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2012年7月6日金曜日

two highlights

Highlight 1:
The other day, I met a woman I've known for years, from the time she found out she had breast cancer through to its total remission. There were some signs that the cancer might be back. She was waiting for test results, nervous. "God, may all her results be negative" I prayed with her, even as my mind filled up with all sorts of scenarios. Yesterday, she stopped by my office with great news: "No relapse." We just stood there for a long, long time, grinning like monkeys and shaking hands.

Highlight 2:
For the past six months I've enjoyed getting to know a patient in the palliative care unit, an elder brother in Christ. A Protestant, he loves Mass, and often took part in our Sunday worship, hospital bed and all. He was quietly called to be with the Lord this morning. When I went to say goodbye, the realization that I would no longer regularly be seeing him or his family made me suddenly sad. I went back in the afternoon for the send-off. And, just as if the patient were still alive, the family and nurses and doctors and I all gathered around his bed, laughing and smiling as we took one last photograph. No, not "just as if"--he IS still alive. "Blessed are the dead who die in the Lord from now on.” (Revelation 14:13)

2つの嬉しいこと


数年、乳がん発覚当初からその完全寛解まで時々会って話を聞いている女性に先日またお会いした。またか?と疑われる要素が出てきてしまって、検査結果待ちで不安。「どうか、姉妹の結果がすべて陰性でありますように」と、いろいろな思いが駆け巡っている中で祈ってあげた。そして昨日、僕のオフィスに寄って来て「再発してない」という吉報をもたらしてくれた。二人の収まらない笑顔と長い、長い握手。


半年知り合っている緩和ケア患者さんで、キリストにあって大先輩。教派は違うけどミサが好きで、よくベッドごとで日曜礼拝に参加してくれた。今朝、穏やかに天に召された彼とのお別れに伺うと、ご本人とも、ご家族とも、今までのようには頻繁に会えないな、と思いがけない寂しさを感じる。だが午後、病棟からの見送りに立会うと、亡き患者さんがまだ生きているかのように、ご家族もナースもドクターもチャプレンも病床を囲んで笑いのあふれる記念撮影を。いや、「かのように」ではない。今も生きているのだから。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』(黙示録14:13)

2012年5月15日火曜日

英語のメモリアルレターの手引き

Writing a Condolence Letter in English

7つの要素:
1. 損失について触れて、亡くなった方の名前を使う。
2. シンパシーを表わす。
3. 何か故人の特徴を描く。
4. 自分と故人との思い出、残っている印象などを述べる。
5. 遺族の方の強いところや支えになりそうなところを言う。
6. サポートを申し出る(具体的)
7. 最後に望み・願いなどを表わす。

Sincerelyはビジネスライクなのでやめましょう。

サンプル:

Dear ____________,
1. 損失について触れて、亡くなった方の名前を使う。
It has been several weeks (almost a month, etc.) since the loss of your husband, John. I am writing to see how you are doing.
2. シンパシーを表わす。
I know this must be a very difficult time for you. You and your family are in my thoughts and prayers.
3. 何か故人の特徴を描く。
John was such a kind, positive person. I was so impressed with how cheerfully he interacted with everyone who came to visit him in the hospital. 
4. 自分と故人との思い出、残っている印象などを述べる。
I remember one time John _________________.
5. 遺族の方の強いところや支えになりそうなところを言う。
I know how much you will miss John. I encourage you to draw on your strength and the strength of your family. I was impressed with the warmth and courage you and your family showed while John was in the hospital. 
6. サポートを申し出る(具体的)
If you ever need to talk to someone, please don't hesitate to get in touch with me at the hospital.
7. 最後に望み・願いなどを表わす。
May God bless you and your family during this time and always,
もしくは
I hope that the days ahead will be filled with peace and comfort,
Kevin Seaver,
Chaplain, St. Luke's International Hospital

2012年5月9日水曜日

snapshot of a patient visit

I get a call from an Internal Medicine Resident about a patient, an American woman, who would like to speak with a chaplain.

I don't get all that many requests from patients, and almost never from English-speaking ones. I'm worried about my English sounding natural enough!

I go in the late afternoon and find the patient sitting up in bed, reading. As she tells me about her terminal-stage brain cancer, I am looking at the cover of the book, a detective novel by Elizabeth George called "This Body of Death." Hmm...

I sit with the patient for as long as it takes for her to get around to her real issue. She wants to die well, to "hold it together" until the end, and is finding that she lacks the emotional resources to do that.

No easy answer to that. God, I worry about the same thing. Dying like an ass. Afraid I'll be found out for what I really am.

I listen for a long time, praying for grace in one part of my brain.

The patient is Catholic, so at the end I offer to pray with her. We say the Hail Mary together and she is sobbing and shaking.

Later, I suggest to the medical team that they get a Psych consult. She still has time left. Maybe some drugs can help restore a bit of balance, so she can reconnect with the person she is or wants to be, just a little more resilient.

2012年1月17日火曜日

dr. hosoya's haiku (i)

Dr. Hosoya, Chief of Pediatrics at the hospital, asked me to translate his haiku used in a new documentary about him, called "Daijoubu (It's Going To Be Okay)". It's heading to a film festival in Europe soon.

Here are some of the results:

がんの子の
 おはなし会に
  銀やんま
silver dragonfly
 eavesdrops on the conference of
  children with cancer
Backstory: A scene from the camp Dr. Hosoya helps run, for children diagnosed with cancer.

フラッシュで
 星を撮る子もみて
  キャンプ
starry night at camp
 a child's camera points up
  and clicks, flash goes off
 Backstory: After the evening bonfire, a girl was taking pictures of the night sky using the flash setting.

生キ死ニのはなしを
 子らに 油照
hot day with children
 talking about life and death
  sweltering stillness

みとること
 なりはひとして
  冬の虹
this is my calling
 keeping watch as children die
  rainbows in winter

颱風の中
 モルヒネの
  効いてゆく
little one passing
 morphine starts to take effect
  typhoon winds raging
Backstory: Sitting vigil with a dying child, alleviating her suffering.

