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2012年6月8日金曜日

合格点を得るには(使徒言行録2:1-11、ヨハネ20:19-23)

2012年5月27日・10時30分 聖霊降臨日・主教巡回日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 牧師任命式・聖餐式・堅信式


看護大学でもシーバー家でも、中間テストを迎えている雰囲気になっています。看大の学生たち、また自分の子供の勉強している姿を見て、ただ一つの思いしかありません:僕じゃなくて良かった!と。連発試験を受けることは、もう結構です。

僕は去年、看護大学で新しい評価の仕方を知りました:秀、優、良、可。その後は不合格。

今日は、「教会の誕生」とも言われる聖霊降臨の祭りなので、自分たちの評価について皆さんと考えたいと思います。この礼拝堂としての成績は、どう評価しますか?秀?優?良?

洗礼を受けている皆さん自身は、イエス・キリストに従う人としての成績は、どう自己評価します?良?優?秀?

わたしは牧師として――もう任命式が終わったからあえて言いますが――わたしは牧師として、明らかに不合格だと思います。謙遜ではなくてマジで。

「まあ、クリスチャンとして何とか合格かな」と思っている人は、キリストに従う者たちから何が求められているのか、本当に分かっているのかな、と疑問に思います。基準が分かっているかしら。イエスは山上の説教でその弟子たちに仰います:「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」、と(マタイ5:48)。

イエスに従う者たちは世の中に大きな影響を与えるはずです。特に個人レベルで。クリスチャンに出会ったら「うわ、何この人?!?何か、すごい!」と思われるのが、本来普通の有様です。イエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。周りの人がわたしたちの言葉と行動と生き方を見て、果たして天の父をあがめるようになっているのでしょうか。

イエスに従う者は神の国のために――つまり、神に喜んでもらえるように実を結ぶことが求められています。祈ると病人が治ったり。絶えず祈ったり、しかも大いなる確信を持って祈ったりする。悪に立ち向かう。世の中の偽りに流されない。自分の行動と言葉でイエス・キリストの麗しさを人に見せる。人に仕えることに熱心である。などなど。

つまり言いたいのはわたしたちの考え方は小さ過ぎるのではないか、ということです。日本では、クリスチャンであることは好みのレベルにあると思われます。趣味と同じぐらい。あるいは、教会に関わることは、自分の心の拠りどころとして、結び付きがだいぶ薄れてきた近所の代わりになるものとして考えられがちです。名前が知られて心地よい居場所。

でも聖書が示すのは、だいぶ違うイメージです。もちろん、クリスチャンであることは大いに心の拠りどころになるはず――「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5:5)とパウロ。そしてクリスチャン同士の愛はほかのどんな絆よりも深いはず:「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)。

でもそれだけではないわけです!クリスチャンであるというのは、何よりも偉大な救出作戦に加わることだ、と聖書が示してくれます。全世界の人々を暗闇の支配から、霊的な死から解放するという膨大な運動に参加するわけです。特祷にあるように「永遠の命の道を開かれる」神の働きにあずかることです。

さて、皆さんの成績はどうしましょう?このチャペルとしてどしましょう?僕自身、どうしましょう?秀?優?良?可?それとも不合格?
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エルサレムで待機していた弟子たちを考えると、なかなか面白い。彼らはいろんな意味で「クリスチャン」と見なしていいと思います。聖書は(一応)知っている。きちんと礼拝に出る。3年間、イエスの教えを学んできた。体の復活の真実を受け入れている!イエスによる赦しを確信している。イエスを救い主として、主として受け入れているのです。

そして共に集まっている。そこに一つのコミュニティができているわけです。

しかし、これでも不十分だそうです。イエスの望みは、彼らがずっとその家に座り込むのではないそうです。いずれ派遣するつもり。でもまだ、何かが足りないのです。

まるで夜のステンドグラスのような状態。すべての部分が整っているけど、光がないから役目を果たせないという感じです。
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ところがある日、何か不思議なことが起こりました。この小さくて弱い、方向性のない弟子たちのグループがいきなり、後にも先にも現れることのないような、世界を変えるような力強い運動の推進役に変身したのです。

何かが起こって、弟子たちはパッと行動に移り、その家を出て、世界の果てまで出掛けて行ったのです。そして3,4百年もの間で、イギリスからインドまで大勢の人々がよみがえりのイエス・キリストによる救いの喜びを経験することになったのです。

この弟子たちは歴史の流れを変えたのです。わたしたちが今日ここにいるのも、このチャペル、病院、看護大学が存在するのも、その数十人の男性、女性のおかげなのです。彼らの働きによって、暗闇に覆われている世の中で「永遠の命の道が開かれた」。

そのおかげで2,000年後、世界3人に一人がキリストのお世話になっているわけです。

いったい何が起こったのかというと、聖霊が与えられたのです。米粒より小さいエネルギーの塊りから宇宙をお造りになった神の力が注がれたのです。その力が弟子たちを「小さなキリスト」の部隊に変えたのです。(「クリスチャン」の本質的な意味)
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日本の多くの聖公会の教会は家の中で座り込んでいるままになっている気がします。「ここは心地がいい」と言って、ずっと家にいるわけです。

でも神は、わたしたちを通して想像を超えるような素晴らしいことをなさりたいのです。しかもその素晴らしい働きを果たすための力を与えようとしておられるのです。

イエスは「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と仰いました(ヨハネ15:5)。夜のステンドグラスのごとき。

でも神のみ前で唯一の合格者であるイエス・キリストはご自分の力をくださろうとしておられます:「聖霊を受けなさい」と弟子たちに仰るように(ヨハネ20:22)。

神はわたしたちを通して素晴らしいことをなさりたいのです。例えばどういうことか?何か新しい委員会を作るとか、施設を建てるとか、署名運動に加わるとか新しい活動をするとか――そういう話ではありません。仕事を捨ててアフリカで宣教師になるとか、そういう話でもありません。まず。

そうではなくて、「小さなキリスト」の部隊になってほしいのです。

だから一人一人のやっていることは全く変わらないかもしれません。やっていることは変わらないけれども、その意図とその質が変わります。キリストにあって、キリストと共に、キリストの力と知恵を得てやっていくと、その意味、そのインパクトは比べ物にならないほど深くなるのではないかと思います。
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キリストの働きに加わるための、キリストの力と知恵を得させる――これこそ聖霊の役目なのだと思います。

では、どうやって聖霊の恵みを受けることができるのでしょうか?洗礼や堅信を受けるとき聖霊の恵みを受けているはずです。でもどうすれば、その聖霊の恵みをイキイキとしたものとして受けることができるのでしょうか。一回だけではなくてずっとこれから。「霊に満たされ続けなさい」とパウロが言っているように(エフェソ5:18)。

まず、祈るべきですね。エルサレムの弟子たちは一緒に家に集まって「心を合わせて熱心に祈っていた」と使徒言行録に書いてあります(1:14)。

祈らなければなりません。そして自分の生活の中で何か聖霊の恵みを妨げることがあれば、それを告白して神の赦しをいただく必要があります。人を赦していないとか。神に喜ばれない何かと関わっているとか。そういうことがあれば、それを退ける必要があります。

そして聖霊の恵みを求めるのです。一人ででも、誰かと一緒にでも、祈って、聖霊の恵みを求める、求め続けるのです。

ただそれだけです。イエスが言われました:「天の父は求める者に喜んで聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)。

正式に牧師に任命された者として、僕はこれまで以上に聖霊を求めて、聖霊の助けを頼りにしなければいけないという事実を痛感しています。

ぜひ、皆さんも共に聖霊の恵みを求めていただければ、嬉しく思います。

2012年5月23日水曜日

finishing luke (maybe)

The every-other-Thursday Bible study at the hospital, after three years, is finally going to finish Luke's Gospel tomorrow. Maybe. The group of about 8-10 men and women, of which I'm the youngest, is pretty good at going off on tangents. We get to talking about late husbands and new maladies and the like. One person brings in Hebrew trivia. Another exclaims "It's all over my head!" You know, we have fun. So there's a good chance we actually WON'T finish tomorrow.

But it has been a good journey, I think. And the final thing that once again strikes me is this: "joy" is a key word.

"They returned to Jerusalem with great joy" (Luke 24:52). Luke's Gospel begins with joy (Luke 1:14, 44, 58) and ends with joy. The angel tells Mary "I bring you good news that will cause great joy for all the people" (Luke 2:10).

The "Son of God" (Luke 1:35), the "Savior and Messiah" (Luke 2:11) was sent from heaven for just this reason: ultimately to bring joy to all people. He came to take the tragedy of a world ravaged by evil and sin and turn it into a comedy (as in, a story with a happy ending).

And this joy, which no hardship, no wile of the devil can ever extinguish, continues to grow and grow in the community of believers bound to Jesus (Acts 2:28, 8:8, 13:52, 14:17, 16:34).

The One who constantly brings us this joy is the Holy Spirit, acting in Jesus' stead: "And the disciples were filled with joy and with the Holy Spirit." (Acts 13:52).

I pray that all who read this are filled anew with the joy of the Holy Spirit this Pentecost.

明日、ルカの福音書を終わる(はず)

病院で、隔週木曜の聖書勉強会では、この3年をかけてやっと明日聖ルカによる福音書を終わる。はず。小職が最年少者となる男女8~10人のメンバーで、よく脱線したり、亡父の話や体の不調の話をしたり、ある方はヘブライ語の豆知識を持ち出したり、ある方は「話はさっぱり分からない!」とつっくんだり、いつも楽しく進めているので、終わらない可能性もなくはない。

でも良い旅だったと思う。そして最後に改めて気づいたのは、「喜び」のキーワードである。

「彼らは...大喜びでエルサレムに帰った」(ルカ24:52)。ルカの福音書は喜びで始まり(1:14, 44, 58)、喜びで終わる。天使がマリアに言った:「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(2:10)。

天から遣わされた「神のみ子」(1:35)「救い主、主メシア」(2:11)が世に来られたのは、最終的にすべての人々に喜びをもたらすためであった。悪や罪に苦しんでいるこの世の悲劇を喜劇に変えるためであった。

どんな苦難、どんな悪魔の策略でも打ち消すことができないこの喜びは、今度イエスに結ばれている人たちのコミュニティの中でどんどん広がっていく(使徒言行録2:28, 8:8, 13:52, 14:17, 16:34)。

この喜びを常にもたらしてくださるのは、イエスの代行である聖霊なのである:「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」(使徒言行録13:52)

皆さんも、聖霊降臨日で改めてこの喜びに満たされますように祈っている。

2012年2月19日日曜日

内面的生活を第一に(申命記6:1-9)

夕の礼拝 2012年2月19日

申命記という書物は、エジプトでの奴隷生活の苦しみから神に導き出されたイスラエルの民に向かって、モーセが語る長いスピーチです。その冒頭にこの言葉があります(申命記6:4):

♪ シェマ、イスラエル、アドナイ エロヘイヌ、アドナイ エハッド ♪
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。


そしてその続き(日本語のヘブライ語順に合わせて):
あなたの神、主を愛しなさい、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。 
 +   +   +
新約聖書も旧約聖書も、その中心の中心に、神との親しい関係があります。

この関係しか、人間の心の奥底にある望み、渇望を満たすことができません。モノも、お金も、成功も、恋愛も、名誉など、これらのことだけでは、満ち足りた心が得られない。心の本当の平安が得られないのです。

申命記の6:4-5は「シェマ」(「聞け」)と呼ばれます。ユダヤ人はこれを毎日唱える習慣があります。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたの神、主を愛しなさい、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。」

敬虔なユダヤ人であったイエスも、これを「第一の掟」として認められました。
+   +   +
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。」
神との交わりは心にも魂にもーー要は、わたしたちの理性にも、わたしたちの意志にも、わたしたちの感情にもーーつまり、内面的生活全体に関わっている、ということです。

新約聖書も旧約聖書も、その中心の中心に愛があります。

まず、神のわたしたちへの愛があります。そしてそれから生まれる、わたしたちの神への愛があります。申命記の7章(9-13)には:
「あなた[神の子供たち全員]は知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる...あなたたちがこれらの[掟]に聞き従い、それを忠実に守るならば、あなたの神、主は先祖に誓われた契約を守り、慈しみを注いで、あなたを愛し、祝福し、数を増やしてくださる。」
「慈しみを注いで、あなたを愛し、祝福してくださる。」*こういう*天の父との親しい交わりにわたしたちが招かれています。

