でも先から「死」という言葉を何度も申し上げていますが、果たしてどういう意味でしょう。体が息を引き取る、ということ?まあ、やがてそういうこともありますが、遥かにひどいことは、霊的な死です。霊的な死は生きている間にでも始まるのです。
霊的な死とは何か。皆さんはそれをある程度味わったことがあるかも知れません。その「症状」として次のことを挙げることができると思います。
このような霊的な死は、罪によってもたらされます。神に背を向けたり、その恵み深いみ心から離れるとき、さらに霊的な死に近づくのです。
この死から立ち帰らなければ、かの日、もう引き返せないことになってしまいます。
+ + +
クリスチャンになるというのは、方向転換をする話です。霊的な死に至る道から向きを変える。自己中心の生き方から、不正から、神との対立から自分を向け直すことです。
同時に、自分をイエスへと向け直す話です。命へと、正義へと、従順へと、天の父との交わりへと自分を向け直すことです。
教会の洗礼はそういうことです。式の中で志願者に聞きます。あなたは悪魔とすべて悪の力を退けますか。あなたはイエスへと向きを変えて、神のみ心にそった生活を送りますか。
問題は、わたしたちはこのように向きを変えることができない、ということです。氷山に向かっているタイタニックのようです。危ないと分かっていても、方向転換は間に合わなかったのです。
でも人間は実はタイタニックよりも悲しい立場にあります。なぜかというと、タイタニックは十分時間をかければ方向転換ができたのですが、人間は違います。わたしたちは、いつまで経っても自分を変える力は持っていないのです。
着る服を変えたり、髪形を変えたりすることはできます。新しい習慣を作ることもできます。また、自分を抑えて、人前に出せる顔を作ることもできます。
でも心を変えるのは無理です。
「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」
このエゼキエルのメッセージ(18:31)を最初に耳にした人たちも、わたしたちも、こう言われても「新しい心と新しい霊を造り出す」ことはできないのです。
わたしたちは、自分を救うことができないのです。意志が弱くて、心が曲がっているのです。それを直すこともわたしたちにはできないのです。
ところが神にはできます。神は不可能なことを可能にすることがおできになります。神が何かをお命じになったら、必ずそれを果たせるようにしてくださいます。だから「新しい心を造り出せ」と仰るのでしたら、そのための恵みをも与えてくださるに違いないのです。
宗教改革者のジョン・カルビンが言いました:「主はすべての人を悔い改めへと誘い、誰をも拒まれない」と(Calvin, Comm. Ezekiel 18:32)。悔い改めへと誘ってくださる神は、悔い改めることができる恵みをも与えてくださるのです。
今日のフィリピの信徒への手紙でも、聖パウロはそういうことを言っていると思います。
「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:12b-13)
わたしたちが許せば、神はわたしたちのうちに働いて、弱まった意志を強めて、神に喜んでもらえることを自ら進んでしたいようにならせてくださいます。洗礼式の誓いの言葉でも、こういうことを表す極めて重要な言葉が入っています。
- あらゆる暗闇の力を退けますか? → はい、神の助けによって退けます。
- イエス・キリストへ、光へと向きを変えますか? → はい、神の助けによって...