窓に子の
 息それぞれに
  夜の冬
frosted window pane
 trace of many little breaths
  a winter's evening
Backstory: Another camp scene

悲しき時のみ
 詩をたまふ神
  雁渡
only in sorrow
 are poems sent from Heaven
  passing flights of geese

2011年12月29日木曜日

言えること、言えないこと

病院のブレストセンター年末「まとめの会」における、この一年間で亡くなられた患者さんのために一言祈るように頼まれた。

喜んで引き受けた。が、その祈りの内容でちょっと戸惑うことがあった。すなわち、イエス・キリストを主、また救い主として受け入れていなかった人のために、どう祈ればいいか、ということ。

わたしにとって新しい問題ではないが、いろいろ考えさせられた。祈祷書の殆どの祈りは信徒の逝去を前提に書かれている。一つだけ「洗礼を受ける機会がなかった者のため」というものがある。
万民の主、全能の神よ、洗礼によってみ子イエス・キリストの死とよみがえりにあずかる機会を得ないでこの世を去った人たちを顧みてください。どうか主の深い慈しみのうちに彼らを守り、主の全きみ旨を成し遂げてくださいますように、み子、救い主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン
いい祈りだと思うけど、病院の会議という設定で、患者さんと同様にその場にいる殆どの人たちもノンクリスチャンだし、わざわざ洗礼を受けたか受けなかったかという話をするのは、ちょっと乱暴すぎるかな、という気がする。

でも内容は適切だと思う。つまり、聖書を大事にする教会では、ノンクリスチャンの最終的な行く先について言えることと言えないことがある、ということ。

まず言えること、そして大きな声で言うべきことは、これである:

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)
だから、どんな状況でも、神の憐れみに信頼をかけることができる。神のみ心は、すべての人々が救われることだ、ということ。そのために神は、どのタイミングでどの方法でその人その人に働きかけてくださるかは、計り知れないものだと思う。でも、一人一人の人が救われる、真理を知るようになることは、神が望んでおられることだということは確実である。

が、しかし、だからと言って、すべての人は無条件に救われるかというと、それはやはり否定しなければならない。イエスご自身はその可能性を否定なさったのである。
「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける」(マタイ25:32)

さらに...
  • 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:26-27)
  • 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」(ヨハネ14:6)
  • イエス・キリストの「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録4:12)
ほかにもたくさんある。しかも、上記の「すべての人々が救われることを望んでおられる」というみ言葉の引き続きはこれである:
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(1テモテ2:5)
 
だから?救いはイエス・キリストによるものである、と言わざるを得ない。イエスを主、救い主として受け入れる人は「神の子となる資格が与えられ」(ヨハネ1:12)、「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)のである。

それなら、ノンクリスチャンには、果たして望みはあるだろうか。

もちろん、ある!イエスはすべての人の罪のために命を捧げられた。そして:
「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)

結局、わたしたちすべての人の望みの根拠になるのは、神の慈愛のほかならない。

自分の正しい生活とか、何かの決まり文句を一度口にしたことがあるとか、誰かが頭の上に水を注いだことがあるとか、そういうことが天国へのフリーパスになり得ない。

神の驚くべきほど大きな大きな愛の恵みによって、そしてイエス・キリストを通して、人は救われ得るのである。

その恵みが過去、現在、また将来存在するすべての人一人一人に明らかに促されるときがある。そのタイミングは、何とも言えない。生きている間だの、死という区切りを迎える瞬間だの、死んでからのどこかだの、人間には分からないことである。

だから、亡くなった患者さんのためにもちろん祈れるし、祈るべきだと思う。神の慈愛を確信して、そのみ手にゆだねるべきである。すべての命を授かってくださった神は、必ずその命の上に全きの愛のみ胸を行いますように!

ちなみに、ブレストセンターの祈りは次のように考えてきた。いかがでしょうか。
ブレストセンター逝去者記念の祈り
全能の神、すべての命の源である主よ、この世においても次の世においても、主の憐れみと慈しみは絶えることはありません。わたしたちがその治療に関わってきた患者さんのために、主は、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えて世話してくださっていることを知っています。神よ、特にこの一年間で亡くなられたブレストセンターの患者さんを覚えて祈ります(ことに___)。この患者さんを初め、世を去ったすべての人をその創造主、また救い主である神のみ手にゆだねます。主の限りない憐れみと知恵と力をもって、彼らの上に主の全きの愛のみ旨を成し遂げてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン 

2011年12月24日土曜日

愛に強いられて(ヨハネ3:15、イザヤ53:4-5)

クリスマス・イブ礼拝
2011年12月24日(土)午後7:00
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂


クリスマスについて一言お話させていただきたいのですが...その前に、キリスト教を代表して日本の皆さんに向かって、イエス・キリストの誕生日をこんなに盛大にお祝いくださって、心から御礼を申し上げたいと思います!素晴らしいですね。

毎年、日本ではクリスマスがどんどんにぎやかになってきている気がします。イルミネーションだの、クリスマスコンサートだの、パーティーだの、そしてもちろんあっちこっちの店のビッグセールがあります。先週、友人がたこ焼きを買いに行ったら、たこ焼きの「クリスマスパック」なんてあったらしいです!わざわざイエスさまのためにそんなのを...

まあ、正直、何でここまで盛り上がっているかちょっと分からないのですが、教会では、クリスマスという祭りを大事にするのは、キリストの誕生によって、人間は何であるか、神は誰であるか、生きることの意味は何であるかについて大事なことが示されるからです。
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でもまずちょっと違う話をさせていただきます。2-3ヶ月前にある女性と出会ったら、彼女からとても不思議な話を伺いました。(実は、今夜いらっしゃるかもしれません。)ご本人から許可をいただきましたので、少し分かち合いたいと思います。

この女性は脳腫瘍があると診断され、大手術を受けることになりました。手術自体は約10時間かかりました。後で分かった話しですが、手術中、2回も命がとても危なくなったそうです。

でもご本人の経験は全然違いました。ご本人は、麻酔で意識がなくなった後、気づいたら、光に包まれて手術台から浮かび上がっていると言うのです。自分がいる場所は広大な大聖堂のようなところで、壁と天井は真っ白。

そして彼女はどんどん天井に近づいていきます。下を見ると、実は天使に運ばれているのだと分かります。天使は体に触ってはいないけれども、持ち上げているのです。

そして天井が開きました。すると、見よ、上にとても明るい、暖かい空が広がっています。そして彼女は高く上がれば上がるほど、体のすべての痛み、心の辛さ、すべての不安と悩み、すべての苦しみが消えていってしまいます。すべての苦悩から解放されるのです。そして、彼女には分かりました――その明るい空に立ち昇れば、この上ない幸せになるのだ、ということ。