それと比べて、モノも、お金も、成功も、恋愛も、名誉も、結局足りないものだと分かります。

イエスは長い間、荒れ野で祈りながら断食しておられ、お腹が大変すいてきたとき、悪魔から一つの誘惑を受けられました:「あんたは神の子なら、持っているはずの不思議な力を使ってこの石をパンに変えればどうだ」と。

こういうふうに誘惑されたイエスは申命記のみ言葉を抜粋して答えられました:
「人はパンだけで生きるのではない。人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)

つまり、人間の内面的な生活、神との交わりを慕う心、こういうことはものよりも、食べ物そのものよりも遥かに大事だということです。心の奥底の渇望は、主の口から出る言葉によって*のみ*満たされるのです。

わたしたちは物質的に恵まれているとき、あるいは世俗的な意味でうまくやっているときに、一つの危険があると思います。それは、高慢になって神を忘れてしまう、ということです。すべてのものは主からいただく賜物であることをすっかり忘れてしまうのです。神なんて要らない、とそこまではっきりした考えがなくても、神が*いないかのように*生きようとするのです。

「自分の力でいけんじゃない?」と勘違いしてしまいます。

病院という場所は、そういう勘違いができなくなってしまった人たちが集まる場所です。病気になってしまう、あるいは親しい人が病気になってしまうと、自分の力がいかに小さいものか、いかに神の恵みによって生かされてきたか、ということに気づかされることがあります。

病気にならなくてもこういう勘違いを防ぐ方法は、やはり感謝することだと思います。

申命記8章:
「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」(申命記8:10-11)

神をたたえる、神に感謝することです。

だから、お金があろうと貧乏であろうと、生活がうまくいっていてもいっていなくても、人生の中心に置くべきことは、お金、モノ、成功などではなくて、唯一わたしたちの心の奥底の渇望を満たすことができる、神との交わりです。

実は、神ご自身がその交わりを慕う思いをわたしたち人間の心に置いてくださいました。その子供たちがご自分を忘れないために。

大先生の聖アウグスティヌスは、このことにひらめいたのです。その自伝の冒頭にこういう言葉があります:
「あなたはわたしたちをご自身に向けてお造りになった。だから、わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのである。」(『告白』)

祈りましょう。
主よ、あなたは豊かな愛をわたしたちに注いでくださいます。また、愛の交わりにわたしたちを招いてくださってありがとうございます。あなたはわたしたちを愛し、祝福してくださると約束されました。どうか、わたしたちも心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたを愛することができるようにしてください。また、表面的なこと、お金やモノや成功やこの世的なことを人生の中心にすることなく、内面的な生活、つまりあなたとの交わりを一番大事にして、あなたのみ言葉一つ一つを心の養いとして求めるようにならせてください。アーメン

heart of worship

In my heart of hearts, I am a vaulted-ceiling-high, and deeply unfulfilled, Anglo-Catholic.

If I could construct life exactly as I pleased like some kind of online virtual world, my Sunday worship experience would be drenched in billowing clouds of top-grade incense smoke, mellifluous Sanctus bells rung vigorously at all the right moments, Palestrina chanted by a boys choir, and two guys flanking me at all times to hold up the sleeves of my chausable, like an ecclesiastical security detail. I would own a biretta, whose headband would be worn from overuse.

There would be a great big, lovely statue of the Blessed Virgin in a small side chapel in the sanctuary, with rows and rows of votive candles that were always almost all lit.

There would be stained glass...well, pretty much like the stained glass we have now in the hospital chapel.

And everybody attending worship would make the sign of the cross and bow. A lot.

For more reasons than I can possibly enumerate, I am very glad that I cannot construct my life exactly as I please, or even to any noticeable degree as I please. L'enfer, c'est nous meme.

Like everything else in the universe, worship isn't about me, or even about me and God. It's about the incarnation of Christ in a local community of believers, with a unique history and culture and character.

So, because of the particular community I'm part of, I have to forgo the smells and bells. In return, I get wonderful, gritty reality, a family worshippping together in its own way and in the process being slowly transformed into the likeness of Christ.

I wouldn't have it any other way. Doesn't mean I don't long for all that stuff, though.

But, as spiky as I might be by temperment, I have also come to believe that the worship that we find described in the Psalms finds its truest expression in gatherings like this one:

 
Anyone who has really spent time chewing on words like Alleluia and Hosanna and Amen, which pretty much demand to be shouted, should be able to see the connection.

I mean, do you think that, if they had the technology, the Levites would NOT have jacked their harps into amps? Do you think they would not turn cartwheels if somebody set up a drum kit in the tabernacle? Do you think they didn't have their hands in the air when, for example, they sang this:
   Praise the LORD! Hallelu Yah!
     Praise God in his sanctuary!
     Praise him in his mighty heavens!
  Praise him for his acts of power!
     Praise him for his surpassing greatness!
  Praise him with the sounding of the trumpet!
     Praise him with the harp and lyre!
  Praise him with timbrel and dancing!
     Praise him with the strings and pipe!
  Praise him with the clash of cymbals!
     Praise him with resounding cymbals!
  Let everything that has breath praise the LORD! Hallelu Yah!
    (Psalm 150)

Praise the LORD with the electric guitar and keyboard and drums and sound system.

It is not really my cup of tea. It is so unseemly, and so biblical.

2011年12月6日火曜日

なぜいやしの祈りをするのか

2011年12月4日の17:00で初めて試みた「いやしの祈り」夕の礼拝でのトーク...

なぜ、今夜の「いやしの祈り」をするのかというと、おもに3つの理由があると思う。

① イエスご自身がいやしの祈りをものすごく大事にしておられたから...

ペテロがイエスのキャリアをまとめる:
「神は、聖霊と力によって[ナザレのイエス]を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」(使徒言行録10:38)

イエスの働きの中でいやしが何よりも大事にされていたのである。

② イエスの弟子たちもその働きをそのまま引き継いだから...

今日の聖書箇所=使徒言行録3:1-10。聖霊がくだってきた間もなくの話だが、ペテロとヨハネが生まれながら足の不自由な人のために祈り、その人が治った。

「イエスの名によって」と書いてある。聖書では、人の名によってするというのは、その人の権威・権力を持って、その代わりにする、という意味。

教会はイエスの権威・権力を授かっているので、いやしの祈りに励む。

③ イエスはその教会に命じられたから...

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい...[そうする人たちには]次のようなしるしが伴う...病人に手を置けば治る。」(マコ16:15a, 17, 18b)

イエスに派遣されているから、わたしたちはいやしのために祈るのである。

でも、何でこんなにいやしを強調されるのか?

イエスは一生懸命に「神の国」を伝えようとしておられた。

「神の国は近づいた!」それは、イエスご自分のメッセージでもあり、弟子たちを派遣したときに彼らに託したメッセージでもある。どこかに行ったら「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(ルカ10:9)。

神の国とは何なのかというと、神の憐れみと慈しみが現されること。神が望んでいらっしゃることが実現されること。

これを言葉だけでは伝わらない。実感してもらえるためにイエスはいやしに力を注がれたのである。

神の国が近づくと、事柄が変わるのだ。目に見えることである。神の国は、人の人生にインパクトがある

何よりも、人がいやされる!体と心と魂がいやされるのである。
体のいやしとは、病、痛み、人に仕えることを妨げる苦しみが取り除かれる。
心のいやしとは、孤独、絶望、不安が取り除かれる。
魂のいやしとは、神から離れている思い、罪に苦しんでいる思い、人とうまく行かないことがが取り除かれる。

つまり、その人の本来のイキイキとした姿が取り戻されることである。

この病院や看護大学も同じビジョンを持っている。つまり、人間の幸福、平安、喜び、健康(=well-being)

このビジョンはそもも神の国のビジョン、神の憐れみと慈しみを受け入れた人たちの間で生まれたビジョンなのである。

今夜わたしたちが望んでいるのは、神の国が目に見える形になること。それだけである。魔術でも、ただのフィーリングや雰囲気でもない。単純に、神がわたしたちの間で働き、体と心と魂の本来の元気な姿を取り戻してくださるように願い求めたいと思う。

2011年12月1日木曜日

教会の重要な務め:いやしの祈り

2011年11月27日発刊の「チャペルニュース」に出た巻頭メッセージです...

来る12月から、このチャペルでは月一回「いやしの祈り」という新しい礼拝を始めようと計画しています。毎月、第1日曜日午後5時から、トイスラーホールにて行う予定です(第1主日の「夕の礼拝」の代わりになります)。

大体いつもの夕の礼拝と同じ流れの中で、祈りを希望する方一人一人のために司式者が手を置いて祈るという時間を取る、というわりとシンプルな礼拝を予定しています。

いやしのために祈るというのは、極めて重要なことだと思います。イエスご自身がその働きの中でとても大事にされたことです。また、その弟子たちを派遣なさったとき、イエスは人々のいやしのために祈りなさいと命じられました(ルカ九・二、十・九など)。そしてご復活後でも、そのいやしの祈りは弟子たちによって引き続き行われました。このように二千年間にわたり、教会はいつでもこの働きを続けてきたのです。

聖書では、イエスの弟子の一人である聖ヤコブがこう書きました。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブ五・十四)。教会に来ていやしの祈りを求めることは、まさにこういうことでしょう。

教会の祈りはあくまでも神の恵みを求めることであって、人はその器に過ぎません。祈ってもらうとき、何か感じる人もいれば、そうでない人もいます。いずれにしても、神が共におられ、わたしたちの祈りを聞き入れてくださること、そしてわたしたち一人一人に最もふさわしい形でのいやしを喜んで与えてくださることを信じています。

本当の祈りは「ご利益」ではなく、ただ単に心の望みを神に言い表すことです。わたしたちは体のいやしを願っても、神はその病を残し、新しいことに気づく機会や心を向け直す機会として用いてくださる場合もあります。つまり、わたしたちが想像していた「いやし」とは違う恵みが与えられることもあります。それを素直に受け止めることは、神に求められる信仰心と言えましょう。

なお、医学分野と同じくいやしの祈りでも、即座に改善が見られる場合もあれば、時間をかけて、繰り返し祈ってもらう中で改善に向かう場合もあります。いずれにしても、神の望みはわたしたちの健康、平安、喜びであり、また赦し合える心、愛し合える心を持つことである――つまり、自らの本来の姿が取り戻されることです。こういった神の慈愛を見詰めて、あきらめずに自分のために、そして他人のために祈り続け、友の祈りを願い続けることが大切です。

当チャペルの新しい働きとなるこの「いやしの祈り」のために祈ってくだされば幸いです。

2011年9月4日日曜日

ホスピタリティはこのチャペルの使命です(ローマ12: 9-21)

聖霊降臨後第12主日(A年・特定18)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年9月4日・10時30分 聖餐式

今日は、ホスピタリティについて皆さんと考えたいと思います。「もてなし」でなくてホスピタリティという言葉を使っているのは、元々のギリシャ語の単語は客の世話をする、馳走することよりもっと深いニュアンスがあるからです。「フィロクセニア」という単語で、「外の人を愛する」という意味になります。もしかしたら「もてなし」の本来の意味は聖書に意味に近いかも知れませんが。

このチャペルの理念から抜粋させていただきます。
神の恵みにより建てられた聖ルカ礼拝堂は、病院・大学の礼拝堂としての特性を踏まえ、これらの存在基盤である「キリスト教の愛」を、常に示し続ける使命を担う。具体的には、
 病院の礼拝堂としては、患者、その家族、医療スタッフ、職員、ボランティアに対して、
 看護大学の礼拝堂としては、学生、教職員に対して、
 教会としては、地域と社会の人々に対して、
 祈りと慰めの機会と場を提供していくとともに、これらの人々と教会員が、神の愛のみ旨を成し遂げていくことができるように支え合い、ともに働き続ける。
さまざまな人に「祈りと慰めの機会と場を提供していく」。これこそホスピタリティの精神ではないでしょうか。問題は、どうやって祈りと慰めの機会と場を提供できるか、ということです。その前、一つのストーリーがあります。

ある日曜日の朝、ある男の人がお母さんに起こされました。「早く教会に行く準備をしなさい!」
「教会に行きたくない!」と頭の上に枕を覆いながら息子が言います。
「行かないと」とお母さん。
「だって、あの教会の人たちは冷たくて、あいさつもしてくれない。心地悪い。
  説教もつまらないし、お茶の菓子は美味しくない、全然。」
「早く起きなさい。教会に行くのだ。」
「どうして?どうして行かなくちゃいけない?わけが分からない!」
「あなたはその教会の牧師だから、いかげんにしなさい!早く起きなさい!」


初めて教会の礼拝に参加しに行くのに、勇気が必要だと思います。この病院は「敷居が高い」と言われたりしますが、チャペルもそう思われたらちょっともったいない気がします。(祈るために紹介状はいりませんから!)

