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2013年6月9日日曜日

まことのパワースポット、イエス(ルカ7:11-17)

聖霊降臨後第3主日(特定5、C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年6月9日年・10時30分 聖餐式


流行りというものは不思議な現象だと思う。

17世紀のヨーロッパでの「チューリップバブル」はご存知?ヨーロッパ、おもにオランダでチューリップの価格は一気に100倍上がったという有名な話がある。

日本も流行り帝国だと思う。約15年前の「たまごっちバブル」は覚えている?出荷するという噂があるだけで3日前から店の前で並んだりする光景がよく見られた。当時、日本ってどういう国だろうと思っていた。が、後で同じTAMAGOTCHIバブルがアメリカでも起こった話を聞いて何も言えなくなった。

大昔、日本におけるウサギブームはご存知?明治初期に起こった(5年ぐらいから)話である。

特に手に入れにくい、外国種の耳の長いウサギが流行したわけ。珍種のウサギは、実際一匹(一羽が正式だけど何で?!)は400円と値段のついたケースも。400円は大したことじゃないと思うかも知れないけれども、当時400円は米12t分に相当する高額だった。

あまりにも流行りすぎてしまって、ウサギに税金がかかった。ウサギの売買の勢いが止まらないから、高い税金を掛け、ウサギ熱を冷ますという狙いだった。ウサギ一匹につき、税金「1円」という法律ができた。当時の1円は米30kg。また、無許可で飼っている場合は2円の罰金!

日本では最近、パワースポットというものが流行っている。パワースポットとは何だろう。一応、地理的な場所で、そこを訪ねる人は特別な何かを感じる。何らかの力、聖なる存在、神、母なる地球など、目に見えない何かを身近に感じるという人がいる。テレビで見るとだいたい若い女性アナウンサーが「いやされる~©」というつまらないコメントをすることが多い。そういう場所。

「パワースポット」という言葉そのものは和製英語だけど、その概念は日本以外にもある。古代のアイルランド人の間で「薄いところ」という話があった。天と地との境界線が薄くなって、天はこの世にあふれ出るようなところ。

書店に行けばおそらく日本中、世界中のパワースポットを教えてくれるガイドブックがあると思う。さて、こういうパワースポットについてどう考えればいいのだろうか。

聖書によれば、神はこの世と世の中のすべてのものをお造りになった。「主の栄光は天地に満つ」と。だから世界の至るところはその造り主を示し得るわけ。世界中は神の指紋だらけになっている。

つい先週の金曜日、病院の新しい研究センター(医療イノベーション部)の部長、東大の科学者である入村先生が仰った:「地上の生き物を詳しく見れば、大きな意思の存在を感じないわけにはいかない。」

だからもしかしたら、実は全世界がパワースポットであって、普段それを認知しないだけかも知れない。いわゆるパワースポットは、天とかを垣間見れるところではなくて、ありのままの地球に気づいているところだけかも知れない。
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昔のユダヤ人にとって、エルサレムにある神殿は偉大なるパワースポットだった。パワースポットの中のパワースポット。神殿(ユダヤ教の本山)は神の住まいと呼ばれていた――実際に全能で永遠の神がそこに住み得るとは当然思っていなかったけれども、神殿で神と触れ合えると信じていたわけ。

神殿の最も奥にある「至聖所」は、神が身近におられすぎて実は恐ろしかった。至聖所には一般信徒は近寄らない。徹底的に身を清めて、ちゃんとしたいけにえを携えている大祭司一人だけが、年に一回だけ入るところだった。(「いやされる~©」のではなくて「死んじゃう!」というコメントがふさわしい!)

至聖所はパワフルすぎるところだったけれども、神殿そのものでは、神と仲直りができる場所(捧げ物を通して)。神の導きを得られる場所(祭司の指導によって)。神とコミュニケーション取れる場所(祈りを通して)。神と一緒にいることを楽しむ場所(祭りを通して)。

詩編84編はこういうことを語る:
「万軍の主よ、あなたのみ住まいは麗しい。わたしの魂は主の庭を慕い、心を込めてあなたの命を喜び歌う...あなたの庭で過ごす一日は、千日にもまさる」(詩編84:1-2, 10a)
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神殿のことを考えれば、確かに神は特定の場所で人と触れ合うことがある、ということが分かる。しかしクリスチャンにとって、イエス・キリストによって神殿への理解がかなり変わった。