彼女はもう行きたくて仕方がありませんでした。何も怖くなかった、と仰るのです。

ところが、そこでご自分を待っている家族のことを思い出しました。彼女のことを大事にして、手術をとても心配してくれている人。お別れをしたらとても悲しむ人。彼女は、彼らの悲しい顔が見えました。

そこで、もう帰らなくちゃと思ったわけです。心配になって。そして見ていた場面が消えると、気が付いたときには術後室にいました。
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この話を伺ったとき、この人は愛に強いられてこの世に戻ってきたのではないかと思いました。

とても感銘を受けた話です。でも似ているようなことはほかにもあると思います。誰かを愛するとき、自分自身にとても強い「けん引力」がかかってしまうのだと思います。親しい人、特にその人が困っていたり、不安になったり、痛みを覚えたりすると、わたしたちは愛に強いられてその人のところに引っ張られるようなことがあると思います。

小児病棟でも、こういうことがよく見られます。白血病と闘っている子どもの病床から離れることのできない父親、母親がいます。自分たちの健康に気を使わないことが多いので、注意しないといけません。

緩和ケア病棟でも見られます。時折、長い間重い病気と闘ってきた人は、「もう行ってもいい」という思いがあります。でも同時に、未だに大事な人のところに思いが寄せられています。残された人のことばかり心配しています。

日常生活でも、もっと小さなところで同じことがあります。子どもが転んで怪我したときとか、親しい人が悩んでいるとき、苦しんでいるときとか。近寄りたくなるのです。手をつないだり、抱っこしたり、何か言葉を掛けたりしたい。どうにかして慰めてあげたい。良くしてあげたい。

わたしたちもこのように愛に強いらることがあるのです。
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人生の最もつらいことの一つは、良くしてあげたいけれどもどうしようもできないことです。大事な人が慰めを、癒しを必要としているのに、わたしたちはそれを与えられないこと。

それは、単純にこちらには助ける能力がない場合もあります。あるいは、その人から距離的、もしくは精神的に離れていて、相手がわたしたちから助けを受け入れる状況ではない場合もあります。

でも助けてあげたい気持ちは変わりません。こういうときに、人はたまにはすごいことを言います。
「できれば主人の代わりにわたしが上司の怒りの矢面に立ちたい。」
「その人は君ではなくて僕に八つ当たりをすればいいのに...」
「子どもに代わってわたしが癌になりたい。」
「彼女が助かるなら、わたしはもう、死んでもいい...」

このすごさが分かります?つまりそういう人は、愛する人のためなら困難を選ぶ。自ら進んで苦しみを受け入れる。命でさえ惜しまない姿勢を取ろうとしています。できることなら立場を交換したいのです。

人間の愛って、本当にすごいものだと思います。そこまで愛に強いられることがあるのです。

もちろん、残念ながら人と立場を交換することはあまりできません。殆どの場合は、人を救う力がわたしたちにはないのです。

ただ一緒にいて、共にいることで慰めて支えることしかできないのです。
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聖書によれば、人間は神にかたどって造られた。神の姿に似せて造られているのだと言うのです。

逆に考えれば、人間の性質・本性は神の性質・本性の影に過ぎないわけです。意思の自由とか、自分自身を意識していることとか。何よりも愛し得ること。これらの「人間らしい」性質は神の性格を示唆しているものだという話です。

それなら、もし小さくて不完全な人間は、時折このような偉大な愛を示すことができるのであれば、神の完全な愛は遥かに偉大なものだと考えざるを得ないと思います。

わたしたちは、親しい人が怖くなったり、悲しんだり、苦しみ悩んだりするとき、近寄らなければならないと強く感じます。まして神は、不安、悲しみ、苦悩に暮れているこの世の人たちをご覧になるとき、どういう思いがあるのでしょうか。

聖書は言います:「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)
  
神のみ子がこの世に来られたのは、苦しみ悩んでいる人たちと共にいるためでした。つまり、わたしたちすべての人間です。わたしたちみんな、ある程度この世の悲しみ、悲劇に巻き込まれているのです。争い、暴力、欲張り、病気、貧困問題がはびこっている世界、しかも大勢の人々の苦痛に無関心でいられる人の心のむなしさに満たされている世界に生きている限り、これらのことにある程度巻き込まれてしまうことです。

神は、愛を込めてお造りになった人たちがこういった困難、困惑に打ちひしがれているのを見ていられなかったのです。神も愛に強いられて、わたしたちに近寄り、共にいることによって慰めることを決められたのです。

イエス・キリストは近寄ってくださる神の愛そのものです。実は、イエスの一つの呼び方は「インマヌエル」となっています。その意味は、「我々と共にいてくださる神」なのです。

でもクリスマスはそれだけの意味ではありません。神のみ子は、わたしたちと共にいるだけではなくて、わたしたちの苦しみを共有するために来られたのです。

キリストは天の計り知れない喜びを脇において、わたしたちの苦悩をご自分のものにして、同じ人間として、人類の一員として同じ生涯を送るために来られたのです。

クリスマスはキリストの誕生を記念する日ですが、やがて十字架の上でそれは重大な局面に達しました。その最期の日、イエスは苦しむ人間と完全に一体化されたのです。腐敗した当局から迫害を受け、仲間に見捨てられ、拷問を受けて十字架にはりつけにされました。生まれたときよりも全く頼りない。体を動かすことすらできない。自分を助けることもできないのです。

しかもこれこそ、イエスがお選びになった運命でした。避けようとしたら十分避けられました。でもそうなさらなかったのです。どうして?愛に強いられていたからです。イエスは困難を選び、自ら進んで苦しみを受け入れ、命でさえ惜しまれなかったのです。それは、わたしたち人間を救うためでした。

そうなんです。つまり、わたしたちがしてあげたいと思ってもできないことは、イエスにはできました。それは、わたしたちと立場を交換することです。ヘンデルの「メサイア」に出て来る預言者イザヤの言葉(53:4-5)は次の通りです:
彼が(=神がお遣わしになった救い主が)
担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。 
彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの[迷っている心]のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
 わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 
クリスマスは、神のみ子、この世に派遣された救い主の誕生日をお祝いする祭りです。イエスは「我々と共にいてくださる神」なのです。苦しむとき、怖いとき、つらいときなど、いつどこでもイエスは共にいてくださるのです。