+ + +
イエスのたとえ話では、長男は方向転換をしました。父の言うことを拒否する方向から父の言うことを行う方向に変わったのです。
イエスはこの同じ質問をすべての人にお聞きになります。かつても今もイエスのミッションはわたしたち一人一人を従順へと呼び掛けることです。つまり、今日、ぶどう園へ行って働きなさい、と。今日、天の父のみ心にそった生活を送りなさい、と。
2000年前、徴税人や売春婦はこの呼び掛けを聞き、それに応えました。長男と同じように、以前その生き方によって神に向かって「いやです」と言っていました。しかし長男と同じように、彼らは「考え直して」イエスに従うようになりました。方向転換をしました。要は、イエスとの出会いにおいて、方向転換をするための力を発見したのです。罪深い生活から離れる恵みを発見しました。神との交わりに入る恵みを発見しました。
クリスチャンになるというのは、方向転換をすることです。未だに、わたしたちは周りの人々と殆ど変わらない生活をしているのであれば――同じ根拠に基づいてものを決めたり、同じ目的のために時間、お金、才能を使っていたり、自分のことばかりを考えたり、自分の罪であまり違和感を持たなかったりしているのであれば、ひょっとしたらまだクリスチャンにはなっていないかも知れません。ひょっとしたら次男のように、口では神に「はい」といいながら、今まで通りの生き方をしているかも知れません。
イエスは、方向転換をするための力を与えてくださいます。口で神に「はい」と言い、生活を通しても「はい」と言うことができる恵みを与えてくださるのです。
さて、方向転換したら、何があるのでしょうか。
命があります。
「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか...お前たちは立ち帰って、生きよ!」(エゼキエル18:31b, 32b)
徴税人や売春婦は悔い改めて、み国に入るまでイエスについて行きました。それは、そこに豊かな命があると見えたからです。本当の喜び、本当のコミュニティ、行ける神との交わりはそこにあると分かったのです。
立ち帰って、生きよ!
心が狭くなる。周りの人との関係に違和感を持っていたり、周りの環境との距離感を覚えたりする。なかなか人とつながることができない。自分を見失ったり、自分のアイデンティティが分からなくなったりする。生きる意味が見えなくなる、人生の目的を見失う。むなしさを覚える。倦怠感がある。人生の楽しみも喜べなくなる。不安がある。人に対して、神に対して、自分自身に対して怒りを覚える。絶望感がある。心がどんどん暗くなっていく。そういうことです。
2011年8月28日日曜日
オール・オア・ナッシング
聖霊降臨後第11主日(A年・特定17)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年8月28日・10時30分 聖餐式
そろそろ秋。学校は、始まっているところがあります。教会も(神さまは夏休みはなさらないけれど)8月はわりと静かですが、そろそろ信仰生活を改めて見詰める時期。個々人として、及びコミュニティとして。(来週、チャペルの求められているホスピタリティについて考えます)。
聖パウロは信仰生活のビジョンを描いてくれています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」(ローマ12:1 )
まず、この「こういうわけで」とは、どういうことでしょう。今までパウロが話していたのは、遠ざかっていた人たちは、神の憐れみによって神に近寄ることができている、ということです。11章の最後:
「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、
今は...憐れみを受けています。
今は...憐れみを受けています。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
だれが、神の定めを究め尽くし、
だれが、神の定めを究め尽くし、
神の道を理解し尽くせよう。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
神に向かっているのです。
神に向かっているのです。
栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:30, 33, 36)
さて、こういった「神の憐れみによって」わたしたちはどう生きればよいでしょうか。遠ざかっていて、神の愛から離れていたわたしたちは、神の憐れみによって、そのみ子イエス・キリストを通してウェルカムされている、いつまでも神につながっているので、どう応えるべきでしょうか。
12章では、パウロが信仰生活のビジョンを描いてくれます。おもに三つの側面があります。
I. オール・オア・ナッシング