イエスはサマリア地方で、ある井戸のところにサマリア人の女性とのやり取りがあった。その中でイエスは、ある地理的な場所が他の場所より神に出会いやすい考えを否定なさった。ユダヤ人にとってエルサレムの神殿こそ神と出会いやすい場だったが、サマリア人にとってはゲリジム山が聖なる場所だ。

サマリア人の女性がこういうことに触れるとイエスはこう言われた:
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る...まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

霊と真理をもって礼拝しなければならない。ある「場所」ではなくて、心の態度が大事。神との正しい関わりがその条件だ、と。
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後にイエスはご自分が神殿に代わるようなものだという話をなさる:
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:19)ご自分の十字架の上の死と、三日後の復活のことを話しておられた。この神殿はイエスご自身。

つまり、わたし自身が一番のパワースポットだ、とイエスが主張しておられた。しかも、固定の場所に限られるのではない。イエスが国中を巡り歩きながら、神の身近な存在を痛感させておられたのである。

今日の福音書でも、ナインの人たちはそういうことが良く分かったと思う。イエスがやもめの一人息子を死者の中から生き返すのを目撃したわけである。「いやされる~©」どころか、死んだ人が生き返った!のだ!
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」(ルカ7:16)

神はその民を心にかけてくださった。これはわたしたち人間の心の奥底にある熱望である。すなわち、神に見放されず、神に見捨てられず、この地球という大きな島に置き去りにされていないで、神はわたしたちを心にかけてくださっているのだ、と。これこそパワースポットへのあこがれだと思う。一人ぼっちではない。神に、偉大なる者がわたしたちを心にかけてくださっているのだ。

その日ナインの人たちは神の憐れみと恵みを痛感したのである。彼らにとって、神は漠然の遠い存在ではなくて、すぐそこに、身近な存在であることが分かった。
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イエスは公の働きの最初に宣言された:「時は満ち、神の国は近づいた!悔い改めて福音を信じなさい!」(マルコ1:15)。後に言われる:「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。

イエスのミッション、すべての言葉と行動の目的は、この真実を世の中に示すことだった。

昔の農業電化プロジェクトに似ている。まず発電所から地域に電気を送るための巨大なケーブルを取り付ける。でも、各家はまだそれにつながっていない期間はしばらくあった。

そのとき、電力会社の者は宣教活動をした:「実に、電気の国はあなたがたの間にあるのだ!」。

そして農業の人たちはこの福音(良い知らせ)を信じて、自分の家に電気を入れさせる必要があった。そのとき、生活は永久に変わった。
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神の国はあなたがたの間にある。すでに。イエス・キリストは何よりのパワースポットである。イエスにあって、天と地の境界線が薄くなっているどころか、亡くなっている。ナインの人たちにとって、弟子たちにとって、イエスに触れられていやされ、解放されたすべての人にとって、イエスを通して天国がこの世に突入してきた。

わたしたちは神に近寄りたかったら、パワースポットのガイドは必要ではない。イエスがいらっしゃる。イエスの霊が与えられている。ある特定の場所だけではなくて、イエスにあって神がわたしたちに近寄ってくださる。
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しかも、イエスはその聖霊を教会に与えてくださっている。聖パウロはコリントに住んでいたクリスチャンに書いて:「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

だから今は、教会そのものもパワースポットになっているはず。建物ではなくて、集まっているわたしたち自身。このに来れば、神に触れ合える(はず)。神の恵みと愛といやし、導きを、集まっているクリスチャンを通して痛感できる(はず)。

ここもパワースポットだし、この後解散して各自自分の生活に戻ってからも、わたしたち一人一人も小さなパワースポットになる。

考えたことはある?自分自身は、職場で同僚とやり取りしているとき、週末家族と一緒に過ごすとき、旦那さん・奥さんや友人と一緒に夕飯を食べるとき、コンビニの店員とたわいない会話をするとき――あなた自身が歩くパワースポットである。

そういうことを常に意識したら、どう変わるのだろうか。今週、イエスさまの「歩くパワースポット」として一週間を過ごしてみませんか。

2012年8月24日金曜日

Human beings are hard-wired to worship, even if they don't worship God.

That's why you can find imitation worship all over the place. Crowds of people straining to get a glimpse, maybe even touch the clothes, of a movie star. A room packed full of sweaty young "otaku" geeks doing para-para dancing with anime voice-actresses in Akihabara. Live shows and rock concerts. Three-month booked up tours of the Sky Tree. The Electric Parade at Disneyland.