でも、クリスマスのもっと深い意味は、キリストがわたしたちを解放することができる救い主だということです。罪や罪悪感の重荷から解放できます。むなしい世の中に生きる不安と悩みから解放できます。そして大きな慰めと平安を、今、部分的に、そしてやがて完全にもたらしてくださるのです。

今夜わたしたちは天から降って来た愛、わたしたちから離れていられなかった愛をお祝いしています。わたしたち一人一人に近寄り、いやしてくださる愛を感謝し、お祝いしているのです。

2011年11月4日金曜日

赤ちゃんの英知

2011年11月、病院の職員向けの月報「明るい窓」に搭載される「チャプレンからのメッセージ」

父親になる前は、あまり赤ちゃんに注意を払わなかった。男性はそんなに触れ合う機会がない、実は。可愛らしいものだと思っていた。子犬や小人図鑑のフィギュアみたい。でもそれほど興味がない。

しかも、臭いオムツとか、泣き叫ぶこととか、親が寝不足になるとかを聞くと、その可愛らしさがなくてもいいのかな、とも思っていたのである。

ところが一人目の赤ちゃんが生まれて、初めて新生児との付き合いが始まった。抱っこして寝かせたり、その小さな呼吸音を聞いたり、ミルクを飲ませたり、胸に乗せて二人で昼寝したり、肩に乗せて散歩したりするなど、いろんな新しい経験ができた。

確かに山ほどの臭いオムツを替え、泣き叫ぶ声に耐え忍び、慢性寝不足を我慢しなければならなかったが、あまり気にならない。

赤ちゃんはすごく面白いから。謎のかたまり。いつ見ても飽きない。

しかし、やがて赤ちゃんは成長して小さな人になる。それでも一緒にいるのが楽しいけど、不思議さは確かに少なくなる。

最近、教会の祭りで、友人の7ヶ月の娘を抱っこして歩き回らせてもらった。その子は全く人見知りせず、抱かれるがままになってくれた。

(思い切りアジア人の顔をしている女の子をいろんな人に見せて「ほら、次女だよ。似てるでしょう?」と紹介して、その一瞬戸惑う表情を見るのも一つの楽しみだった...)

赤ん坊というのは、どんな状況に置かれても、その現実を素直に受け入れることは、実に不思議。そして親への完全な信頼も不思議。

成長していくとこどもは周りの環境を変えようとするようになる。自分に力がないから、周りの人を動かそうとする。うるさく願い続けるとか。脅してみる。罪悪感を抱かせてみる。論理的に主張してみる。「いいもの交換」の取り引きをしてみる。大人と変わらない。大人はただもっと上手になるだけ。

また、こどもはその親を疑うことを学んでいく。なぜかというと、してほしいことをしてくれるときもあれば、してほしいことよりも「すべきこと」をしてくれるときもあるから。

とにかく、いつの間にか、置かれている環境は変え得るものとして見るようになる。そして周りの人は、完全には信頼できない者として見るようになる。

ところが、この成長過程をたどっていく中で何か大事なことを見失ってしまうのではないか、と考えるときがある。

赤ちゃんは生まれながら、ある意味で悟りを開いていると思う。知識でも、情報でも、理屈にかなった推論でもなく、ある種の直感を持って生まれるのだと思う。

例えば、自分を越えた存在があり、その存在によって自分が生かされていることが分かる。その存在を知る前から、知られていた、自分に名前が付いていることに気づく前から、名前が呼ばれていたのだ、ということが分かる。

また、助けや慰めを求めて叫びをあげたら、必ず誰かがそれを聞き入れてくれる、と。

そして、何があっても最終的には大丈夫だ、ということが分かる。痛み、空腹、恐怖、悲しみ、孤独を一時の間味わうかもしれない。が、やがてすべてが大丈夫だ。見捨てられることはないのだ、ということが分かるのである。

たまに、赤ちゃんを抱っこさせてもらうことがあると、大人である自分が何か大事なことを見失っているのではないのかな、と思わされる。

そして、その大事なことを取り戻す方法はないだろうか、といろいろ考える。

2011年10月27日木曜日

a call to arms (luke 4:14-21)

St. Luke's Hospital Anniversary Service
October 26, 2011 3:00 p.m.

(Note: This address was given at the worship service celebrating the anniversary of St. Luke's International Hospital. On this occasion, employees who have worked 10, 20, and 30 years were recognized, as were volunteers who have served from 100 hours to 22,000 hours. In attendance were the chairman of the board, the president and vice-presidents, and various department heads, as well the long-term employees recognized and many of the 380 volunteers who serve the hospital.)

We just read about Jesus declaring war.

Like many a politician, at the start of his public career Jesus returns to his hometown, to Nazareth, the place where he might expect his strongest support base. There, he gives his inaugural speech. He goes public with his agenda, lays out his vision for the road ahead.

And the vision he lays out is one of war.

But what kind of war? Not the kind of war his fellow countrymen were hoping for, one that would liberate them from the yoke of Roman imperial oppression. Not the kind of war that involves airstrikes, or guerilla attacks, or indeed any shedding of enemy blood. Not the kind of war that involves the toppling of governments or the seizing of territory.

Not that kind of war. But if not that kind of war, then what kind? Look at what Jesus says:
"The Spirit of the Lord is on me, because he has anointed me to proclaim good news to the poor. He has sent me to proclaim freedom for the prisoners and recovery of sight for the blind, to set the oppressed free, to proclaim the year of the Lord’s favor" (Luke 4:18-19)
So, he's talking about fighting a war against grinding poverty; against debilitating sickness; against physical, emotional, and spiritual bondage; against social oppression and injustice. In other words, it is a war against the powers of darkness that rule the human race with an iron hand.

What do all these things have in common? They distort the human person. They make it impossible to live humanly, in freedom. Jesus is going to war to restore the human person, a being with dignity and value and purpose. A being, in short, made in the image of God.

This is the fundamental understanding revealed to us by God in the Bible: Every human person is a being of great wonder and irreplaceable value, beloved by his Creator, made with care and intent.