まず最初に、弟子であることはオール・オア・ナッシングの問題です。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(12:1)
「自分の体」。聖書では、「体」はその人全体、全人格、そして自分が送る人生全体を表す単語です。だから聖書によれば、日曜日と平日の違いはありません。最終的には肉体と魂を分けて考えられません。
わたしたちはクリスチャンとして、自分の一部分だけを神に捧げようとすることはよくあります。自宅を売りつつその中の部屋に「立入禁止」という掲示を貼るような感じです。
キリストが教えてくださった祈りでは「日ごとの糧を今日もお与えください」となっています。それは、神が日常のすべてにご関心をお持ちだからです。わたしたちの人生のあらゆるところが良い知らせの対象となっています。神はわたしたちが自分のすべてを捧げて欲しい。思いも、話し方も、関わり方も、キャリアも、様々な選択も。そうすれば、神はわたしたちのすべてを癒し、祝福してくださるのです。わたしたちが捧げないことは、神は祝福なさらないのです。
エフェソのクリスチャンたちにパウロがこう書きました。わたしたちは「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15)
要は、12章の1節でパウロがこういうことを言っていると思います。
「皆さん、神の助けを得てこういうことに頑張って欲しいです。すなわち、皆さんの日常生活――つまり寝て、起きて、食べて、働いて、走り回っている日々を神への供え物として捧げなさい。神に一番喜んでもらえることは、日々の生活の中で神の恵みと神のご計画を受け入れることです」
オール・オア・ナッシング。わたしたちはすべてを神に捧げます。神はすべてを癒し祝福してくださるのです。
II. 戦いであることを覚悟しなさい
それからパウロが言っているのは、信仰生活は戦いであることを覚悟しなさい、ということです。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(12:2)
世の中にいながらイエスに従うことは、戦いです。困難と摩擦が必ず伴われます。すべての福音書ではイエスが仰っています。「世があなたがたに対立するなら、その前にわたしに対立していたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18。マタイ10:22、マルコ13:13、ルカ21:17参照)。
摩擦が生じるのは、イエスに従うこと=世のやり方に従わないことだからです。弟子は違う道を歩むのです。視野を狭くしたりヘンテコリンになったりするわけではありません。が、「変わっている人」と思われてしまうことにひるまないことです。みんなと違う選択をすることで理解してもらえないときがある、軽蔑されるときもあることを覚悟することです。み国の価値観は世の価値観とは違います。重なるときもあれば、全く異なるときもあるのです。
この2節でパウロがこういうことを言っているのではないかと思います:
この世の型に押し込められることをやめなさい。何も考えずに、周りの人たちのやっていることに合わせてはいけない。むしろ、神をじっと見詰めなさい。そうすれば、あなたたちはうちから新たにされ、変えられていくのです。神の求めていることは何であるか理解するように努力して、それに積極的に応えなさい。周りの社会はいつもそのいいかげんな生き方に倣わせようとしているけれども、一方、神はあなたのうちにある素晴らしさを引き出し、一人前の人間に仕立ててくださるのです。
これは決して安易なことではないと思います。わたしは、毎朝、着替えながら主の祈りを唱えます。「み国が来ますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と言ってからだいたい30分以内にこの世の型に押し込められてしまいます。我が先で、慌しくて、気を散らされたもう一人に。
だからこそ、毎朝「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」ということをも祈っています。四方八方から悪魔に悩まされてしまうのです。つまずかせようとしています。悪魔はとても機敏で、その人その人にあった誘惑をもたらすのです。人によって甘いものだったり、いけない雑誌だったり、意地の悪い思いだったり、噂話だったり、お金に関する選択だったりして。
しかしながら、21世紀の日本社会に住んでいるわたしたちにとって、共通して気をつけないといけないところがあると思います。クリスチャンとして、わたしたちは流されないように精一杯立ち向かわなければならないと思います。
A. 一つは、子どもに対する態度だと思います。日本は、実施される中絶の数において、世界のトップクラスに入ります。子どもにとって、母親の胎内でさえ安全でないことが多いわけです。