These things are human approximations of real worship. They try to satisfy man's longing to worship something greater than himself, something from which he derives his existence and the meaning of his existence.

But in all these cases, the object of the worship is not God. And so there is no genuine encounter with Life involved. The glow of worship fades, the emotional high dies away, and no heart is changed.

The object of real worship is God. And to encounter God is to be changed forever.

2012年5月18日金曜日

ワイだよワイ!

2012年5月号「チャプレンからのメッセージ」『明るい窓』病院の職員向けニュースレター

日本のお笑い芸人の中で出川哲朗という大ベテランがいる。「リアクション芸人」に分類されるだろう。世界各地に派遣され、ライオンの口に頭を入れたり、山間のもろい縄の橋を渡ったり、3千メートルからスカイダイビングをしたり、昆虫を食べたりするなど。バカバカしいけどつい見てしまう。

出川は「天然いじめられっ子」としてバラエティ番組にもよく出る。へまばかりして集団いじめを招く。そして袋だたきにされる出川は、いきなり両手のひらを上にして天に目を上げて「ワイだよワイ!」という嘆きを吐く。この一発ギャグで必ず笑いを取る。僕のも。

医師、看護師などの医療関係者は「What」(何)と「How」(どうやって)によく取り組む。患者さんの疾患は何なのか。どうやってそれを治せるのか。

僕はチャプレンとして「Why」(なぜ、どうして)という質問に付き合うことが多い。どうしてわたしがこの病気になったのか。なぜ妻と別れなければならないのか。そしてもっと基本的なレベルで、どうしてわたしが生れたのか。なぜ俺が生きているのか。よくそういう問い掛けに付き合うのだ。

こういう質問には、明快で、100%満足できるような答えがなかなか出ない。しかしそれでも、Whyというのは大切な疑問。人間らしい疑問。投げ掛けがいのある疑問だと思う。

皆さんにも、できればWhyという問いかけをいとわないでほしい。もちろん、患者さんのWhyをはぐらかさない方がいいと思う。医療関係者が解決を追求するのは当然。でも時々専門家としての立場を捨てて、同じ人間としてその嘆きであったり、慰めへの要求であったり、生きる意味への探求であったりする患者さんのWhyに耳を傾けてあげると、すでにその人の中に潜んでいた答えや閃きに気づいてもらえることは意外と多いかもしれない。

そして皆さんには、ぜひ自分自身に対してもWhyをどんどん投げ掛け続けてほしい。なぜ自分がこの世に生を受けたのか。どうして生きているのか。なぜ職場は聖路加になったのか。どうして今までのさまざまな経験をして来たのか。なぜある分野に特別な関心を持っているのか。どうして時間をかけてこのチャプレンメッセージを読んでいるのか(笑)。

などなど。

大切なWhyを探求することなく人生を送るのはもったいない!

Whyを投げ掛け続けると、自分自身の胸の中に潜んでいる、思いがけない答えに出会えるかも知れない。「ワイだよワイ!」

2012年4月28日土曜日

bones of contention

In Japan, you must never, ever, I mean ever, pass a piece of food directly from your chopsticks to someone else's chopsticks. To do so is about on par with throwing up into your rice bowl. Maybe worse.

And this is so very awful because when a person dies in Japan and is cremated, the relatives pair up and use special, long chopsticks to transfer bone pieces into the urn. This process is called "hashi watashi," which means "chopstick passing".

So to do a chopstick handoff at the dinner table is basically to fling open the doors of the underworld and invite every sort of nameless ghoulish horror to invade your household.

Try it sometime when dining with Japanese people, and see the reaction you get!
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I've been to the crematorium so often lately that even the guys who work there are looking at me askance. Like, you know, maybe I'm doing something to speed along people's passage to the Great Beyond or something.

But several times recently they've also asked me how they should handle the urn packing process. They want to know if it's okay to do "hashi watashi" in pairs, or should they have each person do it on his own.

At first I was confused about why they were asking. But then I learned that in some "Christian" cremations they don't do "hashi watashi" in pairs.

Now, I have given thought to the theological question of cremation versus interment of the body. But since cremation is mandatory under Japanese law, I figure Ezekiel gives sufficient reason not to worry that dry bones are going to present some sort of major obstacle to God's resurrection plans.

But why on earth would some Christian clergymen object to people pairing up to move bone fragments?