でも確かに、勇気を出して、初めて礼拝に出る人は、突然いろいろな変わったことに遭遇します。まず、教会で変な単語は山ほど使われています。アッシャー、オルター、チャプレン、聖奠、信施、供え物、降臨節、聖霊降臨節、聖餐式、陪餐、祝福、使徒、信徒、主教、司祭、師父、執事、小羊!などなど。

そして変な行動をします。座ったり、立ったり、ひざまずいたりします。いきなりお辞儀を交わします。いくつかの布袋を回します。全員で礼拝堂の前方に行進します。
これらのことは面白くて、少し慣れて来てその意味が少し分かったら素晴らしいことになり得ると思います。だけど、初めて来られた人に「祈りと慰めの機会と場を提供」しようと思うのなら、この一風変わった環境でどうやって歓迎できるか、「ここにわたしの居場所があるかも」と感じてもらえるためにどういう対応が必要なのか、それが問題だと思います。

ホスピタリティはそういうことに関心を持つのです。ホスピタリティについて3つ話したいこと:
  • まず、皆さんは、自分自身ここに居場所があるということを知っていただきたいです
  • それから、神はわたしたちに常に人を送ってくださり、そういう人たちを歓迎して欲しい、ということを知っていただきたいです
  • そして、わたしたちの責任は、新しいクリスチャンを作るのではなくて、神の愛を示すことだ、ということを知っていただきたいです
まず、皆さんは、自分自身ここに居場所があります。

聖パウロがエフェソのクリスチャンに:
以前、あなたたちは「キリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたたちは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(エフェソ2:12-13)
わたしたちは全員、天の父の家にウェルカムされています。元々わたしたちの家ではありません。ホテルでもありません。ゲストとして扱ってもらうと思ったら大間違い。どちらかと言うと、教会は避難所に近いと思います。被災地で、ある大物がその屋敷を被災者のために開いてくれて、わたしたちはここで居候をしているような感じです。

この世に生を受けるというのは、神から遠く離れているという大惨事の状況に生れることになります。罪はそういうことです。だけでイエス・キリストは、わたしたちの罪のために死んでくださいました。イエスはその大惨事からわたしたちを救い出すために死なれたのです。だから、イエスのおかげで、わたしたちは避難所に逃れることができています。心の拠り所が与えられています。他の被災者との交わりが与えられているのです。

ここに皆さんの居場所があります。皆さんはイエス・キリストによってウェルカムされています。

2番目知っていただきたいことは:神が常にわたしたちに人を送ってくださっています。そして、そういう人たちを歓迎して欲しいのだ、ということです。
わたしたちが「神と関わりのない生活」から救い出されて、ここにウェルカムされているので、今度、わたしたちが他の人をウェルカムする番です。

このチャペルでの日曜礼拝(聖餐式)に、毎週平均5名の新来者が参加します。結構な人数です。大勢見える週もありますが、少ないときでも1人、2人の新しく来られた方があいます。とにかく毎週平均5名の方が始めてわたしたちと一緒に礼拝をしています。1年で言いますと...260人になります。

神は絶え間なく人をわたしたちのところに送ってくださっているのです。

それは、わけがあると思います。誰もただ偶然で教会に足を運ぶ人はいないと思います。必ず意味があるのです。もちろん、「わたしの人生で欠けているのはイエス・キリストだと気づいたので、イエスさまに出会うために教会の礼拝に出てみよう」と思って礼拝に参加する人は殆どいないと分かっています。

(皆さんも最初に礼拝に出たとき、そういう意図で出た方はあまりいらっしゃらないと思います。)

礼拝に出る理由は人によって違います。好奇心がある。友だちに連れて来られた。大事な人を亡くして、何かの慰めを求めている。病気や何かの不幸があって不安になっている。人生で道に迷って、何かの方向性や希望を探している。いい音楽を聞きたい、歌いたい。トイレを探していたけど場所を間違えた(笑)。

0.001%の人は説教を聞きに来る。(どうもどうも、ようこそいらっしゃいました!)

でもこれら全部が、人間の観点から考えられる理由になります。神は神なりの理由で人を礼拝に導かれます。今日、初めて礼拝に参加している方に知っていただきたいのですが、偶然ではない、ということです。わけがあってあなたがここに導かれています。

神が人を教会の礼拝という不思議な世界に導いてくださる第一の理由は、み子イエス・キリストに出会わせることです。

イエスは今朝ここにいらっしゃいます。目に見えないし、おられることを感じ取れないかも知れませんが、間違いなくここにいらっしゃいます。なぜかと言うと、いらっしゃると約束なさっているからです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

2人、3人どころか、100人以上イエスのみ名によってここに集まっています。今日だけイエスさまがその約束を守らないわけがないと思います。

最後に知っていただきたいことは、わたしたちの責任は、新しいクリスチャンを作るのではなくて、神の愛を示すことだ、ということです。

聖公会の信者が多いこの集いに向かっては話しています。熱狂的に伝道活動をやり過ぎることはあまり心配しなくていいと思います。(むしろもっと積極的に自分の望みを人と分かち合って欲しいのです!)

だけど、このコミュニティ自体が伝道的な存在になるはずです。コミュニティを通して、わたしたちの関わり合いを通してキリストの愛を現すことが求められていることです。お互いに接することから本当のホスピタリティが生れるのです。

聖パウロは、そういうことを今日のローマの信徒への手紙で言っていると思います。イエスも、マタイの福音書でそういうことを仰っているのです。

わたしたちは、兄弟姉妹としてお互いの人生の大事なことを分かち合います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」最近、この礼拝堂で結婚式を挙げたメンバーもいます。お葬式を行ったメンバーもいます。わたしたちは、人生の浮き沈みを共有しています。

また、ここで社会的格差はあまり通用しません。この中で医者も、看護師も、病院の他の職種の人もいます。看護大学の教員も、職員も、卒業生もいます。病院や看護大学と全く関係のない人もいます。さまざまな経済的な状況の人もいます。いくつかの国籍を持つ人もいます。

わたしたちは高ぶらないで、できるだけ互いに思いを一つにしようとしています。喧嘩や摩擦が生じたとき、兄弟愛をもって対応するように努力しています。(まあ、あまりうまくやっていないこともありますが、それは別の説教で!)

とにかく兄弟愛をもって関わり合うように励んでいると思います。そして、その兄弟愛がここから溢れ出て、神が送ってくださる人々を包んでいくことが、神が望んでおられることだと思います。

だから、わたしたちは「人をクリスチャンにする」ことは必要は求められていません。そういうことを神に任せればいいのです。人の心が神に向かうのに何が必要なのか、どのぐらい時間がかかるか、計り知れないことです。このチャペルに一回だけ来て、神の愛に気づくのが数年後になる人はいるかも知れません。でもここで種が蒔かれるかも知れません。

イエス・キリストはわたしたちの間におられます。わたしたちがお互いを愛し合えば、そして来られた人に心を開けば、わたしたちを通して人々がイエスに出会うことができるはずです。

経験者が語ります。僕は、何かを、人生で足りない何かを探していたときにある教会コミュニティに出会いました。何を求めていたのか、自分でも分かりませんでした。神も仏もあるものかと思っていた時期です。まさかイエスに出会いたいと思いませんでした。

出会ったのは、ホスピタリティのコミュニティ。全く見知らぬ、放蕩を尽くしていたこの僕を彼らにウェルカムされました。その共同生活に受け入れられました。最初躊躇していたが、やがて信頼関係を気づくことができたのです。

僕のことに関心をもってくれる人もいたし、自分の信仰を話してくれる人もいました。お互いへの愛情は目に見えました。神のことを大事にしていたことも明らかでした。そしてその音楽は最高でした。

ようやく、悟ったことがありました。すなわち、このコミュニティを通してイエス・キリストに近づいていたのだ、ということに気づいて来ました。それよりも、実はイエスさまが、その普通のクリスチャンの団体を通して僕をご自分のもとに近寄らせてくださっていたのだ、ということに気づきました。

ここでの普通のクリスチャンの団体ととても似ています。

ホスピタリティはこのチャペルの使命です。

2011年8月28日日曜日

オール・オア・ナッシング

聖霊降臨後第11主日(A年・特定17)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年8月28日・10時30分 聖餐式

そろそろ秋。学校は、始まっているところがあります。教会も(神さまは夏休みはなさらないけれど)8月はわりと静かですが、そろそろ信仰生活を改めて見詰める時期。個々人として、及びコミュニティとして。(来週、チャペルの求められているホスピタリティについて考えます)。

聖パウロは信仰生活のビジョンを描いてくれています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」(ローマ12:1      

まず、この「こういうわけで」とは、どういうことでしょう。今までパウロが話していたのは、遠ざかっていた人たちは、神の憐れみによって神に近寄ることができている、ということです。11章の最後:
「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、
 今は...憐れみを受けています。 
 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
 だれが、神の定めを究め尽くし、
 神の道を理解し尽くせよう。 
 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
 神に向かっているのです。
 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:30, 33, 36

さて、こういった「神の憐れみによって」わたしたちはどう生きればよいでしょうか。遠ざかっていて、神の愛から離れていたわたしたちは、神の憐れみによって、そのみ子イエス・キリストを通してウェルカムされている、いつまでも神につながっているので、どう応えるべきでしょうか。

12章では、パウロが信仰生活のビジョンを描いてくれます。おもに三つの側面があります。

I. オール・オア・ナッシング
まず最初に、弟子であることはオール・オア・ナッシングの問題です。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」12:1

「自分の体」。聖書では、「体」はその人全体、全人格、そして自分が送る人生全体を表す単語です。だから聖書によれば、日曜日と平日の違いはありません。最終的には肉体と魂を分けて考えられません。

わたしたちはクリスチャンとして、自分の一部分だけを神に捧げようとすることはよくあります。自宅を売りつつその中の部屋に「立入禁止」という掲示を貼るような感じです。

キリストが教えてくださった祈りでは「日ごとの糧を今日もお与えください」となっています。それは、神が日常のすべてにご関心をお持ちだからです。わたしたちの人生のあらゆるところが良い知らせの対象となっています。神はわたしたちが自分のすべてを捧げて欲しい。思いも、話し方も、関わり方も、キャリアも、様々な選択も。そうすれば、神はわたしたちのすべてを癒し、祝福してくださるのです。わたしたちが捧げないことは、神は祝福なさらないのです。

エフェソのクリスチャンたちにパウロがこう書きました。わたしたちは「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15

要は、12章の1節でパウロがこういうことを言っていると思います。
「皆さん、神の助けを得てこういうことに頑張って欲しいです。すなわち、皆さんの日常生活――つまり寝て、起きて、食べて、働いて、走り回っている日々を神への供え物として捧げなさい。神に一番喜んでもらえることは、日々の生活の中で神の恵みと神のご計画を受け入れることです」

オール・オア・ナッシング。わたしたちはすべてを神に捧げます。神はすべてを癒し祝福してくださるのです。

II. 戦いであることを覚悟しなさい
それからパウロが言っているのは、信仰生活は戦いであることを覚悟しなさい、ということです。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」12:2

世の中にいながらイエスに従うことは、戦いです。困難と摩擦が必ず伴われます。すべての福音書ではイエスが仰っています。「世があなたがたに対立するなら、その前にわたしに対立していたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18。マタイ10:22、マルコ13:13、ルカ21:17参照)。

摩擦が生じるのは、イエスに従うこと=世のやり方に従わないことだからです。弟子は違う道を歩むのです。視野を狭くしたりヘンテコリンになったりするわけではありません。が、「変わっている人」と思われてしまうことにひるまないことです。みんなと違う選択をすることで理解してもらえないときがある、軽蔑されるときもあることを覚悟することです。み国の価値観は世の価値観とは違います。重なるときもあれば、全く異なるときもあるのです。

この2節でパウロがこういうことを言っているのではないかと思います:
この世の型に押し込められることをやめなさい。何も考えずに、周りの人たちのやっていることに合わせてはいけない。むしろ、神をじっと見詰めなさい。そうすれば、あなたたちはうちから新たにされ、変えられていくのです。神の求めていることは何であるか理解するように努力して、それに積極的に応えなさい。周りの社会はいつもそのいいかげんな生き方に倣わせようとしているけれども、一方、神はあなたのうちにある素晴らしさを引き出し、一人前の人間に仕立ててくださるのです。