だけど実際にこの世に生れる子どもたちの間でも、お家が安全でないことがいかに多いことでしょうか。この一年間、病院の小児病棟に何人か、親から虐待を受けた子どものケースがありました。一生の体の傷を受けている子もいます。全員、当然心に深い傷を受けています。
このようなニュースは毎週のように耳に入ります。つい昨日、大阪で7歳の子どもがずっと虐待を受け、やがて暴行で殺されたというニュースがありました。残念ながら全く珍しくない話です。
でも報道される話だけではありません。先日、結婚を考えている女性と話していて、殆ど毎日夜12時前に帰ることがない仕事をしながらどうやって子育てができるか、と悩んでいたのです。わたしは「それは無理です」とずばり言いました。それはある種の育児放棄だから、そういう仕事をやめてから子供を考えなさい、と言いました。
少なくとも、彼女は悩んでいました。自分の子のクラスメートの間で、下校して夕方7時、8時、9時まで一人で留守番する子は1人だけではありません。両親は何を考えているでしょうか。借金でもあるかも知れません。もしくは、快適な生活やいい旅行や私立学校のためにお金をためているかも知れません。会社での立場を失いたくないかも知れません。
分からないけれどもいずれにしても子どもの心はどうなるのでしょうか。愛情に包まれている安心感。お父さんとお母さんにとって何よりも大事な存在だという自覚。
今の日本社会においてこそ、クリスチャンの両親だけではなくて、子どもたちとの関わりのある人――つまりわたしたち全員が気をつけないといけません。経済的な余裕、キャリア、自己実現などを子どもよりも大事にする社会に倣ってはいけないのです。
子どもたちは、神からの贈り物です。わたしたちに託されている聖なる責任です。神は特に弱い者、無防備な者に心を配られます。なおさら弱くて無防備な子どもたちはそうです。
B. もう一つ要注意なところは、人間理解です。世の中で、人間の命は、その生産性や役に立つことによって評価されがちです。
何も生産しない、もう役に立たないと思われる人は、では、価値がないのでしょうか。例えばアルツハイマーを患っている人。寝たきりになっている人。知的障害のある人など。こういう人たちは社会から除外されるべきでしょうか。実際にそう訴える人はいます。
生産しない人、「役に立つ」と思われるようなことができない人はどうも「迷惑」とされる傾向は日本に強いと思います。こういう考えをうのみにしている人が緩和ケア病棟に入院すると大変なことになります。当然、生きたいという望みはあります。愛する人とできるだけつながっていたいのです。でも同時に非常に不安。生きることそのものが周りの人に迷惑に過ぎないと感じるからです。生きる価値がないと思ってしまいます。だから鬱っぽく、早く終わりにしたいと嘆いて最期を迎えるのです。
役に立たないと思われる人生をできるだけ早く終わらせる動きはどんどん盛んになっています。今は、ヨーロッパで最も著しくなっていますが、アメリカと日本は同じ方向に進んでいます。
わたしたちは気をつけないといけません。命を粗末にしてはなりません。人間の尊厳は、神にかたどって造られていることにあって、役に立つかどうかとは関係ありません。
III. 素直に自分を見詰める
最後に、パウロは、自分自身を素直に見詰めることを進めています。
「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(12:3)
他の人の弱点を探すのが得意であるのは、わたしだけではないはずです。逆に、自分自身の粗削りのところは見逃しやすいです。
皆さんは、人生で今何をしているのでしょうか。どこに向かっているのでしょうか。いつまでも時間があるわけではありません。皆さんは分かりませんが、自分の場合は、なりたい自分、神に望まれている自分と今現在の自分との間のギャップがあることを痛感しています。かなり大きなギャップです。
自分のことで、気づいていない欠点は何でしょうか。神の恵みによって変えていただくべきところは何でしょうか。魂の庭で生えている雑草は何でしょうか。
こういう雑草を見極める、現実的な目で自分を見詰めるスキルは信仰生活に必要不可欠。ここで、昔からの習慣として、毎日の振り返りが非常に役立ちます。5分でもかけて、去った一日を振り返って、神の恵みが働き掛けていたところはどこだったのか、み心に応えていなかったときはいつだったのか。
もっともっと話すべきことがありますが、ここまでにします。パウロは、イエス・キリストに従う人生・信仰生活のビジョンを描いてくれています。このような信仰生活は難しいです。たまには不便で、つらいことがあります。でも、この上ないやりがいがあるので、挑戦してみませんか。
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