At the same time the Bible reveals that every human person, and humanity as a whole, is set upon by powers of darkness, powers that work against God's purposes and seek to deface and destroy God's creation. And, precisely because human beings are created in God's image and endowed by God with dignity and value, these powers of darkness strive hard to rob us of our humanness.

This is the understanding revealed to us by the light of Holy Scripture.

These powers of darkness wage battle on many fronts. They work through individual sin and moral weakness and greed, through self-interest and a disinterest in the suffering of others. They work through injustice, and social evils such as strife, hunger, poverty. They work through so-called tragedies such as sickness and natural disasters.

Jesus at the beginning of his career stands up against all these forms of evil and declares: No more!

And every thing Jesus did from this point on in his life was a full-scale assault on these forces of darkness. He healed the sick. He set free those who were in bondage to evil spirits. He befriended the friendless. He comforted the grieving and those who were afraid. He hung out with people society considered worthless, the losers. He taught generosity in the sharing of material blessings. He condemned leaders who failed in their duty to protect the weak.

This was Jesus' lifework, his mission, his war.

It is our war, too. This hospital was founded to be a stronghold, an outpost in the war against the powers of darkness that threaten the human person. So, as a hospital we are also called to fight, taking our cue from Jesus Christ: 
  • We are called to carry out medical approaches that foster health, cure disease, and aid long life. 
  • We are called to alleviate pain and improve the quality of life of those who suffer. 
  • We are called to help patients and their families face the end of life with courage and dignity. 
  • We are called to help realize the physical, emotional, and spiritual flourishing of each patient, in their particular family and social contexts.
All of us have roles to play in this mission. All of us are part of the fight for the dignity of the human person. Medical teams, the support staff that make it possible to provide care, the volunteers who bring such warmth and humanity into the clinical environment.

So this hospital is called to engage in the war. But so is each one of us. We fight back against the powers of darkness whenever we, as individuals, take hold of the life we have been given, and respond with gratitude in service to others. Each of us can become an outpost of light in the darkness when we use our God-given talents and time in the service of human flourishing.

God gives wisdom and courage to those who are willing to join in the fight against the darkness. Once again, let us pray together for that wisdom and courage, and ask God's blessing on our work in the year to come.

参戦せよ!(ルカ4:14-21)

聖路加国際病院記念・福音記者聖ルカ日礼拝
2011年10月26日(水)15:00

今、読ませていただいた聖書は、イエスが戦争を宣言なさるところでした。

多くの政治家と同じように、イエスはその公の活動の始まりに当たって、その故郷、一番支持率が高いと思われる故郷であるナザレに戻り、そこで立ち上げの演説をされます。そのアジェンダを明かされます。将来的なビジョンを打ち出されます。

そして、その打ち出された将来的なビジョンは戦争だ、ということです。

しかし、どのような戦いを話しておられるのでしょうか。その同胞のユダヤ人が待ち望んでいたような、ローマ帝国の圧政からの解放につながるような戦争ではありません。また、空襲とかゲリラ攻撃など、敵の血を流すような戦争でもありません。また、政権を打倒したり、領土を奪回したりするような戦争でもありません。

そういう戦争でもないなら、では、どういう話なのでしょうか。イエスの言葉を見てみます:
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)
要は、苛酷な貧困に対する戦い。重い病気に対する戦い。身体的、精神的、スピリチュアルな束縛に対する戦い。社会的抑圧や不正に対する戦い。つまり、人類を厳しく支配している暗闇の力に対する戦争の話なのだ、ということです。

イエスが話しておられるこれらのことの共通点は何なのでしょうか。いずれも人間を歪めることだ、ということです。これらのことによって人間らしく生きることが殆ど不可能になるのです。だからイエスは、人間の本来の姿を取り戻すために戦争を始められるのです。尊厳を持って、生きがいを持って生きる人間、つまり神にかたどって造られた人間の回復のための戦いなのです。

聖書において神が啓示してくださっている根本的な人間理解はこれです:一人一人の人は不思議で掛け替えのない存在である。その造り主にトコトン愛されて、訳があって、たんせいを込めて造られた神の作品である、と。

同時に聖書が教えてくれるのは、一人一人の人間、そして人類全体は、暗闇の力に襲われているのだ、ということです。神に執念深く反対して、神によって造られたすべてのものを堕落させ、破壊しようとする力に。そして人間は神にかたどって造られ、神からその尊厳と価値が与えられているからこそ狙われているのだ、と。暗闇の力はその人間らしさを奪い取ろうとせっせと働くのだ、と。

聖書に照らされて得られる人間理解はそういうものです。

こういった暗闇の力はさまざまな戦線で攻撃をかけます。個々人の罪や弱さや欲張りを通して、あるいは利己心や他人の痛みに対する無関心を通して働きます。構造的な不正や抑圧、または争いや飢饉や貧困という社会的問題を通して働きます。また、病気や天災などいわゆる自然な悲劇を通して働くのです。

イエスは公の活動の始まりに当たって、これらの悪に立ち向かって:もう十分だ!と宣言なさるのです。

そして、この時点からイエスのあらゆる行動は、こういった暗闇の力への全面攻撃でした。病気の人を癒されました。悪霊に取り付かれていた人を解放されました。友のない人の友となられました。社会から疎外されている人、いわゆる「負け組み」の人々と付き合っておられました。悲しんでいる人、苦しみ悩んでいる人を慰められました。物質的に恵まれている人に物惜しみしない喜びを教えられました。弱き者を守らないリーダーたちを激しく非難されました。

これはイエスのライフワーク、その使命、その戦いでした。

わたしたちの戦いでもあります。この病院は、人間の尊厳をおびやかす暗闇の力に対して、確固たる要塞として、前哨地(ぜんしょうち)として設立されているのです。したがって、この病院に関わっているわたしたちは、イエス・キリストに倣って、いろいろな形で戦うよう求められているのです。 
  • 人々の健康を促進し、病を治して、長寿の助けとなる医療を行うよう求められています。
  • 痛み・苦しみを緩和して、病気にかかっている人のQOLを上げるよう求められています。
  • 患者さんやその家族が、勇気と尊厳を持って人生の最期を迎えることを支えるよう求められています。
  • 一人一人の患者さんの置かれている家族環境、社会環境で、その身体的、精神的、スピリチュアルな幸福(well-being)を支えるよう求められています。
このミッションにおいて果たす役割がわたしたち一人一人に与えられています。人間の尊厳のための戦いはわたしたちの戦いです。医療チームも、その質の高い医療を可能にする職員も、臨床の環境に人間らしいぬくもりをもたらしてくれるボランティアも。