It turns out that "hashi watashi" can also mean "bridge crossing" ("chopsticks" and "bridge" are both "hashi," albeit with different kanji).

So, the idea is that the mourners are helping their loved one to cross over the river which, in Buddhist mythology, separates this world from the next (a lot like Acheron in Greek mythology).

There's also the sense that if the dead person's spirit wants to come back and visit great unpleasantness on you, it's better to team up. Going 50-50 on the haunting, as it were.

So I guess that some Christian ministers don't want to lend credence to quasi-Buddhist mythology. (It kind of reminds me of Blake's "priests in black gowns walking their rounds".)

But it seems to me that, first, on the scale ranging from "explicitly religious expression" to "vaguely understood cultural practice," "hashi watashi" is pretty far over on the cultural side.

Second, at this moment of final farewell, I can see some small value in coming together to transfer a part of the person who has died into the urn that will house their remains. A grief shared, as it were.

Or, if not much value, at least not much harm in this practice.

So I've been giving the green light to the "hashi watashi".

But thanks for asking, guys, I guess.

And, honest, I had nothing to do with the recent spate of deaths...

2012年1月17日火曜日

dr. hosoya's haiku (i)

Dr. Hosoya, Chief of Pediatrics at the hospital, asked me to translate his haiku used in a new documentary about him, called "Daijoubu (It's Going To Be Okay)". It's heading to a film festival in Europe soon.

Here are some of the results:

がんの子の
 おはなし会に
  銀やんま
silver dragonfly
 eavesdrops on the conference of
  children with cancer
Backstory: A scene from the camp Dr. Hosoya helps run, for children diagnosed with cancer.

フラッシュで
 星を撮る子もみて
  キャンプ
starry night at camp
 a child's camera points up
  and clicks, flash goes off
 Backstory: After the evening bonfire, a girl was taking pictures of the night sky using the flash setting.

生キ死ニのはなしを
 子らに 油照
hot day with children
 talking about life and death
  sweltering stillness

みとること
 なりはひとして
  冬の虹
this is my calling
 keeping watch as children die
  rainbows in winter

颱風の中
 モルヒネの
  効いてゆく
little one passing
 morphine starts to take effect
  typhoon winds raging
Backstory: Sitting vigil with a dying child, alleviating her suffering.

窓に子の
 息それぞれに
  夜の冬
frosted window pane
 trace of many little breaths
  a winter's evening
Backstory: Another camp scene

悲しき時のみ
 詩をたまふ神
  雁渡
only in sorrow
 are poems sent from Heaven
  passing flights of geese

2011年9月4日日曜日

ホスピタリティはこのチャペルの使命です(ローマ12: 9-21)

聖霊降臨後第12主日(A年・特定18)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年9月4日・10時30分 聖餐式

今日は、ホスピタリティについて皆さんと考えたいと思います。「もてなし」でなくてホスピタリティという言葉を使っているのは、元々のギリシャ語の単語は客の世話をする、馳走することよりもっと深いニュアンスがあるからです。「フィロクセニア」という単語で、「外の人を愛する」という意味になります。もしかしたら「もてなし」の本来の意味は聖書に意味に近いかも知れませんが。

このチャペルの理念から抜粋させていただきます。
神の恵みにより建てられた聖ルカ礼拝堂は、病院・大学の礼拝堂としての特性を踏まえ、これらの存在基盤である「キリスト教の愛」を、常に示し続ける使命を担う。具体的には、
 病院の礼拝堂としては、患者、その家族、医療スタッフ、職員、ボランティアに対して、
 看護大学の礼拝堂としては、学生、教職員に対して、
 教会としては、地域と社会の人々に対して、
 祈りと慰めの機会と場を提供していくとともに、これらの人々と教会員が、神の愛のみ旨を成し遂げていくことができるように支え合い、ともに働き続ける。
さまざまな人に「祈りと慰めの機会と場を提供していく」。これこそホスピタリティの精神ではないでしょうか。問題は、どうやって祈りと慰めの機会と場を提供できるか、ということです。その前、一つのストーリーがあります。

ある日曜日の朝、ある男の人がお母さんに起こされました。「早く教会に行く準備をしなさい!」
「教会に行きたくない!」と頭の上に枕を覆いながら息子が言います。
「行かないと」とお母さん。
「だって、あの教会の人たちは冷たくて、あいさつもしてくれない。心地悪い。
  説教もつまらないし、お茶の菓子は美味しくない、全然。」
「早く起きなさい。教会に行くのだ。」
「どうして?どうして行かなくちゃいけない?わけが分からない!」
「あなたはその教会の牧師だから、いかげんにしなさい!早く起きなさい!」


初めて教会の礼拝に参加しに行くのに、勇気が必要だと思います。この病院は「敷居が高い」と言われたりしますが、チャペルもそう思われたらちょっともったいない気がします。(祈るために紹介状はいりませんから!)