これは決して安易なことではないと思います。わたしは、毎朝、着替えながら主の祈りを唱えます。「み国が来ますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と言ってからだいたい30分以内にこの世の型に押し込められてしまいます。我が先で、慌しくて、気を散らされたもう一人に。

だからこそ、毎朝「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」ということをも祈っています。四方八方から悪魔に悩まされてしまうのです。つまずかせようとしています。悪魔はとても機敏で、その人その人にあった誘惑をもたらすのです。人によって甘いものだったり、いけない雑誌だったり、意地の悪い思いだったり、噂話だったり、お金に関する選択だったりして。

しかしながら、21世紀の日本社会に住んでいるわたしたちにとって、共通して気をつけないといけないところがあると思います。クリスチャンとして、わたしたちは流されないように精一杯立ち向かわなければならないと思います。

A. 一つは、子どもに対する態度だと思います。日本は、実施される中絶の数において、世界のトップクラスに入ります。子どもにとって、母親の胎内でさえ安全でないことが多いわけです。

だけど実際にこの世に生れる子どもたちの間でも、お家が安全でないことがいかに多いことでしょうか。この一年間、病院の小児病棟に何人か、親から虐待を受けた子どものケースがありました。一生の体の傷を受けている子もいます。全員、当然心に深い傷を受けています。

このようなニュースは毎週のように耳に入ります。つい昨日、大阪で7歳の子どもがずっと虐待を受け、やがて暴行で殺されたというニュースがありました。残念ながら全く珍しくない話です。

でも報道される話だけではありません。先日、結婚を考えている女性と話していて、殆ど毎日夜12時前に帰ることがない仕事をしながらどうやって子育てができるか、と悩んでいたのです。わたしは「それは無理です」とずばり言いました。それはある種の育児放棄だから、そういう仕事をやめてから子供を考えなさい、と言いました。

少なくとも、彼女は悩んでいました。自分の子のクラスメートの間で、下校して夕方7時、8時、9時まで一人で留守番する子は1人だけではありません。両親は何を考えているでしょうか。借金でもあるかも知れません。もしくは、快適な生活やいい旅行や私立学校のためにお金をためているかも知れません。会社での立場を失いたくないかも知れません。

分からないけれどもいずれにしても子どもの心はどうなるのでしょうか。愛情に包まれている安心感。お父さんとお母さんにとって何よりも大事な存在だという自覚。

今の日本社会においてこそ、クリスチャンの両親だけではなくて、子どもたちとの関わりのある人――つまりわたしたち全員が気をつけないといけません。経済的な余裕、キャリア、自己実現などを子どもよりも大事にする社会に倣ってはいけないのです。

子どもたちは、神からの贈り物です。わたしたちに託されている聖なる責任です。神は特に弱い者、無防備な者に心を配られます。なおさら弱くて無防備な子どもたちはそうです。

B. もう一つ要注意なところは、人間理解です。世の中で、人間の命は、その生産性や役に立つことによって評価されがちです。

何も生産しない、もう役に立たないと思われる人は、では、価値がないのでしょうか。例えばアルツハイマーを患っている人。寝たきりになっている人。知的障害のある人など。こういう人たちは社会から除外されるべきでしょうか。実際にそう訴える人はいます。

生産しない人、「役に立つ」と思われるようなことができない人はどうも「迷惑」とされる傾向は日本に強いと思います。こういう考えをうのみにしている人が緩和ケア病棟に入院すると大変なことになります。当然、生きたいという望みはあります。愛する人とできるだけつながっていたいのです。でも同時に非常に不安。生きることそのものが周りの人に迷惑に過ぎないと感じるからです。生きる価値がないと思ってしまいます。だから鬱っぽく、早く終わりにしたいと嘆いて最期を迎えるのです。

役に立たないと思われる人生をできるだけ早く終わらせる動きはどんどん盛んになっています。今は、ヨーロッパで最も著しくなっていますが、アメリカと日本は同じ方向に進んでいます。

わたしたちは気をつけないといけません。命を粗末にしてはなりません。人間の尊厳は、神にかたどって造られていることにあって、役に立つかどうかとは関係ありません。

III. 素直に自分を見詰める
最後に、パウロは、自分自身を素直に見詰めることを進めています。
「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」12:3

他の人の弱点を探すのが得意であるのは、わたしだけではないはずです。逆に、自分自身の粗削りのところは見逃しやすいです。

皆さんは、人生で今何をしているのでしょうか。どこに向かっているのでしょうか。いつまでも時間があるわけではありません。皆さんは分かりませんが、自分の場合は、なりたい自分、神に望まれている自分と今現在の自分との間のギャップがあることを痛感しています。かなり大きなギャップです。

自分のことで、気づいていない欠点は何でしょうか。神の恵みによって変えていただくべきところは何でしょうか。魂の庭で生えている雑草は何でしょうか。

こういう雑草を見極める、現実的な目で自分を見詰めるスキルは信仰生活に必要不可欠。ここで、昔からの習慣として、毎日の振り返りが非常に役立ちます。5分でもかけて、去った一日を振り返って、神の恵みが働き掛けていたところはどこだったのか、み心に応えていなかったときはいつだったのか。

もっともっと話すべきことがありますが、ここまでにします。パウロは、イエス・キリストに従う人生・信仰生活のビジョンを描いてくれています。このような信仰生活は難しいです。たまには不便で、つらいことがあります。でも、この上ないやりがいがあるので、挑戦してみませんか。

2011年8月26日金曜日

friday afternoon at the crematorium

I had the privilege of accompanying a family to the crematorium this afternoon, after the funeral of their 82 year old mother/grandmother at the chapel. She was a Christian, who died last Tuesday in the hospital.

I always say a final prayer over the body at the entrance to the oven. Then the men with white gloves and limousine driver hats shove the coffin in and close the golden doors and push a button. Then...we wait.

It takes about an hour to thoroughly burn the body of a non-obese adult. There are waiting rooms upstairs at the crematorium. As the priest, I'm always expected to lead the group, which includes maybe 10-20 relatives and close friends. A close family member carries the blown up photograph of the deceased.

The staff always tells us to watch our step on the escalator. Why is that? Does any sighted person actually stumble when getting on to an escalator?

As we enter the waiting room, we are handed a paper o-shibori, I guess because even being around a dead body is icky. Various cakes, chips, rice crackers, as well as bottles of drinks are on small tables around the room. Oolong tea, orange juice, beer. They come around later with pots of hot green tea.

This hour of waiting with the family is different every time. Sometimes, the family is shaken and subdued. Sometimes there's a lot of tears and sniffles. Sometimes they want to tell me about the person who has died. Sometimes they want to talk about anything else. I've had some really fun and interesting conversations at such times. Occasionally, it can be quite jovial and raucous, almost a party.

Once, I even got an acupressure treatment right there at the table.

The worst, though, is when a child has died. Bleak, raw pain, more or less well masked by the formalities of conversation. Once in a while, I get the big questions. Is my baby in heaven? Is he lonely? Why did she die? Will I ever feel all right again?

Today was a little...businesslike. The woman who died was a dedicated wife and mother and then grandmother, who spent her life supporting and caring for her dentist husband and all those around her. Her best friends were her classmates at the girl's high school she attended. They went through the War together, working and sleeping at a factory more often than studying. Three of the ladies were there.

I enjoyed talking with her granddaughter, a first year high-school student and cellist. We swapped orchestra stories. They are practicing every day during the summer, from 10:30 a.m. to 6:30 p.m.

The girl's father and mother were moving around most of the time, making arrangements for the post-cremation dinner and taking care of other business, I guess.

Finally, an announcement tells us it's time to go back down. I'm in the lead again.

We return to the oven, and the men with white gloves pull out the fireproof slab. I'm always surprised at how little volume of bone there is. They transfer it all to a stainless steel box, and take it to another table where there is a ceramic urn with the person's name on it.

Family members pair up and use oversize chopsticks to pick up a bone fragment and put it in the urn. Two people, two pairs of chopsticks, one piece of bone. That's the reason why you can never use chopsticks to pass food directly to another person in Japan. You invite the spectre of death if you do that.

Finally, after using a powerful magnet to suck out all the coffin nails, the main bone packer guy goes through a practiced shpiel about what bones are what. He arranges the skull parts to go on top. He always points out the top spinal vertebrae, which is supposed to look like Buddha sitting lotus position. (Today, he stopped himself and said, "Oh, but you guys are Christian" which was actually a wrong assumption. Besides me and the one going into the urn, I don't think there were any Christians present.)

Sometimes they even put the person's eyeglasses in the urn. If I go to heaven, or the Pure Land, or get reincarnated or what have you, do I really have to keep my physical defects? I want to come back with an Adonis body, serious abs and 20-20 vision.

Then they close up the urn and bow for about the 18th time. And, with urn and photograph in hand, everybody loads up the microbus to go have dinner.

May the souls of the faithful departed, by the mercy of God, rest in peace.

2011年8月24日水曜日

人の悪口

「彼から人の悪口を一度も聞いたことがない。」

先々週、礼拝堂で尊敬すべき年長の聖歌隊メンバーが亡くなった。その葬儀は僕がアメリカにいっている間に行われたので、残念ながら立ち会うことができなかった。

この方は病院のもと職員でもあった。経営管理に関わる立場で、病院の成長に伴うさまざまなトラブルが発生する時代を過ごした。よくそういうトラブルの矢面に立っていたようである。

強い意見を持ちしばしば衝突し合っていた管理者の中にいたはず。決して穏やかな環境ではなかったと思う。

それにも関わらず、先日、亡くなった方の同僚から上記の言葉を耳にした。

そう言われてみると、チャペル委員会(礼拝堂の運営委員会)や聖歌隊の飲み会など、いろいろな場面でこの方と接する機会があったけど、いつもポジティブな話し方をしていたよね、と今になって気づいている。

「人の悪口を一切言わない。」そういうポリシーを徹底できる人はそんなに多くはいないと思う。少なくとも、そう思ってもらえない自分がいる。

ところが、聖書によれば、悪口を言わない人でない限り、神に近寄れない。
 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り
 聖なる山に住むことができるのでしょうか。 
それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
 心には真実の言葉があり 
 舌には中傷をもたない人。
(詩編15編1-3)

まさに、僕はstill a long way off だね。罪深い心が新たにされるのは、いかに時間がかかるか!

2011年7月31日日曜日

わずかなものしかない?さえある?(マタイ14:13-21)

聖霊降臨後第7主日(A年・特定13)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年7月31日・10時30分 聖餐式 


周りを見れば見るほど、人々の深刻なニーズに直面します。

東北の被災地は、言うまでもないことです。職や住まいを失ったり、大事な人を失ったり、未だに先が全く見えてこない人がたくさんいます。

先週、看護大学のボランティアが書いた記事を読みました。おじいさんとおばあさん二人とも足が不自由で、地震のとき、娘さんと一緒に家にいたのです。津波警報がなったら、娘さんは自分の子供のことを心配して、少しでも高いところと思って、お父さんとお母さんをちゃぶ台に上に乗せて子供を向かいに出掛けました。

津波が家に入り込み、おじいさんとおばあさんは天井まで浮き上がりました。いよいよ水が自分たちを越えるのでは、と思ったらやっと水が引いて、ちゃぶ台が再びゆっくりと床に付く。家の中はめちゃくちゃになっていたけれども、二人は助かったのです。

が、娘さんと孫さんはそのまま戻りませんでした。避難所でおばあさんは「自分が死ぬべきだった」と涙ながら話す。おじいさんは足をこっすりながら黙っています。おじいさんとおばあさんの深い悲しみは、どうすれば和らげられるのか。
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先月、虐待を受けた子供たちの保護施設で働いている人に会いました。心が深く傷ついている子供たちは、大人を信頼するには相当時間がかかるのに、施設に入っている期間はごく短い。どうしたら子供たちが立ち直ることに役に立つことができるか、とのことでした。
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先日、もうこれ以上治療が望ましくないと言われて動揺しているあるお母さんの娘と話していました。お母さんは死ぬことに対する恐怖を抱いています。娘さんはクリスチャンで、お母さんにイエスさまにある慰めと希望を何とかして伝えたいけれどもなかなかうまく伝わらない。どうすればお母さんの負担を軽くできるのか。
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先週の日曜日、浅草聖ヨハネ教会に行ってきました。野宿生活をしている人は(女性も若者も含めて)増えているのに、支援活動をする教会やNPOはどんどんやめているようです。
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旦那さんがうつ病になってしまった奥さんと先日会いました。夫にどう接したらいいか、どうやってサポートできるか、自分も倒れてしまうのではないか、と心配しているのですが、なかなか先が見えないのです。
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などなど。これ以外にもたくさんたくさんのニーズが世の中にあります。考えれば考えるほど圧倒されそうになります。これに対して何ができるでしょうか。無力感を覚えます。