だから、この病院は参戦するよう求められているわけです。しかも、わたしたち一人一人もそうです。わたしたち個々人が授かっている命をきちんと受け止めて、感謝をもってそれに応答するとき、他人に仕える形でその恵みに応えるときは、暗闇の力に反撃するときです。わたしたち一人一人も、神からいただいている賜物、才能を人々の幸福のために生かすとき、暗闇の中の光の要塞になり得るのです。

暗闇への応戦に加わろうとする人に、神は知恵と勇気を与えてくださいます。わたしたちは、これからの一年間に向かって、その知恵と勇気を求めて、わたしたち一人一人の働きの上に神の豊かな祝福をお祈りしたいと思います。

2011年9月1日木曜日

見舞いの場で言っちゃいけないこと

だれか知人が病気にかかったときや入院したとき、見舞いに行ってあげることはとてもいいことである。なお、病人の見舞いはクリスチャンとしての義務でもある。

ただ、病床の場で何をどう話せばいいか、迷う人は少なくない。病院のチャプレンとしても、迷うことはよくある。

何を話せばいいかというよりは、まずふさわしくない話について考えたい。下記の発言は病室でやめた方がいいと思う(と言いつつ僕はいずれもどこかでしたことがある):
1.「元気?」
思わず言ってしまうバカな発言だね。元気だったら入院していないはず。でもこのように挨拶されたら、いくら大変なことになっていてもたいていの日本人は「ああ、元気」と返すのが、実に不思議なことである。
2.「元気に見える」
外見についてのコメントはやめよう。あまり意味がないし、入院中の患者さんはルックスを気になっても管理する余裕はない。しかも、見た感じと心の状況は懸け離れている可能性は十分ある。
3.「良かった!もっとひどいことにならないで済んで...」「まあ、少なくとも足もう一本が残っているさ」
患者さんはそういう見方ができたらいいけど、病気をどう受け止めているかは人それぞれ違うのだから、ほかと比べるのは一切しない方がいい。病そのもの以外の目に見えない苦痛があるかも知れない(例えば、この病気で将来の夢が台無しになった、子供のときに同じ病気でお父さんが死んだ、今までぎりぎり間に合っていた仕事での立場はどうなるか、などなど)。明らかに快方に向かってきたときに「助かってよかった」とはOKだと思う。
4.「実はうちのおじいさんも同じ病気だったのだ...」
家族や知り合いの中で同じ疾患にかかったり、同じ治療を受けたりしても、あまりそういう話を病室でやめよう。(特にその結果は良好ではなかった場合!)患者さんとあなたの知っているケースは、似ていても全く一緒だとは限らない。自分自身の経験なら、ちょっとだけ触れてもいいかも知れないが、たった今、その状況の最中にいる患者さんのことを中心にすべきであろう。
5.「わたしが知っているすごいキノコのお茶をぜひ飲んで欲しい」
治療に関することは、医者に任せよう。実際に病院で、患者さんの病状を中途半端しか分かっていないにも拘らず、いろんなアドバイスをする素人は驚くほど出て来る。気持ちは分かるが、余計の世話に過ぎない。
6.「何か手伝えることがあったら言ってね」
殆ど無意味な表現になる(僕はしばしば言ってしまうけど)。患者さんはすでに自分の無力さを痛感している。特に日本人は、プライドからか恥ずかしいからか、なかなか人に頼みはしない。だから「何かあったら教えてね」と言わず、自分からできることを積極的にしてあげる。こっそりとするか、「○○するからね」と報告するような形で援助を申し出る。ご飯を家に届く。庭の水遣りをする。放課後の子供を家で面倒を見る。猫の世話をする。
7.「きっと大丈夫」
分からないことを口にしない。自分に言い聞かせて、自分を慰めようとしているとしか思えない。患者さんは医者の診断を聞いているから、見舞い客の根拠のない診断はいらない。

逆にかけてあげたい言葉
1.「顔を見たくて来ただけで、すぐ帰る」
みたいな表現。訪問時間を短くしよう(長くても10-15分。患者さんが特に疲れたり、苦しんでいたりするときはもっと短め)。お客さんが来て嬉しくても、エネルギーがかかる。治るために使いたい。
2.「会社・学校・近所・教会の最新情報を聞きたい?」
患者さんはやむを得ず疾患や治療の話ばかりしている。一時的でも病を忘れさせてくれるような「外の世界」の話を聞けるとありがたいかも。ただし、長々と話すのは気をつけよう。
3.「何を言ったらいいか、分からない」
状態が重ければ重いほど、言葉が出て来ない。正直に迷っていることを言うべき。相手もどう関わればいいか迷っているだろう。それを一言で明らかに認めてから、たわいない話や沈黙に入っても、その雰囲気はだいぶ違う。
4.「大変だね」「気の毒だね」「あなたのことを心配しているよ」
本音で一言でも話してあげることは非常に有意義なことになり得る。日本人はあまり心の深い思いを口にしない傾向があるが、やや不器用でも何らかの形で思いを伝えてあげると心強い。

上記の4.と関連するけど、患者さんにとってスキンシップは大きな効果がある。普段、握手する習慣がなくても、病院以外の状況ではそういうことは一切しなくても、例えば帰りに握手してあいさつするとか、軽く肩に手をおいて笑顔で話すとか。手を握って短い祈りをするとか。傷やさまざまな措置に注意しながら温もりのある触れ合いには非常な、言葉にまさる力がある。

まとめてみると、何よりも自分らしくいることがキーだと思う。「あなたのことを大事に思っている」とわざわざ病院に寄って、言葉と笑顔とスキンシップをもって患者さんに伝えることは、病の孤独を乗り越えるのにとても役に立つ。

「効く言葉」や「正しい言葉」はない。その場で元気付けることのできない状況はある。空っぽの慰めは逆に虚無感につながる。

その場にいることがポイントである。病の暗闇の最中でも、患者さんは一人ぼっちではない。それさえ伝われば、見舞いに深い恵みがあると思う。

2011年8月28日日曜日

オール・オア・ナッシング

聖霊降臨後第11主日(A年・特定17)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年8月28日・10時30分 聖餐式