でも確かに、勇気を出して、初めて礼拝に出る人は、突然いろいろな変わったことに遭遇します。まず、教会で変な単語は山ほど使われています。アッシャー、オルター、チャプレン、聖奠、信施、供え物、降臨節、聖霊降臨節、聖餐式、陪餐、祝福、使徒、信徒、主教、司祭、師父、執事、小羊!などなど。

そして変な行動をします。座ったり、立ったり、ひざまずいたりします。いきなりお辞儀を交わします。いくつかの布袋を回します。全員で礼拝堂の前方に行進します。
これらのことは面白くて、少し慣れて来てその意味が少し分かったら素晴らしいことになり得ると思います。だけど、初めて来られた人に「祈りと慰めの機会と場を提供」しようと思うのなら、この一風変わった環境でどうやって歓迎できるか、「ここにわたしの居場所があるかも」と感じてもらえるためにどういう対応が必要なのか、それが問題だと思います。

ホスピタリティはそういうことに関心を持つのです。ホスピタリティについて3つ話したいこと:
  • まず、皆さんは、自分自身ここに居場所があるということを知っていただきたいです
  • それから、神はわたしたちに常に人を送ってくださり、そういう人たちを歓迎して欲しい、ということを知っていただきたいです
  • そして、わたしたちの責任は、新しいクリスチャンを作るのではなくて、神の愛を示すことだ、ということを知っていただきたいです
まず、皆さんは、自分自身ここに居場所があります。

聖パウロがエフェソのクリスチャンに:
以前、あなたたちは「キリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたたちは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(エフェソ2:12-13)
わたしたちは全員、天の父の家にウェルカムされています。元々わたしたちの家ではありません。ホテルでもありません。ゲストとして扱ってもらうと思ったら大間違い。どちらかと言うと、教会は避難所に近いと思います。被災地で、ある大物がその屋敷を被災者のために開いてくれて、わたしたちはここで居候をしているような感じです。

この世に生を受けるというのは、神から遠く離れているという大惨事の状況に生れることになります。罪はそういうことです。だけでイエス・キリストは、わたしたちの罪のために死んでくださいました。イエスはその大惨事からわたしたちを救い出すために死なれたのです。だから、イエスのおかげで、わたしたちは避難所に逃れることができています。心の拠り所が与えられています。他の被災者との交わりが与えられているのです。

ここに皆さんの居場所があります。皆さんはイエス・キリストによってウェルカムされています。

2番目知っていただきたいことは:神が常にわたしたちに人を送ってくださっています。そして、そういう人たちを歓迎して欲しいのだ、ということです。
わたしたちが「神と関わりのない生活」から救い出されて、ここにウェルカムされているので、今度、わたしたちが他の人をウェルカムする番です。

このチャペルでの日曜礼拝(聖餐式)に、毎週平均5名の新来者が参加します。結構な人数です。大勢見える週もありますが、少ないときでも1人、2人の新しく来られた方があいます。とにかく毎週平均5名の方が始めてわたしたちと一緒に礼拝をしています。1年で言いますと...260人になります。

神は絶え間なく人をわたしたちのところに送ってくださっているのです。

それは、わけがあると思います。誰もただ偶然で教会に足を運ぶ人はいないと思います。必ず意味があるのです。もちろん、「わたしの人生で欠けているのはイエス・キリストだと気づいたので、イエスさまに出会うために教会の礼拝に出てみよう」と思って礼拝に参加する人は殆どいないと分かっています。

(皆さんも最初に礼拝に出たとき、そういう意図で出た方はあまりいらっしゃらないと思います。)

礼拝に出る理由は人によって違います。好奇心がある。友だちに連れて来られた。大事な人を亡くして、何かの慰めを求めている。病気や何かの不幸があって不安になっている。人生で道に迷って、何かの方向性や希望を探している。いい音楽を聞きたい、歌いたい。トイレを探していたけど場所を間違えた(笑)。

0.001%の人は説教を聞きに来る。(どうもどうも、ようこそいらっしゃいました!)