イエスの弟子たちも今日のストーリーで圧倒されそうになっていたと思います。一日中、イエスは神の国について教えるとともに、大勢の病人をいやすことによって神の国を目に見える形にして来られました。ある種の重労働だと思われます。

もう、そろそろいいのではないか。もう、お疲れさま。みんな、お腹がペコペコになってきましたので、早く解散して帰らせた方がいいよ、と弟子たちはイエスに提案します。
「そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と(マタイ14:15b-16)

ここでイエスは妙なことを仰います。
「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは戸惑いながら、イエスの命令に従って、わずか5つのパンと2匹の魚で、女性と子どもを入れておよそ1万人の人に給食をする、という話です。

ここで、19世紀の半ばから一つの面白い解釈が出てきました。すなわち、イエスとその弟子たちが自分たちの持っている少しばかりの食べ物を出して、気前よくそれをみんなと分かち合おうとしているのを見た群衆は、自分たちのわがままを恥ずかしく思って、ポケットとか荷物に隠していた食べ物を持ち出してみんなと分かち合うようになった。こうやって全員が少し食べて、そしてその場で盛り上がった雰囲気でお腹がいっぱいに感じた、と。

確かに心温まる、面白い解釈ですね。

ところが、これほど的外れな解釈はありません。

1800年以上にわたりそういう話が一度も出て来なかったのは当然です。間違っている自己流の解釈ですから。まるでイエスをおとなしくしようとしている話に過ぎません。

この「大勢の人に食べ物を与える」という「力の業」は、珍しく4つの福音書のいずれにも出ています。いわゆる「奇跡」で言えば、これと復活の話ぐらいですね。それほど最初のクリスチャンの先輩たちにとってこの話は非常に大事なものだったと推定できます。

彼らにとって大事なのは、大勢の人が感動していきなり優しくなったことではありません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはそういうことにあまり関心がありません。

むしろ、初代教会にとって大事なのはこの「力の業」によってナザレのイエスがどういうお方なのか、垣間見ることができるのだ、ということです。

イエスが病人をいやされたとき、その人たちの本来の元気な姿を取り戻しておられました。そういうことができる人は他にもいました。しかしこの業によっては、イエスは以前存在していなかったものを与えてくださっているのです。

この話の設定によって本当の意味が示唆されているようです。日本語で「人里離れた所」という言葉がありますが、これは「荒れ野」に当たるギリシャ語です(=ヘルモス)。

つまり、40年間神の民がさまよっていた荒れ野と一緒です。そのとき、今日のネヘミヤ書や詩編にあるように、神はずっと彼らに「口からマナを取り上げることなく/渇けば水を与えられた」(ネヘミヤ9:20)

旧約聖書で一貫して言われているのは、神は「罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに溢れる」(ネヘミヤ9:17)。全く同じように「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」(マタイ14:14)

つまり神は、その大きな大きな慈しみに強いられて、荒れ野・人里離れた所で困っていた民にマナ・天のパンを与えずにはいられませんでした。ただ単にそういう神なのですから。

神のみ子であるイエス・キリストも、荒れ野・人里離れた所で困っている人々に食べ物を与えられたわけです。

み子においては、天の父の慈愛が現れるのです。スピリチュアルなこと、信仰に関係することだけではなくて、イエスはわたしたちの食べ物まで、健やかな体まで、日常生活に必要なことまで、関心を寄せてくださるのです。

「わたしたちの糧を、今日もお与えください」とイエスが教えてくださった通りです。
そしてそれらのことを与える力も、み子において現れるのです。これがこの話のポイントです。イエスは励みの存在だけではなくて、必要なことを与え得る力をお持ちの方でもあります。

しかも、イエスは弟子たちを通して与えることをお選びになるのです。弟子たちは、わずかな食べ物しか持っていないけれども、君たちがそれを分け与えなさい、とイエスが命じられるのです。そうすると、イエスの言うことに従って実際に動き出す弟子たちを通して、イエスが必要なものを与えられるのです。
+   +   +
わたしたちは無力感で立ち止まるとき、もう疲れて、余裕がない、わたしには何ができるかと叫びたいときに、イエスは「君たちが彼らに食べる物を与えなさい」とわたしたちにも仰るのです。
  • 少しでも、あなたが被災者への支援に協力しなさい。
  • わずかの間でも、あなたがこの子供たちをトコトン可愛がってあげなさい。
  • 死を怖がっているおかあさんに、あなたは自分が抱いている望みを語ってあげなさい。
  • ホームレスの問題を知ったあなたが、それを心に留めておきなさい。
  • 落ち込んでいる旦那さんのそばに、あなたが黙っていてでも、居続けなさい、と
などなど。

「でもこれしかできない!」と言うのをやめましょう。それは、自分の目で物事を見ているからそう思っているだけです。イエスの目で物事を見れば、「ほら、これさえあれば!」

あるものから、持っているものから、できることからやりなさい、とイエスは仰います。わずかなものでも、それをイエスに捧げれば、その豊かな恵みが付け加えられて世の中に流れ出るのです。

神の国でことを評価する基準は、大きい小さいとか、多い少ないとかではありません。神を信じて、神が求めておられることにできるだけ応えようとするかどうか、とうことで評価されるのです。

そしてイエスは、弟子たちを通して食べ物を与えられたのを忘れないでいただきたいです。
「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。」(マタイ14:19)

イエスの慈しみ深い働きに加わるようにと、わたしたちも召されています。とりあえず、この聖餐式でイエスが与えてくださるパンを食べ、少し元気出して、協力してみませんか。

2011年7月26日火曜日

where we can encounter Jesus (Matt 25:31-46)

Evening Prayer at St. Luke's Chapel, July 21, 2011 (translated from Japanese)

Joshua challenges us to "choose this day whom you will serve"—either the true, living God or everything else that we take to be gods. Take your pick, he says.

Well, to jump to the end of a long and dynamic sermon, you should choose to serve God. Because God is the One who made you and loves you and can give you abundant life. And all the other gods, in the end, give you absolutely nothing.

But that's not where I want to go this evening. I'd like to simply take as given that choosing to serve God is a good thing, in fact, the most important thing we can do with our lives. More specifically, serving Jesus is the most important thing we can do with our lives, because Jesus is the face of the God who loves us.

But I want to think about the question, How? How do we serve Jesus? Do we sacrifice virgins? Do we go on jihad? Do we put little sake jars in front of our Jesus shrine? Do we throw a big wad of cash in the offertory box?

Well, Jesus tells us how to serve Him:
"Truly, I say to you, as you did it to one of the least of my brothers, you did it to me." (Matt 25:40)

So we serve Jesus by serving those who need our help.

Incidentally, this is one of the things the 19th century German philosopher Nietzsche hated about Christianity: Its sentimental attempt to serve the least, the last, and the lost. In a world where the fittest survive, Nietzsche thought, Christians actually go against nature by showing compassion to the "losers," the weak and those who are made weak in society.

Well, few people have the cajones to say it as clearly, or the intellect to say it as forcefully as Nietzsche, but certainly the spirit of Nietzsche is alive and well in, say, the hearts of government bureaucracies.

Last week, I visited a free clinic down in Sanya (an area along the Sumida River near Minami Senju). I spent the morning at the clinic and the afternoon delivering food to the guys who live in blue-sheet tents along the river.

Currently, there are less than two dozen tents out there. There used to be about 300. When I asked why the decline, they told me "it's because Tokyo Sky Tree got built, and you can see the tents from the observation deck."

So I guess if you can't see it, it's not there. Only civil servants and toddlers think that way.

But I don't want to pick on apparatchiks. Nietzsche was simply giving expression to something that actually lies in every human heart: a basic lack of interest in the plight of my neighbor.

From time to time, this lack of interest changes into outright hatred. Usually that happens when the plight of my neighbor starts to impinge on my life.

Just this morning, I was at Asakusa St. John's (a church which runs a Sunday food bank operation). Today, they distributed over 600 hundred rice lunches. They started at 9:30 and ended at 9:50. Just about 20 minutes.

There were heaps of volunteers there to make absolutely sure that there is no littering, no loitering, no wandering around, no urinating, no sleeping. The men (and a few women) are led from a major avenue to the church, and back to a major avenue again.

But even all of that is not enough, of course. Some of the neighbors are outraged at the simple fact that these homeless men so much as enter their airspace. The only thing that will satisfy the neighbors is to go back to their former state of total disinterest as soon as possible.

Well, Nietzsche would be very proud of that neighborhood! Jesus, maybe not so much.

I think, as followers of Jesus, as the mind of Christ (1 Cor 2:16) grows within us by the power of the Holy Spirit, we gradually tend to turn our eyes to the poor and the weak, just as Jesus did.

At first, our compassion might be simple obedience to Jesus' command to "love your neighbor." But then I think, by the outworking of grace, we actually begin to love the people Jesus loves, little by little.

Furthermore, what we find in the act of serving those who need our help, is that in some mysterious way we are encountering Jesus himself:
"For I was hungry and you gave me something to eat, I was thirsty and you gave me something to drink, I was a stranger and you invited me in, I needed clothes and you clothed me, I was sick and you looked after me, I was in prison and you came to visit me." (Matt 25:35-36)

When I was in seminary in the States, one of my teachers was a former Benedictine monk and priest. Fr. Dyer served for a short period of time with the Sisters of Charity in Calcutta. He used to talk about that experience in class.

One day, Fr. Dyer was sent out with a Sister who was a former doctor, to take care of people who had fallen by the roadside. They met all sorts of people, but that day a man with advanced leprosy saw Fr. Dyer's collar and began to implore him: "Father, lay hands on me and pray for me!"

The man's disease was pretty advanced. His nose and ears were gone, and his head was covered with boils and scales. Fr. Dyer panicked, worrying about contracting leprosy. He asked the Sister for advice. "Sister, what should I do? Is it okay to touch him?"

The Sister responded calmly: "What would Jesus do?"

"No, Sister," Fr. Dyer said, "I'm asking your medical opinion."

"Out here, I'm not a doctor. I'm a sister. And what do you think Jesus would do?"

Knowing what the answer was, Fr. Dyer swallowed his uneasiness and put his trembling hands on the man's blistered head and began praying.

As soon as he touched the man, Fr. Dyer said he felt an overwhelming warmth. And the face of the man in front of him began to shine. And Fr. Dyer had the strong sense that he was actually touching Jesus Christ.

In that moment, Fr. Dyer said he felt the presence of Jesus more powerfully than anything he had ever felt before or since.

I think that's an amazing story. I also think that not many of us will ever have such a clear experience of grace like that. But I do believe that there is something going on when we reach out in service to those who need help.

I felt that in my trip to Sanya last week. I can't really explain the feeling. I felt happy simply to be there, with the homeless guys, breathing the same air.

I think Christ is somehow present when we serve those who need help. It has nothing to do with whether or not the other person is holy or innocent. It's just that Jesus is somehow present with them. Just as during His ministry in Israel, Jesus is most at home with those who have the most need of God.

So if you want to encounter Jesus, we know at least two places He is sure to be. One is among those who are weak and small. And the other is in the Eucharist, where Jesus becomes weak and small for our sakes.

Let us go to meet Jesus in both places as often as we can. To those that do, Jesus promises that they ARE already blessed now and WILL BE blessed forever, in the kingdom of our heavenly Father.

イエスに出会える場所(マタイ25:31-46)

聖路加チャペル 夕の礼拝 2011年7月24日

今日、モーセの後継者だったヨシュアがわたしたちに挑戦を挑んでいます(ヨシュア記24:15)。
「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」

つまり、まことの生けるの神に仕えるのか、神らしいのだと思ってしまう「その他」のものに仕えるのか、どちらか、ということです。

長い、とてもダイナミックな説教の結論から言うと、まことの生ける神に仕えた方がいい、ということです。なぜかと言うと、神のみがわたしたちを造り、トコトン愛してくださり、豊かな命を与えてくださることがおできになるからです。他のいわゆる「神々」は、最終的には、何も与えてくれないのです。

でも今夜はそういう話をするつもりはありません。神に仕えることが良いことだと、当然の前提として受け止めさせていただきたいです。「良いこと」どころか、人生の中で神に仕えること以上、大事なことはないという風にしておきたいと思います。

とりわけ、クリスチャンとして、わたしたちをトコトン愛してくださる神の顔であるイエス・キリストに仕えることは、最も大事なことだ、としておきたいです。

今日考えたいのは、どうやって?どうやってイエスに仕えることができるのか、という問題です。祭壇の上に処女を生け贄としてささげべきか?ジハードを実行すべきか?イエス像の前に小さいOne Cup酒のビンを置くべきか?賽銭箱に札束を投げ落とすべきか?