そろそろ秋。学校は、始まっているところがあります。教会も(神さまは夏休みはなさらないけれど)8月はわりと静かですが、そろそろ信仰生活を改めて見詰める時期。個々人として、及びコミュニティとして。(来週、チャペルの求められているホスピタリティについて考えます)。

聖パウロは信仰生活のビジョンを描いてくれています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」(ローマ12:1      

まず、この「こういうわけで」とは、どういうことでしょう。今までパウロが話していたのは、遠ざかっていた人たちは、神の憐れみによって神に近寄ることができている、ということです。11章の最後:
「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、
 今は...憐れみを受けています。 
 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
 だれが、神の定めを究め尽くし、
 神の道を理解し尽くせよう。 
 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
 神に向かっているのです。
 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:30, 33, 36

さて、こういった「神の憐れみによって」わたしたちはどう生きればよいでしょうか。遠ざかっていて、神の愛から離れていたわたしたちは、神の憐れみによって、そのみ子イエス・キリストを通してウェルカムされている、いつまでも神につながっているので、どう応えるべきでしょうか。

12章では、パウロが信仰生活のビジョンを描いてくれます。おもに三つの側面があります。

I. オール・オア・ナッシング
まず最初に、弟子であることはオール・オア・ナッシングの問題です。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」12:1

「自分の体」。聖書では、「体」はその人全体、全人格、そして自分が送る人生全体を表す単語です。だから聖書によれば、日曜日と平日の違いはありません。最終的には肉体と魂を分けて考えられません。

わたしたちはクリスチャンとして、自分の一部分だけを神に捧げようとすることはよくあります。自宅を売りつつその中の部屋に「立入禁止」という掲示を貼るような感じです。

キリストが教えてくださった祈りでは「日ごとの糧を今日もお与えください」となっています。それは、神が日常のすべてにご関心をお持ちだからです。わたしたちの人生のあらゆるところが良い知らせの対象となっています。神はわたしたちが自分のすべてを捧げて欲しい。思いも、話し方も、関わり方も、キャリアも、様々な選択も。そうすれば、神はわたしたちのすべてを癒し、祝福してくださるのです。わたしたちが捧げないことは、神は祝福なさらないのです。

エフェソのクリスチャンたちにパウロがこう書きました。わたしたちは「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15

要は、12章の1節でパウロがこういうことを言っていると思います。
「皆さん、神の助けを得てこういうことに頑張って欲しいです。すなわち、皆さんの日常生活――つまり寝て、起きて、食べて、働いて、走り回っている日々を神への供え物として捧げなさい。神に一番喜んでもらえることは、日々の生活の中で神の恵みと神のご計画を受け入れることです」

オール・オア・ナッシング。わたしたちはすべてを神に捧げます。神はすべてを癒し祝福してくださるのです。

II. 戦いであることを覚悟しなさい
それからパウロが言っているのは、信仰生活は戦いであることを覚悟しなさい、ということです。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」12:2

世の中にいながらイエスに従うことは、戦いです。困難と摩擦が必ず伴われます。すべての福音書ではイエスが仰っています。「世があなたがたに対立するなら、その前にわたしに対立していたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18。マタイ10:22、マルコ13:13、ルカ21:17参照)。

摩擦が生じるのは、イエスに従うこと=世のやり方に従わないことだからです。弟子は違う道を歩むのです。視野を狭くしたりヘンテコリンになったりするわけではありません。が、「変わっている人」と思われてしまうことにひるまないことです。みんなと違う選択をすることで理解してもらえないときがある、軽蔑されるときもあることを覚悟することです。み国の価値観は世の価値観とは違います。重なるときもあれば、全く異なるときもあるのです。

この2節でパウロがこういうことを言っているのではないかと思います:
この世の型に押し込められることをやめなさい。何も考えずに、周りの人たちのやっていることに合わせてはいけない。むしろ、神をじっと見詰めなさい。そうすれば、あなたたちはうちから新たにされ、変えられていくのです。神の求めていることは何であるか理解するように努力して、それに積極的に応えなさい。周りの社会はいつもそのいいかげんな生き方に倣わせようとしているけれども、一方、神はあなたのうちにある素晴らしさを引き出し、一人前の人間に仕立ててくださるのです。

これは決して安易なことではないと思います。わたしは、毎朝、着替えながら主の祈りを唱えます。「み国が来ますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と言ってからだいたい30分以内にこの世の型に押し込められてしまいます。我が先で、慌しくて、気を散らされたもう一人に。

だからこそ、毎朝「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」ということをも祈っています。四方八方から悪魔に悩まされてしまうのです。つまずかせようとしています。悪魔はとても機敏で、その人その人にあった誘惑をもたらすのです。人によって甘いものだったり、いけない雑誌だったり、意地の悪い思いだったり、噂話だったり、お金に関する選択だったりして。

しかしながら、21世紀の日本社会に住んでいるわたしたちにとって、共通して気をつけないといけないところがあると思います。クリスチャンとして、わたしたちは流されないように精一杯立ち向かわなければならないと思います。

A. 一つは、子どもに対する態度だと思います。日本は、実施される中絶の数において、世界のトップクラスに入ります。子どもにとって、母親の胎内でさえ安全でないことが多いわけです。

だけど実際にこの世に生れる子どもたちの間でも、お家が安全でないことがいかに多いことでしょうか。この一年間、病院の小児病棟に何人か、親から虐待を受けた子どものケースがありました。一生の体の傷を受けている子もいます。全員、当然心に深い傷を受けています。

このようなニュースは毎週のように耳に入ります。つい昨日、大阪で7歳の子どもがずっと虐待を受け、やがて暴行で殺されたというニュースがありました。残念ながら全く珍しくない話です。

でも報道される話だけではありません。先日、結婚を考えている女性と話していて、殆ど毎日夜12時前に帰ることがない仕事をしながらどうやって子育てができるか、と悩んでいたのです。わたしは「それは無理です」とずばり言いました。それはある種の育児放棄だから、そういう仕事をやめてから子供を考えなさい、と言いました。

少なくとも、彼女は悩んでいました。自分の子のクラスメートの間で、下校して夕方7時、8時、9時まで一人で留守番する子は1人だけではありません。両親は何を考えているでしょうか。借金でもあるかも知れません。もしくは、快適な生活やいい旅行や私立学校のためにお金をためているかも知れません。会社での立場を失いたくないかも知れません。