でもこれら全部が、人間の観点から考えられる理由になります。神は神なりの理由で人を礼拝に導かれます。今日、初めて礼拝に参加している方に知っていただきたいのですが、偶然ではない、ということです。わけがあってあなたがここに導かれています。

神が人を教会の礼拝という不思議な世界に導いてくださる第一の理由は、み子イエス・キリストに出会わせることです。

イエスは今朝ここにいらっしゃいます。目に見えないし、おられることを感じ取れないかも知れませんが、間違いなくここにいらっしゃいます。なぜかと言うと、いらっしゃると約束なさっているからです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

2人、3人どころか、100人以上イエスのみ名によってここに集まっています。今日だけイエスさまがその約束を守らないわけがないと思います。

最後に知っていただきたいことは、わたしたちの責任は、新しいクリスチャンを作るのではなくて、神の愛を示すことだ、ということです。

聖公会の信者が多いこの集いに向かっては話しています。熱狂的に伝道活動をやり過ぎることはあまり心配しなくていいと思います。(むしろもっと積極的に自分の望みを人と分かち合って欲しいのです!)

だけど、このコミュニティ自体が伝道的な存在になるはずです。コミュニティを通して、わたしたちの関わり合いを通してキリストの愛を現すことが求められていることです。お互いに接することから本当のホスピタリティが生れるのです。

聖パウロは、そういうことを今日のローマの信徒への手紙で言っていると思います。イエスも、マタイの福音書でそういうことを仰っているのです。

わたしたちは、兄弟姉妹としてお互いの人生の大事なことを分かち合います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」最近、この礼拝堂で結婚式を挙げたメンバーもいます。お葬式を行ったメンバーもいます。わたしたちは、人生の浮き沈みを共有しています。

また、ここで社会的格差はあまり通用しません。この中で医者も、看護師も、病院の他の職種の人もいます。看護大学の教員も、職員も、卒業生もいます。病院や看護大学と全く関係のない人もいます。さまざまな経済的な状況の人もいます。いくつかの国籍を持つ人もいます。

わたしたちは高ぶらないで、できるだけ互いに思いを一つにしようとしています。喧嘩や摩擦が生じたとき、兄弟愛をもって対応するように努力しています。(まあ、あまりうまくやっていないこともありますが、それは別の説教で!)

とにかく兄弟愛をもって関わり合うように励んでいると思います。そして、その兄弟愛がここから溢れ出て、神が送ってくださる人々を包んでいくことが、神が望んでおられることだと思います。

だから、わたしたちは「人をクリスチャンにする」ことは必要は求められていません。そういうことを神に任せればいいのです。人の心が神に向かうのに何が必要なのか、どのぐらい時間がかかるか、計り知れないことです。このチャペルに一回だけ来て、神の愛に気づくのが数年後になる人はいるかも知れません。でもここで種が蒔かれるかも知れません。

イエス・キリストはわたしたちの間におられます。わたしたちがお互いを愛し合えば、そして来られた人に心を開けば、わたしたちを通して人々がイエスに出会うことができるはずです。

経験者が語ります。僕は、何かを、人生で足りない何かを探していたときにある教会コミュニティに出会いました。何を求めていたのか、自分でも分かりませんでした。神も仏もあるものかと思っていた時期です。まさかイエスに出会いたいと思いませんでした。

出会ったのは、ホスピタリティのコミュニティ。全く見知らぬ、放蕩を尽くしていたこの僕を彼らにウェルカムされました。その共同生活に受け入れられました。最初躊躇していたが、やがて信頼関係を気づくことができたのです。

僕のことに関心をもってくれる人もいたし、自分の信仰を話してくれる人もいました。お互いへの愛情は目に見えました。神のことを大事にしていたことも明らかでした。そしてその音楽は最高でした。

ようやく、悟ったことがありました。すなわち、このコミュニティを通してイエス・キリストに近づいていたのだ、ということに気づいて来ました。それよりも、実はイエスさまが、その普通のクリスチャンの団体を通して僕をご自分のもとに近寄らせてくださっていたのだ、ということに気づきました。