イエスはその仕え方を教えてくださいます:
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

イエスに仕えるには、わたしたちの助けを必要としている人に仕えるのだ、と。

ちなみに、19世紀ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、この点で(も)キリスト教が大嫌いでした。つまり、小さな者、社会的に追いやられている者、迷っている者に仕えるというセンチメンタルな思いがある、という点で教会が嫌いでした。

つまり、弱肉強食の世の中ですから、クリスチャンがいわゆる「負け組み」、社会的に小さくされている人に憐れみの目を向けることが不自然なことだと考えていたようです。

そこまで大胆に言える勇気があるのは、ニーチェぐらいだと思います。だが、ニーチェの精神は十分鼓舞されていると思います。例えば、お役所や国の予算を決める政治家の間で。

先週、山谷(南千住当たりの隅田川地区)にある無料クリニックを見学しに行きました。午前中はクリニックを見学し、午後は求職活動に参加させていただきました。隅田川沿いのブルーシーツのテントに回りました。

今、20軒はないと思いますが、前はあの辺で300軒のテントがあったそうです。何でこんなに少なくなってきたかと聞くと、「東京スカイツリーができたから。上から見れるので」と言われました。

見えないからいないって思うのは、幼子と日本のお役所ぐらいですね。

でも局員たちだけをいびるつもりはありません。ニーチェは、実はすべての人の心に潜んでいる思いを言葉にしてくれただけだと思います。それは、隣り人の窮状への根本的な無関心。

たまには、この根本的な無関心が怒りに変わることもあります。それは、隣り人の窮状がわたしの生活にインパクトを与えるときです。

今朝、(日曜求職活動をやっている)浅草聖ヨハネ教会に行ってきました。今日、炊き出しを600食以上が配られました。9:30に開始し、9:50で終わりました。わずか20分前後です。

たくさんたくさんのボランティアが手伝っているので、ゴミを捨てることも、立ち止まることも、ブラブラすることも、立ちしょんすることも、寝込むこともないように徹底的に管理しています。おじさんたち(おばさんもいますが)は大通りから誘導され、また大通りまで誘導されます。近所にいる時間はわずか30分弱。

それにも関わらず、近所のある人々は満足しないのですね。要は、野宿生活をしている人がその辺の道に足を踏み入れることそのものに大して大怒りです。近所の人々は、以前の無関心であれる状態に一刻も早く戻りたいわけです。

ニーチェは、その近所を誇りに思うでしょう。イエスは、どうでしょう。

わたしたちはイエスに従う者として、「キリストの思い」(Ⅰコリント2:16)がわたしたちのうちに深まるにつれて、少しずつ貧しい人、弱っている人に自然に目を向けるようになると思います。イエスと同じように。

最初は、イエスの命令に従うことから始まるかも「隣人を自分のように愛しなさい」。しかしそれから、恵みの働き掛けによって、イエスが愛してくださる人々をわたしたちも少しずつ愛せるようになると思います。

そして、わたしたちの助けを必要としている人に仕える中で、不思議なことですが、そこでイエスご自身に出会っていることに気づくこともあります。
「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25:35-36)

わたしがアメリカの神学校の教師の一人は、ベネディクト会神父。ダイヤー神父は、カルカッタにあるマザーテレサの「神の愛の宣教者会」に短期的に派遣されたことがあります。授業でその話をしてくれました。

ある日、元医者だった一人の修道女に同伴して、道端で倒れている人たちの世話をするために町に出かけました。色々な人がいますが、その日あるハンセン病にかかっている男性に出会いました。その人はダイヤー神父を見ると(カラーをしているから司祭だと分かって)「神父さま!手を置いて祈ってください!」としきりに求めます。

その人の病状がかなり進んでいて、鼻も耳もなく、頭が水疱やウロコのようなもので覆われているのです。ダイヤー神父はプチパニックを起こします。「シスター!どうしたらいいのですか。触って大丈夫ですか。」

シスターは冷静に答えます。「イエスさまなら何をなさるかしら」と。

ダイヤー神父「シスター、違います。修道女じゃなくて、医者としての意見を聞いてるのです!」と。

シスターは執念深く「ここでは、わたしは医者ではなくて、修道女です。イエスさまなら何をなさるかと思いますか。」

神父は答えが分かったので、不安を抑えて、震えながらハンセン病患者に両手を置き、祈り出します。

すると、突如手で著しい温もりを感じるのです。そして、目の前の人はあたかも幻のように顔が輝き出します。そして神父は強烈な実感をしました。「わたしが触れているのはイエスさまご自身ではないか!」と。

その瞬間、かつてもそれ以来もないほどに、イエスの身近な存在を全身で感じ取った、とダイヤー神父は夢見るような目つきをしてよく語ってくれました。

不思議で素晴らしい体験だと思いますが、普段そのようなはっきりした恵みの経験はないと思います。でも、わたしたちの助けを必要としている人に仕えるとき、やはり不思議な何かがあると思うのです。

先週、その山谷にいたとき、そう感じました。あまり言葉にできないけれども、単純にその場にいて、野宿生活を送っているおじさんたちと共にいて、同じ空気を吸うだけで、なんか幸せになるのですね。

わたしたちの助けを必要としている人に仕えるとき、不思議な形でイエスもそこに臨んでくださると思います。相手が純粋だとか、いい人だとか、関係なく、ただ単にイエスも付き合ってくださるのだと思います。地上の働きのときと一緒。神の助けを最も必要としている人たちの近くにいるのが、イエスの心地よい場所となっていたのです。

だから、イエスに出会いたかったら、その確かな居場所は二つが分かります。一つは、小さい人、弱い人のうちに。そしてもう一つは、わたしたちのためにイエスご自身が小さく、弱くなってくださる聖餐・ご聖体のうちにです。

両方の「場所」に、たびたびイエスさまに会いに行きましょう。そうする人に、イエスは約束してくださいます。すでに祝福されていること。そして、永遠の祝福を受けること。

2011年7月19日火曜日

Having Ears to Hear (Matt 13:24-30, 36-43)

[Fifth Sunday after Pentecost, Year A, Proper 11--translated from Japanese
 St. Luke's International Hospital Chapel July 17, 2011– 10:30 a.m. Holy Eucharist
I'm feeling the need to speak more about a Christian worldview, the background against which the Good News can really be seen as good. I also knew there would be first-time visitors at this service, a hospital employee and her daughter.]


"He who has ears, let him hear" (Matt 13:43).

That's an odd thing to say. I mean, who DOESN'T have ears? Well, I know of at least one example: My children. And never more than when the TV's on. "Time for dinner!" You can say it several times, but to no effect. No ears! Might as well be talking to a rock.

"He who has ears, let him hear."

Jesus is so desperate for us to hear and understand what He's saying. In today's reading He talks about sowers, and wheat and false wheat. What we learned last week was that Jesus Himself is the sower of the "good seed," the wheat, and the good seeds He sows are His words, His message about "the Kingdom of God"—or, you could also say, people who have accepted Jesus' message about the Kingdom.

"He who has ears, let him hear." Jesus is pleading with us to grasp the meaning of His message about the Kingdom of God—it's basically all He ever talks about. All His works of healing point to it.

And what is this "Kingdom of God," anyway? It's not a place on a map, not a political organization. I think the Kingdom of God is the heart of God lived out through human lives. The Kingdom of God is what God desires to have happen.

And what does God desire? He desires for us human beings to be happy. Is that surprising? That the Creator of the Universe would want us to be happy?

Well, it's true. God wants us to be happy. That's exactly why He made us. God certainly didn't need to make humankind. He was perfectly happy without us.

But God did create us because He wanted to shower His love on us. And because God loves us, He wants us to be happy. Don't you want the people you love to be happy? Some people say the definition of love is, in fact, to desire the other person's happiness.

And God has shown us the way to be happy. Happiness in the Kingdom is born out of responding to the love of God, offering back to God our praise and thanksgiving. Happiness is born when we serve our neighbors. Happiness comes when we give of ourselves: "It is more blessed to give than to receive," Jesus taught (Acts 20:35).

Our hearts are truly filled when they are open to God, to the abundant life He wants to give us, and open to others.

Jesus says this is what it means to be truly human. And He calls this condition the Kingdom of God. He wants us to hear and understand what He says about it.
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The problem is, there is another kind of message. It's all around us. If Jesus speaking His message about the Kingdom of God is like a sower sowing good seeds, wheat, He also tells us there is an enemy sowing "false wheat" (darnel) in the same field.

False wheat is a kind of plant that bears a close resemblance to wheat. Until the ear appears, that is. When that happens, the wheat ears are heavy, so the wheat bends down, while the false wheat still stands up straight. At that point, separation is easy.

But who is this enemy, and what is the message he is sowing? In the biblical sense, an enemy is someone who works against you, who seeks to undo your achievements and drive you into destruction.

Jesus commands us to love our personal enemies—can you imagine anything harder? To "desire the happiness" of people who seek our harm? No way! Yet that's what Jesus commands!

But Jesus tells us to be aware that there is an enemy who is also sowing seeds, also sowing a message which is different from the message about the Kingdom of God. This is God's enemy, the devil who opposes God's work, who seeks to undo and distort what God has made, that ultimately seek to destroy everything good.

The enemy's power is limited. He can't uproot the wheat. All he can do is sow bad seed right in the middle of the good. All he can do is try to spread another message, an attractive and ultimately dangerous message.

I recently read a news article about a blowhole in Hawaii. A blowhole is where many years of waves have formed a cave underneath the coastal rocks, and there's a hole on the surface. When a big wave comes in, the pressure blows sea water through the hole, high up into the air—sometimes as high as 30 meters.

There was a man who was vacationing in Hawaii with his friends. He went close to the blowhole. Someone told him not to get too close, it was dangerous. But his friends said it would be fun to try to get sprayed by the sea water coming up out of the hole.

Two messages. One negative, like a constraint, "don't." The other seemed to be fun. Exciting. Thrilling.

Unfortunately, the man got too close to the hole. A big wave came in and he lost his footing. He fell into the blow hole. And that was the last anybody ever saw of him.
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There is a kind of message that is sown in the world. Just like the false wheat bears a resemblance to real wheat, this message promises a kind of happiness that looks like real happiness but isn't.

This message goes something like this. The reason you were born into this world is not because God loves you and wanted to create you, you just happened. A coincidence. The natural chain of life.

And so, you need to take care of yourself. You need to think about yourself, look out for your own interests. Nobody else will.

There are "winners" and "losers" in the world. Make sure you're one of the "winners."

And you make your own happiness. Happiness comes from being completely free. Free from constraints, free from the expectations of others, free to choose whatever you want.

Being poor limits your freedom. So you should have as much money as possible. Then you can fill your life with whatever pleases you. The house you want. The things you want. The vacations you want. The relationships you want. Pet. Baby. Career. Spouse.

You can have all these things. Or none of them, if you prefer. You're free to choose. Happiness is born out of this freedom. To "be myself" is the highest good, the way to happiness.
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Sounds good, right? Really appealing.

The problem is, from beginning to end, it's a lie. And it's dangerous. A life of total freedom, a life centered around me and what I want, is a life that inevitably leads--not to happiness--but to emptiness and loneliness and despair.

It may not seem that way right away. I mean, would the TV, magazines, movies really keep telling that lie over and over again?

Plus, there is indeed a kind of sense of satisfaction that comes from living for yourself. But the sense of satisfaction is fleeting. You can never have enough. And one day, you wake up and find your life is false wheat and not wheat. You aren't bearing fruit. You aren't contributing to the world.

And what's more, you aren't even really happy.

Japan is one of the freest countries in the world. In Japan, you can live as you please, buy what you want, more or less be who you want. As a nation, Japan ranks third in terms of GDP--and 90th in terms of Gross National Happiness.

And Japan boasts one of the highest suicide rates in the world, especially among young people.
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The good news is that Jesus is telling us this parable so that we can stop listening to the enemy's deceiving message, and start responding to the message that leads to real joy.

It's never too late to come to your senses. There is always the possibility of turning our hearts back toward God.

Jesus taught and did all that He taught and did so that we could avoid falling into the blowhole of a self-centered life. Jesus said He came to "seek and save the lost" (Luke 19:10) and so that we could have "life, and have it abudantly" (John 10:10).