分からないけれどもいずれにしても子どもの心はどうなるのでしょうか。愛情に包まれている安心感。お父さんとお母さんにとって何よりも大事な存在だという自覚。

今の日本社会においてこそ、クリスチャンの両親だけではなくて、子どもたちとの関わりのある人――つまりわたしたち全員が気をつけないといけません。経済的な余裕、キャリア、自己実現などを子どもよりも大事にする社会に倣ってはいけないのです。

子どもたちは、神からの贈り物です。わたしたちに託されている聖なる責任です。神は特に弱い者、無防備な者に心を配られます。なおさら弱くて無防備な子どもたちはそうです。

B. もう一つ要注意なところは、人間理解です。世の中で、人間の命は、その生産性や役に立つことによって評価されがちです。

何も生産しない、もう役に立たないと思われる人は、では、価値がないのでしょうか。例えばアルツハイマーを患っている人。寝たきりになっている人。知的障害のある人など。こういう人たちは社会から除外されるべきでしょうか。実際にそう訴える人はいます。

生産しない人、「役に立つ」と思われるようなことができない人はどうも「迷惑」とされる傾向は日本に強いと思います。こういう考えをうのみにしている人が緩和ケア病棟に入院すると大変なことになります。当然、生きたいという望みはあります。愛する人とできるだけつながっていたいのです。でも同時に非常に不安。生きることそのものが周りの人に迷惑に過ぎないと感じるからです。生きる価値がないと思ってしまいます。だから鬱っぽく、早く終わりにしたいと嘆いて最期を迎えるのです。

役に立たないと思われる人生をできるだけ早く終わらせる動きはどんどん盛んになっています。今は、ヨーロッパで最も著しくなっていますが、アメリカと日本は同じ方向に進んでいます。

わたしたちは気をつけないといけません。命を粗末にしてはなりません。人間の尊厳は、神にかたどって造られていることにあって、役に立つかどうかとは関係ありません。

III. 素直に自分を見詰める
最後に、パウロは、自分自身を素直に見詰めることを進めています。
「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」12:3

他の人の弱点を探すのが得意であるのは、わたしだけではないはずです。逆に、自分自身の粗削りのところは見逃しやすいです。

皆さんは、人生で今何をしているのでしょうか。どこに向かっているのでしょうか。いつまでも時間があるわけではありません。皆さんは分かりませんが、自分の場合は、なりたい自分、神に望まれている自分と今現在の自分との間のギャップがあることを痛感しています。かなり大きなギャップです。

自分のことで、気づいていない欠点は何でしょうか。神の恵みによって変えていただくべきところは何でしょうか。魂の庭で生えている雑草は何でしょうか。

こういう雑草を見極める、現実的な目で自分を見詰めるスキルは信仰生活に必要不可欠。ここで、昔からの習慣として、毎日の振り返りが非常に役立ちます。5分でもかけて、去った一日を振り返って、神の恵みが働き掛けていたところはどこだったのか、み心に応えていなかったときはいつだったのか。

もっともっと話すべきことがありますが、ここまでにします。パウロは、イエス・キリストに従う人生・信仰生活のビジョンを描いてくれています。このような信仰生活は難しいです。たまには不便で、つらいことがあります。でも、この上ないやりがいがあるので、挑戦してみませんか。

2011年7月7日木曜日

Masu smiled

I sometimes pray with a man on the hospice floor, I'll call him Masu, who has some of the saddest eyes I've ever seen. I often suddenly recall his eyes when I'm in the middle of doing something else.

In clinical terms, Masu isn't depressed per se. He's just profoundly uneasy, feels lost in the cosmos. His wife passed on several years back, and, I don't know the details, but his daughter is not a supportive presence in his life now.

Masu has some church background, though probably not so strong. When I pray with him, he often puts his face in his hands and cries quietly.

He's a grown man, but something about him reminds me of a boy who got left behind somewhere by accident. Time has passed, the panic and hysterical wailing have died down, and now he's just tired, and sad, and scared, and wondering if he'll ever get home again. Wondering if things will ever be all right again.

Today, there was a small celebration of Tanabata, the Star Festival, in the ward. Tanabata is a typical Japanese syncretic mishmash of Chinese legend, wish-making, and laid-back summer celebration.

We--me and the music therapist, a female student doctor, some volunteers--sat around the ward Common Room, singing Japanese folk songs and drinking cold green tea. At first, no patients came. Everybody's energy level is pretty low at the moment.

But the music slowly drew them. First, Kubota-san and his rheumatism-ridden wife, both in wheelchairs. Then the taciturn Kawai-san and her middle-aged daughter. Then Masuda-san, looking bewildered as usual, accompanied by his wife and four thirty-something people whom I guess are his children.

And then Masu came in, pulling his IV pole. He's really tall! He's always sitting in bed when I see him, so I didn't know. He was looking quietly sad today, too.

There's a whole culinary category in Japan of "sweets that go well with bitter green tea". So there was a small spread of 'mizu-yohkan' (sweet redbean paste jelly), and dried apricots. There were also these cute little pastel colored cubes of sugary powder wrapped in tissue paper called 'o-higashi'. They melt in your mouth.

At first, Masu just sat, listening. I asked him if he had any song requests, but he didn't. He didn't want tea, either, but the volunteer brought him a glass anyway. He didn't touch it.

And then the student doctor offered him one of the o-higashi cubes. At first, Masu just let it sit in front of him.

As I listened to the next song, I watched out of the corner of my eye as Masu carefully unwrapped the tissue paper and put the sugar cube tentatively in his mouth. He seemed to stop moving for a moment. Then he took a sip of the tea he had refused earlier.

And then, he started to reach for another cube. The student doctor noticed, and said, "Tasty, aren't they?"

And Masu smiled. Like a golden glow that suddenly broke out all over his face. The sheer delight of the sweet delicacy, a perfect complement to the cool green tea. "Yes, it is," he said, and he looked pleased and even slightly naughty as he quickly put a second cube into his mouth to melt.

Amid all the sorrows of hospice, there are clear moments of joy, small happinesses that would probably pass unremarked in normal circumstances. I hope that today held such a moment for Masu.

I know that seeing him smile was a joy to me.

And I am grateful for the power of delicious food, which can sometimes reach even the saddest heart.