ここでの普通のクリスチャンの団体ととても似ています。

ホスピタリティはこのチャペルの使命です。

2011年9月1日木曜日

見舞いの場で言っちゃいけないこと

だれか知人が病気にかかったときや入院したとき、見舞いに行ってあげることはとてもいいことである。なお、病人の見舞いはクリスチャンとしての義務でもある。

ただ、病床の場で何をどう話せばいいか、迷う人は少なくない。病院のチャプレンとしても、迷うことはよくある。

何を話せばいいかというよりは、まずふさわしくない話について考えたい。下記の発言は病室でやめた方がいいと思う(と言いつつ僕はいずれもどこかでしたことがある):
1.「元気?」
思わず言ってしまうバカな発言だね。元気だったら入院していないはず。でもこのように挨拶されたら、いくら大変なことになっていてもたいていの日本人は「ああ、元気」と返すのが、実に不思議なことである。
2.「元気に見える」
外見についてのコメントはやめよう。あまり意味がないし、入院中の患者さんはルックスを気になっても管理する余裕はない。しかも、見た感じと心の状況は懸け離れている可能性は十分ある。
3.「良かった!もっとひどいことにならないで済んで...」「まあ、少なくとも足もう一本が残っているさ」
患者さんはそういう見方ができたらいいけど、病気をどう受け止めているかは人それぞれ違うのだから、ほかと比べるのは一切しない方がいい。病そのもの以外の目に見えない苦痛があるかも知れない(例えば、この病気で将来の夢が台無しになった、子供のときに同じ病気でお父さんが死んだ、今までぎりぎり間に合っていた仕事での立場はどうなるか、などなど)。明らかに快方に向かってきたときに「助かってよかった」とはOKだと思う。
4.「実はうちのおじいさんも同じ病気だったのだ...」
家族や知り合いの中で同じ疾患にかかったり、同じ治療を受けたりしても、あまりそういう話を病室でやめよう。(特にその結果は良好ではなかった場合!)患者さんとあなたの知っているケースは、似ていても全く一緒だとは限らない。自分自身の経験なら、ちょっとだけ触れてもいいかも知れないが、たった今、その状況の最中にいる患者さんのことを中心にすべきであろう。
5.「わたしが知っているすごいキノコのお茶をぜひ飲んで欲しい」
治療に関することは、医者に任せよう。実際に病院で、患者さんの病状を中途半端しか分かっていないにも拘らず、いろんなアドバイスをする素人は驚くほど出て来る。気持ちは分かるが、余計の世話に過ぎない。
6.「何か手伝えることがあったら言ってね」
殆ど無意味な表現になる(僕はしばしば言ってしまうけど)。患者さんはすでに自分の無力さを痛感している。特に日本人は、プライドからか恥ずかしいからか、なかなか人に頼みはしない。だから「何かあったら教えてね」と言わず、自分からできることを積極的にしてあげる。こっそりとするか、「○○するからね」と報告するような形で援助を申し出る。ご飯を家に届く。庭の水遣りをする。放課後の子供を家で面倒を見る。猫の世話をする。
7.「きっと大丈夫」
分からないことを口にしない。自分に言い聞かせて、自分を慰めようとしているとしか思えない。患者さんは医者の診断を聞いているから、見舞い客の根拠のない診断はいらない。

逆にかけてあげたい言葉
1.「顔を見たくて来ただけで、すぐ帰る」
みたいな表現。訪問時間を短くしよう(長くても10-15分。患者さんが特に疲れたり、苦しんでいたりするときはもっと短め)。お客さんが来て嬉しくても、エネルギーがかかる。治るために使いたい。
2.「会社・学校・近所・教会の最新情報を聞きたい?」
患者さんはやむを得ず疾患や治療の話ばかりしている。一時的でも病を忘れさせてくれるような「外の世界」の話を聞けるとありがたいかも。ただし、長々と話すのは気をつけよう。
3.「何を言ったらいいか、分からない」
状態が重ければ重いほど、言葉が出て来ない。正直に迷っていることを言うべき。相手もどう関わればいいか迷っているだろう。それを一言で明らかに認めてから、たわいない話や沈黙に入っても、その雰囲気はだいぶ違う。
4.「大変だね」「気の毒だね」「あなたのことを心配しているよ」
本音で一言でも話してあげることは非常に有意義なことになり得る。日本人はあまり心の深い思いを口にしない傾向があるが、やや不器用でも何らかの形で思いを伝えてあげると心強い。