"He who has ears, let him hear."

That is why we listen to the words of Jesus, and the words about Jesus, and all the words of God in the Bible. And that's why we even listen to long sermons!

And that is why we stop listening to the enemy.

Let us do all those things. And let us ask God to increase the wheat in our own hearts, and weed out the false wheat. Let us pray to God to show us the way to true happiness.

聞く耳を持つこと(マタイ13:24-30, 36-43)

[聖霊降臨後第5主日(A年・特定11)
 聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂・聖餐式]


「耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:43)

変な言い方ですね。耳を持っていない人は、果たしているのでしょうか。まあ、一つの事例を思い浮かびます。自分の子供たち。

特にテレビが付いているとき。「もうご飯だよ!」何回も言っても、全然通じないのですね。石に話しかけていると一緒。(笑)

「耳のある者は聞きなさい」

イエス様は伝えようと苦心しておられることを聞いて分かって欲しいのですね。今日の福音書では、先週と同じように、種を蒔く人の話があります。先週わたしたちが学んだのは、イエスご自身が「良い種[つまり麦]を蒔く者」であって、その蒔かれる種はイエス様のお言葉である、「天の国・神の国」に関するメッセージである、ということです。あるいは、神の国に関するイエスのメッセージを受け入れる人たちが麦であるとも言っているような感じです。

「耳のある者は聞きなさい」――どうしてもこの神の国の意味を理解してもらいたいのですね。イエスは殆ど神の国ばかりの話をなさいます。いやしの業などすべての奇跡もこの神の国を示しています。

さあ、この「神の国」とは何なのでしょう。神の国は、地図に載せる場所でも、政治的な組織でもありません。むしろ、人々の人生を通して現される神のみ心だと言ってもいいと思います。神の国は神が望んでいらっしゃること、神の実現して欲しいことです。

さて、神が望んでいらっしゃることは何でしょう?それは、人間が幸せであることです。信じられますか?宇宙の創造主である神は、わたしたちが幸せであって欲しいって。

でも本当にそうなんです。神はわたしたちが幸せであって欲しいのです。

そのためにわたしたちを造ってくださったわけです。別に造る必要は全くなかったのです。人類がなくても神は完全に満足しておられたお方なのです。

でも確かに神は人間をお造りになりました。それは、ご自分の愛をわたしたちに注ぐためでした。そして神がわたしたちを愛してくださるからこそ、幸せであって欲しいのです。皆さんも、愛する人が幸せであって欲しでしょう?ある人によれば、それが愛の定義になると言うのです。愛は「相手の幸せを望むこと」と言います。

しかも、神はわたしたちに幸せへの道をお示しくださっています。神の国での幸せは、神の愛に応えることから、ちょっとしたお返しとして賛美と感謝を捧げることから生れます。隣にいる人たちに仕えることから、持ち物を人と分かち合うことから生れるのです。「受けるよりは与える方が幸いである」とイエスが教えてくださった通りです。

実に満たされる心は、神に開かれた心、神が与えようとしている命に、そして他人に開かれた心である、と。

イエスによれば、これは本当の人間らしさだと仰るのです。この人間らしい状況を神の国と呼ばれるのです。そういう神の国のことについてどうしても聞いて欲しいのです。
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問題は、これとは違うメッセージがある、ということです。四方から耳に入るメッセージなのです。もし良い種を蒔く者は、神の国を語れるイエスだとしたら、同時に毒麦の種を蒔く「敵」もいる、とイエスが警告してくださいます。

毒麦という植物は、本当の麦に非常に似ています。穂になるときまで極めて見分けづらいです。穂になったら、麦の穂が重いから、「実るほど頭を垂れる」ということです。その時点で、本当の麦と毒麦を分けやすくなるのです。

さてこの「敵」は、そしてそのメッセージは何なのでしょうか。聖書がいう「敵」とは、自分に対立する人、自分の成果を台無しにしようとする人、自分を破滅へと追いやろうとする人、という意味になります。

イエスは、その弟子たちに「敵を愛せよ」と命じられました。極めて難しいことだと思います。つまり、わたしの不幸を目指している人の幸せを望むなんて。でもわたしちはそのようにイエスに命じられているのが、間違いないです!

でも、そういう人間の敵ではなくて、違う敵がいる、とイエスが教えてくださっています。違う種を蒔く=神の国と違うメッセージを広めている敵です。「悪魔」とも呼ばれるこの神の敵は、神の働きに対立して、神が造られたことをすべて台無しに、すべての良いことを堕落させたり、滅ぼしたりしようとしている敵だと仰るのです。

ところが、幸いなことに、この敵の力には限りがあります。麦を根こそぎにできません。ただ、麦のただ中に悪い種を蒔くことしかできないのです。別のメッセージを広めます。魅力のある、でも最終的には危険なメッセージをせっせと広めています。
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先週、ハワイの観光スポットの一つである潮吹穴(しおふきあな)についての記事を読みました。潮吹穴とは、海岸で、年月を経て岩の下に洞窟ができる、そしてその洞窟が地上にもつながっている、という自然現象です。大きな波が打ち寄せると、波の圧力に押されて海水が地上に高く吹き出します。30メートルにも高く上るときもあるそうです。

ある男性が友人とハワイで観光していたのですが、その潮吹穴に近づこうとしました。その辺の人何人かに「危ないよ」と言われたようですが、友だちに促された、すぐそばまで近づきました。吹き出してくる海水を浴びるのが目的だったそうです。

つまり、二つのメッセージがあってわけです。一つのメッセージはつまらない。束縛に感じる。「しないで。」もう一つのメッセージは楽しそう。スリルがある。魅力的でした。

残念ながら、ちょうどそのときに大きな波が打ち寄せて、その人は足を踏み外して潮吹穴に落ちてしまいました。その後、彼の姿を見た者はいません。
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あるインチキのメッセージがよの中に広まっています。毒麦が本当の麦に似ていると同じように、このインチキのメッセージは幸せに見えるものを約束しますけれども、実は幸せにつながらないのです。

次のようなメッセージです。あなたはこの世に生を受けたのは、神さまに愛され、神さまはわけがあって造ってくださったのではなくて、ただ生命の自然の流れの中で起こったことだ、と。偶然だ、と。

だから、自分のことを守らなければならない。自分の力で自立しなければならない。自分の利益を考えないといけない。他にそうしてくれる人はいないからだ、と。

世の中には「勝ち組」と「負け組み」があります。「勝ち組」に入るように努力しなさい。

そして自分で、自分の幸せを作るのだ、と。幸せは、自由から生れるものである、と。あらゆる束縛から、他者のあらゆる期待から自由になって、好きな人生を選ぶことに幸せを見出すのだ、と。

お金がないと、自由は限られてしまうので、できるだけお金があった方がいい。お金があれば、好きなことで人生を充実させることができる。好きな住まい。好きなもの。好きな旅行。好きな人間関係。ペット。赤ちゃん。キャリア。結婚。

これらすべて手に入れることができる。すべて捨てることもできる。あなた次第である。幸せはこのような自由の中であなたを待ち受けている。このように「自分らしく生きる」ことは、何よりもえらいことであって、幸せにつながる生き方である。
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いいね。魅力を感じません?唯一の問題は、最初から最後まで嘘なのです。しかも危険な嘘です。全くの自由を追い求める人生、自分のことを中心とした人生は、むなしさ、孤独、絶望につながる人生なのです。

最初はそう見えないかもしれません。テレビ、雑誌、映画は延々とそんな嘘をつくなんて、あり得るでしょうか。しかも、自分の都合のいいように生きることから、確かにある種の満足感が得られます。

でもその満足感は、一時的なものに過ぎません。どんなにいっぱいあっても足りません。そしてある日目覚めて、自分の人生は麦ではなくて毒麦だということに気きます。いい実を結んでいないことに。世の中に何を貢献しているのか。しかも、幸せだとは言えない。

日本は、世界の最も自由な国の一つです。この国では、好きな暮らしをしてもいい。好きなものを買ってもいい。ある程度、好きな「自分」を決めてもいい。日本は、国内総生産(GDP)では2位か3位になっています。しかし、国民総幸福量では、90位です。自殺率では世界トップファイブに入る、特に若者の年齢層で。
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イエスがこのたとえ話を語ってくださっている最も重要な意味は、敵が広めているインチキのメッセージに耳を塞いで、本当の幸せにつながるメッセージに耳を澄まして聞くことができる、ということです。まだ間に合います。

目覚めるのにまだ遅くない、ということです。神に心を向け直すチャンスはまだあります。イエスが教えた、なさったすべてのことは、わたしたちが自己本位の生き方という潮吹穴に陥らないためでした。イエスは「失われたものを捜して救うために」(ルカ19:10)、そしてわたしたちが「豊かな命を受けるために」来られた、とご本人が言われたのです。

「耳のある者は聞きなさい」。

だからわたしたちはイエスの言葉に、イエスについての言葉に、そして聖書全体にある神のみ言葉に耳を傾けます。長い説教にも耳を傾けます!敵のメッセージに耳を塞ぎます。そうしましょう。

そして、自分自身の心の中にある麦を増やして、毒麦を根こそぎにしていただけるように求めましょう。本当の幸せへの道を示してくださるように祈りましょう。

2011年7月13日水曜日

強く、雄々しくあれ(ヨシュア1章)

(2011年7月10日 夕の礼拝の話)

先ほど読んだ聖書では、ヨシュアという人のいわゆる「任命式」の場面がありました。

ヨシュアとはだれか。簡単に言いますと、モーセの右腕で、そしてモーセが亡くなってからその後継者になった人です。

神がイスラエル人をエジプトから導き出したときから、ヨシュアはずっとモーセと一緒にいました。律法を授かるためにモーセがシナイ山に登ったとき、ヨシュアも途中まで登りました。

そしてついにモーセが亡くなったら、ヨシュアが神の民を約束された土地(カナン地方)に導く人として神に選ばれたのです。

その「任命式」での神がヨシュアに語る言葉は:
  強く、雄々しくあれ(ヨシュア1:6)

(この「任命式」で4回出て来る言葉です。)

強く、雄々しくあれ――かっこいい言葉なんですが、わたしたちにとってどう関係しているのでしょうか。わたしたちはそれをどう受け止めればいいでしょうか。

ここで神がヨシュアに超人的な努力を促していると思ったら、大間違いです!

神は、わたしたち人間に自分たちの力だけで強く、しっかり頑張るようなことを求めはなさらないのです。そういう意味での強さは、むしろ、世の中で通用する意味になります。世の中で高く評価される強さです。「勝ち組」の強さ、弱肉強食、「勝てば官軍」の強さです。

自力でしっかり自分を守り、すべての難関を克服しちゃえ!――それは世の中が促すことであって、神が求められることではありません。

違います。神がわたしたちに促されるのは、自分たちの力を発揮するのではなくて、神に信頼をしっかり置くことです。忠実に神の導きに従うこと。それが本当の強さ。
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ヨシュアは神を絶対的に信頼した人です。

モースが偵察隊をカナン地方に送り込んだとき、ヨシュアもその一人でした。その地域に住んでいる人たちはどんなものか、調べて来い!」と。

偵察隊が戻ったら、「絶対無理!敵は強すぎる!だめだ!」と報告しました。

でもヨシュアは違います。ヨシュア(と仲間のカレブ)は:「大丈夫だよ!成功できる!神は、わたしたちに住む場所を約束なさったから、間違えなくその約束を守ってくださる!戦いに行こう!主はわたしたちと共に戦ってくださるんだ!」と言いました。

でも結局ヨシュアたちの話は無視されたのです。ほかのスパイたちの報告を聞いて、イスラエル人は神とその約束を疑ったゆえに、40年間、民全体が砂漠でさまようことになってしまいました。つまり、神を信頼しない者は約束の土地に入らせてもらえなかったのです。

残念な結果として、せっかくエジプトから救い出され、葦の海を歩いて渡ることができた時代のイスラエル人は、一人も約束の土地に住み着くことが許されなかったのです。

ヨシュアとカレブ以外。ヨシュアとカレブだけが神の約束、神の摂理を信じたから、約束の土地に入ることができました。新しい時代(砂漠で生まれたイスラエル人)を指導するにふさわしい者と見なされたのです。
+   +   +
実はヨシュアは、その名前がモーセによって変えられました。元の名前は「ホシェア」(神が救いたまえ=要求)でした。モーセはそれをヨシュア(神はわが救いなり=宣言)に変えました。