上記の4.と関連するけど、患者さんにとってスキンシップは大きな効果がある。普段、握手する習慣がなくても、病院以外の状況ではそういうことは一切しなくても、例えば帰りに握手してあいさつするとか、軽く肩に手をおいて笑顔で話すとか。手を握って短い祈りをするとか。傷やさまざまな措置に注意しながら温もりのある触れ合いには非常な、言葉にまさる力がある。

まとめてみると、何よりも自分らしくいることがキーだと思う。「あなたのことを大事に思っている」とわざわざ病院に寄って、言葉と笑顔とスキンシップをもって患者さんに伝えることは、病の孤独を乗り越えるのにとても役に立つ。

「効く言葉」や「正しい言葉」はない。その場で元気付けることのできない状況はある。空っぽの慰めは逆に虚無感につながる。

その場にいることがポイントである。病の暗闇の最中でも、患者さんは一人ぼっちではない。それさえ伝われば、見舞いに深い恵みがあると思う。

2011年8月26日金曜日

friday afternoon at the crematorium

I had the privilege of accompanying a family to the crematorium this afternoon, after the funeral of their 82 year old mother/grandmother at the chapel. She was a Christian, who died last Tuesday in the hospital.

I always say a final prayer over the body at the entrance to the oven. Then the men with white gloves and limousine driver hats shove the coffin in and close the golden doors and push a button. Then...we wait.

It takes about an hour to thoroughly burn the body of a non-obese adult. There are waiting rooms upstairs at the crematorium. As the priest, I'm always expected to lead the group, which includes maybe 10-20 relatives and close friends. A close family member carries the blown up photograph of the deceased.

The staff always tells us to watch our step on the escalator. Why is that? Does any sighted person actually stumble when getting on to an escalator?

As we enter the waiting room, we are handed a paper o-shibori, I guess because even being around a dead body is icky. Various cakes, chips, rice crackers, as well as bottles of drinks are on small tables around the room. Oolong tea, orange juice, beer. They come around later with pots of hot green tea.

This hour of waiting with the family is different every time. Sometimes, the family is shaken and subdued. Sometimes there's a lot of tears and sniffles. Sometimes they want to tell me about the person who has died. Sometimes they want to talk about anything else. I've had some really fun and interesting conversations at such times. Occasionally, it can be quite jovial and raucous, almost a party.

Once, I even got an acupressure treatment right there at the table.

The worst, though, is when a child has died. Bleak, raw pain, more or less well masked by the formalities of conversation. Once in a while, I get the big questions. Is my baby in heaven? Is he lonely? Why did she die? Will I ever feel all right again?

Today was a little...businesslike. The woman who died was a dedicated wife and mother and then grandmother, who spent her life supporting and caring for her dentist husband and all those around her. Her best friends were her classmates at the girl's high school she attended. They went through the War together, working and sleeping at a factory more often than studying. Three of the ladies were there.

I enjoyed talking with her granddaughter, a first year high-school student and cellist. We swapped orchestra stories. They are practicing every day during the summer, from 10:30 a.m. to 6:30 p.m.

The girl's father and mother were moving around most of the time, making arrangements for the post-cremation dinner and taking care of other business, I guess.

Finally, an announcement tells us it's time to go back down. I'm in the lead again.

We return to the oven, and the men with white gloves pull out the fireproof slab. I'm always surprised at how little volume of bone there is. They transfer it all to a stainless steel box, and take it to another table where there is a ceramic urn with the person's name on it.

Family members pair up and use oversize chopsticks to pick up a bone fragment and put it in the urn. Two people, two pairs of chopsticks, one piece of bone. That's the reason why you can never use chopsticks to pass food directly to another person in Japan. You invite the spectre of death if you do that.

Finally, after using a powerful magnet to suck out all the coffin nails, the main bone packer guy goes through a practiced shpiel about what bones are what. He arranges the skull parts to go on top. He always points out the top spinal vertebrae, which is supposed to look like Buddha sitting lotus position. (Today, he stopped himself and said, "Oh, but you guys are Christian" which was actually a wrong assumption. Besides me and the one going into the urn, I don't think there were any Christians present.)

Sometimes they even put the person's eyeglasses in the urn. If I go to heaven, or the Pure Land, or get reincarnated or what have you, do I really have to keep my physical defects? I want to come back with an Adonis body, serious abs and 20-20 vision.

Then they close up the urn and bow for about the 18th time. And, with urn and photograph in hand, everybody loads up the microbus to go have dinner.

May the souls of the faithful departed, by the mercy of God, rest in peace.