それは、将来、ヨシュアが得られる勝利はすべて、神によるものであることを明らかに示すため。神が変わりに戦ってくださることを。

そして実際に、ヨシュアがイスラエルの民を約束の土地に導くとき、より強い、より数の多い敵と何度も出会いますが、必ずイスラエルは敵をしのぎ、勝利を手に入れるのです。神のお陰で。神が戦ってくだされば、勝ち抜くことはできるのです。

わたしたちも神に戦ってもらえば――戦争とかではなくて、人生の中で巡り合う様々な困難、誘惑、挫折など、そういうときに神の力を頼りにすれば、神の偉大な力にわたしたちの小さな努力、わたしたちの微力を加えれば、素晴らしいことが起こる、ということ。不思議なこと。大きな恵みが与えらるのだ、と。

キリストは聖パウロに仰いました:
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
そしてパウロは言います:
「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう...わたしは弱いときにこそ強いのです。」(Ⅱコリント12:9,10)
また、パウロが:
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)

だから、わたしたちが十分強ければとか、自分の力・努力を頼りにするとか、自分の才能、頭のよさ、運のよさを頼りにするのではなくて、神をしっかり信頼することが大事です。神の恵みを頼りにするべきです。

ヨシュアへの約束はわたしたちへの約束でもあります。すなわち、巡り合うどんな苦難でもそれに乗り切れる力が与えられるか、それに耐え忍ぶ力が与えられるか、どちらかということです。

どちらにしても、神は共にいてくださる、ということです。それが約束なのです。

結局は、何があっても神は共にいてくださるのです。わたしたちを見放すことも、見捨てることもない。(ヨシュア1:5)

だからこそ「強く、雄々しく」やっていけるのです。
+   +   +
最後にもう一つ。神が「共にいる」とヨシュアに仰るけれども、その「共にいる」一つの大きな方法は、律法を通してです。

ヨシュアは、示されたみ言葉をよく読み、み言葉について黙想して、そしてみ言葉で示されたことに聞き従うことによって、神に近寄り、神のみ心を知ることができたのです。

要は、神がその民と共にいる器として、この聖書のみ言葉がある。これを通して、わたしたちと神との触れ合いが実現できるわけです。

わたしたちも、ヨシュアと同じように、聖書をみ言葉として敬い、感謝をもってこれを受け入れるなら、これを読み、これについて黙想し、この中に示されていることに沿って生きるなら、神に近寄ることができるのです。

神がわたしたち一人一人にしてくださっている素晴らしい約束も分かるのです。

さらに、神のみ心、その性格を知ることができます。神は何があっても常に信頼できる方で、約束を必ず守ってくださる方で、わたしたちを見放すことも、見捨てることもない方であること。

独りのみ子――ヘブライ語でヨシュア、ギリシャ語でイエス――神はわが救いなり――と呼ばれるみ子をお与えになったほどに、わたしたちをトコトン愛してくださる方です。

神は、このみ子によって、罪と苦難と死そのものに対する勝利をわたしたちに与えてくださるのです。

2011年7月12日火曜日

暇になることの恐ろしさ

(2011年7月6日の聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂の「夕の祈り」オルガンコンサートでの話。出席者の大半は教会に通う人ではない。30分のオルガン演奏に次いで、30分弱の祈りの中でチャプレンの「一言」がある。コンサートは無料だけど、チャプレンの話に我慢していただく、ってこと)
聖書日課:マルコ4:35-41
皆さんは地デジ対応テレビは大丈夫ですか?

今までこういうことはあったでしょうか?国が何かを決めると、国民みんなが新しい家電を買わないといけないということ...?!?

わけ分かりませんが、とにかくこのカウントダウンで、もう神経質になってしまっています。今までその警告はテレビの画面の一番下にあったので、無視しようと思えばできたのに、今は、字がでかく左の方に移っています。「後18日!!」

これに強いられて、先週末、やっと地デジ対応テレビを探しに行きました。○○電機でプチパニック状態になりました。どれがいいか、迷っていました。わたしと同じようにぎりぎりまで動き出さなかった人は大勢いるし、あまり集中できないわけです。

やっと「これだ!」と思ったものに落ち着いたら、「在庫がない」と言われました。家に届くのは、早くても8月1日。

げっ!7月24日から8月1日まで---まるまる一週間や!ギョッとしました。

どうしてそこまで困るのか、自分でも分かりません。別に18日後、世の終わりが来るわけでもないけど...ただ、テレビが見れなくなるのです。もっと深刻の問題として、子どもたちにテレビを見せられないのです。

家がシーンと静かになることを想像して...代わりに何をするのか、と不安になるわけです。
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先ほど読ませていただいた聖マルコによる福音書では、イエスさまの弟子たちが舟に乗って、大きな嵐に遭難しそうになっている話がありました。

弟子たちは非常に恐れています。そこでイエスさまは嵐を静めてくださいました。

皆さんは分かりませんが、わたしはしばしば嵐のただなかにあるような気持ちになります。いつも走り回って、辛うじてやることをこなしているような感じです。病院と看護大学での仕事、ファミリーサービス、そしてこのチャペルコミュニティへの責任のバランスをはかりつつ、やっています。

結果として、「器用貧乏」---器用でも言えないから、不器用貧乏?!とにかく、すべてが中途半端になってしまいます。いつも慌てふためいてバタバタしているのです。

そこで文句を言ったりします。「ああ、忙しい!ああ、しんどい!」でも、たぶん、もっといやなのは、忙しくないことだと思います。暇になることを避けている気がします。

いつも何かをしなきゃいけないと思うのは、わたしだけではないと思います。不安に感じる人は少なくないと思います。というのは、電車とかに乗ると、7-8割の人は目が携帯にくぎ付けなんです。何をしているか分かりません。メールをやったり、インターネットを見たり、テレビを見たり、ゲームをしたりして。

電車だけではないのですね。歩きながら、自転車に乗りながらでも、絶えず携帯電話。

(わたしは歩きながら携帯をやってる人の前にわざわざ立ち止まるのが好きです。向こうが背の高いわたしにぶつかる寸前いきなり、ウワッ!と気づくのです。そのビックリした表情はたまらないですね!(笑))

でも携帯はただ新しくできた手段、暇にならないための手段に過ぎません。他にもたくさんあります。携帯に夢中でなければIPodや小説、漫画、雑誌、新聞、テレビに夢中になるわけです。

面白いことに、たまには、車内で座って、手に何も待たないで、ただ周りを見ている人がいたら、ちょっと警戒するのですね。その人は何?ヘンテコリンかも知れない、とゆっくりと離れるのです。

とにかく、暇にならないために、気晴らしにわたしたちはいろんな手段を使います。携帯とかIpodとか新聞そのものは良くも悪くもありません。が、このように常に気晴らしをする傾向は、ある種の中毒になっていると思います。しなきゃ落ち着かない行為になってしまうのです。

(このコンサートが終わったら、礼拝堂を出た途端に携帯をチェックするつもりでいる人は、手を挙げてください!(笑)。今でも携帯をチェックできないのがとても気になる人、手を挙げてください。たった今、こっそりと携帯電話をチェックしている人...(笑))

あるいは、帰ったら、とりあえずテレビを付けます。その内容はどうでもいい。とりあえずインターネットで、1,2,3時間を簡単に過ごします。とりあえず雑誌、小説を眠くなるまで読みます。この「とりあえず」の時間はいつの間にか多くなってしまいます。

このような「気晴らし中毒」の問題は、どんな中毒と同じように、結局不健康なのです。常に忙しくて、暇がない状態は人間らしい状態ではないのです。

健全な精神状態を保つには、時々静かになり、自分を振り返る時間が必要です。日々の生活の出来事や人との出会いから生れる経験を処理しないといけません。想像を巡らせる時間が必要です。また、(メールとかブログではなくて肉体の)人とじっくり関わる時間も必要です。自然の美しさを楽しみ、自然の力を吸収する時間も必要です。

でも魂の健全な状態も心配ですね。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの名言があります:「吟味されない人生など、生きるに値しない。」

他の人もそうかも知れないけれども、わたしの場合は、暇になりたくない一つの理由は、自分の人生をあまり吟味したくないからだと思います。問題は、暇になると...なりたい自分に果たしてなっているのか、自分が今なんで生きているのか、本当に大事なことを守っているのか、それとも無駄なことに時間を費やしているのかなど、そういうことを考え出すので、不安です。

だから、自分の人生をあまり吟味したくないのです。でも、逆にそのまま、時の流れに身を任せるままに生きるというのも、何かもったいない気がします...

だから、結局お勧めしたいことは、時々携帯を切って、テレビを消して、読み物を横においてじっくりと自分を見つめ直すという時間を取っておくということです。誰よりも自分自身に言ってる気がしますね。)きっと、そういう時間は有意義なことになると思います。

こういうコンサートの一時は、そういう作業ができるように心を少しでも落ち着かせる効果があればいいなと思います。十分に休息した精神をもって、日々の嵐に戻って、より豊かな毎日を過ごすことにつながるといいな、と思います。

2011年6月9日木曜日

寄り添う、という癒しのわざ

(「下町聖公会ニュース」2011年6月5日号の教役者リレーエッセイ)

誰が翻訳したか分からないが、聖歌集の527番(「傷ついた人の祈りに応えて」)が大好き。特にその日本語のセンスの良さが。言葉数の多い元の英語の歌詞を、こんなに簡潔で優雅な日本語に直せるなんて...和英を行き来する者として、尊敬する。

音楽も好きだが、何よりも内容に感激。信仰生活の現実を把握している気がする。特に2番:「見えない明日への 恐れに苦しむ/愛は変わらずに 弱さに向き合い/心の痛みに いつでも寄り添う」。

病院のチャプレンとして、大抵の場合、できることは弱さに向き合い、痛みに寄り添うことだけである。無力感を覚えつつ。1歳半の子を亡くして涙止まらぬ母。先日まで元気だった伴侶とついにお別れをせざるを得ない夫。自分の体に裏切られた年配の方。

でもチャプレンが専念する「牧会」には、一人一人のクリスチャンもそれぞれの現場で関わるように召されている。イエスのいやしの働きに加わって。その際、人の苦しみに出合うとき、言葉も出ず、手伝うこともなくても、向き合う、祈りの中だけでも寄り添うことができるのだと思う。

イエスが先立って寄り添っておられるから、わたしたちも寄り添える。そういう業から、いやしが生まれるのだと信じている。

come again?

Had my "Crawling Through Luke" class this morning. It's not called that, but we've spent three years meeting twice a month and have only gotten to chapter 17. We're having way too much fun.

The second half of Chapter 17 was a bit of a slog, though. Not the Ten Lepers, that was fine. But the part about "the day the Son of Man is revealed."

When you take the Bible seriously,  most of the time it's a wild adventure, life-altering, mind-expanding, challenging, humbling, courage-bringing, bracing, nourishing, healing.

But sometimes it frustrates. Like trying to build a Lego spaceship blindfolded.

I'm compelled to try to make sense of it because it's the Word of God revealed, even the parts that seem like rough edges. But sometimes I end up doing more head-scratching than sense-making.

The last part of Chapter 17 was a little like that. Lightning bolts flashing across the sky. A couple in bed, one taken, one left. Two women grinding grain together; one taken, one left. What is Jesus talking about?

I mean, I think I understand the apocalyptic genre, at least a little. Using jarring, dramatic imagery and heavy allusion to try to convey unseen spiritual realities, the "really real" behind the screen of the visible world, gripping the hearer and forcing a shift in perspective. Babylon=Rome. Beast=Imperial army. Things look bleak now, but God's justice and mercy really do win out in the end.

I get it. I love it.

So, I'm quite willing to pooh-pooh the Left Behind crowd who read Revelation like the Weekend Section and couldn't tell a metaphor from a hole in the ground.

But that's Revelation. I mean, John was "in the Spirit on the Lord's day," having the mother of all day-trips.

I get confused, however, when Jesus talks like that. He heals ten lepers and harangues us for always coming to God with "what's in it for me" attitudes and hearts filled with ingratitude. And then He turns around and talks about floods and burning sulphur and people vanishing.

I understand the words. What am I supposed to do with them?

Still, I did enjoy watching my students' heads spin when I talked about a- and post- and premillenialism, and even preterism. I can now confidently declare myself to be a partial-preteristic amillenialist, if anyone ever asks.

And I was surprised to learn the Catholic church teaches a kind of tribulation: "Before Christ's second coming the Church must pass through a final trial that will shake the faith of many believers." (CCC 675)

The Vatican and Tim La Haye on the same page?